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「やっぱり皆、成田さんに憧れてたりするんですか?」
凪はそろそろと尋ねてみる。千紘と出会う前は、カリスマ美容師になんて興味なかった。そりゃ一度くらいカットをお願いしてみたいとは思ったが、1年待つ程ではないとすぐに諦めがつく程度だったのだ。
しかし、千紘が美容師としてどれほど凄い人間なのか。凪は何となくだがほんの少しだけ興味が湧いた。
「そりゃそうですよ! お客さんが美容学校通い始めたりするくらいですからね」
緒方は、ははっと笑いながらも力強く頷いた。
「え? 美容師目指してってことですか?」
「そうです。他店で美容師やってる人が面接にくることもありますし、実は俺も学生時代に成田さんに髪切ってもらって就職決めたんですよ」
「へぇ……なんか、倍率高いって聞きましたけど」
「ああ、そうです。面接が三次まであって、県外からも受けにくるんで」
「三次!?」
「いやー、ドキドキでしたね。よく受かったなって思いますよ」
いや、マジでよく受かったよな。
凪はそう思いながらチラリと目を開けて緒方を見上げた。
「あ、大橋さんよく受かったなって思ってます?」
「いや、別に……」
凪は久しぶりに苗字で呼ばれた気がした。毎日仕事で源氏名を名乗っていると、本名を呼ばれること自体少ない。
プライベートだったとしても、付き合いが長くなれば自然と名前で呼ばれることも多かった。自己紹介してもいないのに最初から本名で呼んできた千紘は論外である。
「いや、いいですよー。俺もそう思ってますから。俺、ほとんど人見知りないんですけど、自己アピールできない人とか、一応美容系なんで自分のオシャレに興味ない人とか、あと個性がない人とかは一次で落ちてましたかね」
「ああ、じゃあちゃんと自己アピールできた人ですか」
「どうでしょう。面接受けた時は結構ド派手で個性的だったからかもです」
そう言って緒方はケラケラと笑う。現在ナチュラルな茶色のミディアムで、ゆるパーマを綺麗にセットしている緒方のド派手な姿は凪には想像できなかった。
「緒方くん、ありがとう。あと変わるから」
話を遮断するかのようにどこからともなく千紘がやってきた。緒方に笑顔で話しかける千紘がまだシャンプーの途中で変わる。
「あ、はい! お願いします」
緊張した面持ちの緒方は、何度か頭を下げてその場から離れた。その瞬間、ぐっと身を屈めた千紘が「俺以外の男と随分楽しそうにしてたね」と凪の耳元で呟いた。
凪は目を見開いて千紘を見上げた。ニコニコと口元は上を向いているが、ドス黒いオーラが体に纏っているのが見えた気がした。
「は、はぁ!? 何言って」
凪は否定してその場から逃げ出そうとするが、シャンプー台はほとんどフラット状態で、頭を後屈させた状態である。
当然身動きなどできるはずはなく、浴室で拘束された場面を思い出した。
「凪ってば酷いなぁ。俺にはあんなに楽しそうにしてくれないのに」
しょぼんと寂しそうにシャワーのお湯を出しながら千紘は言う。
「お前といて楽しかったことなんかないだろ」
「え? 楽しかったじゃん。いっぱいイチャイチャ」
「あー! ん゙ん゙ん! ゲホゲホッ」
千紘の声をかき消すかのように凪はわざと喉を鳴らし、咳き込んでみせた。水音と凪の咳払いに千紘の声は途切れたが、その代わりに「恥ずかしがり屋さん♡」と甘い声が聞こえた。
ぞわっと凪の全身に鳥肌が立った。
「やめろ」
「ふふ。髪流してくからねー」
ゆったりとした千紘の声。声だけなら低音で心地良さすら感じる。しかし、言うことなす事悪魔のように兇悪なのだから全く安心などできない。
緒方よりも大きな手は、凪の小さな頭蓋骨をスッポリと包み込む。
「凪、頭小さいよね」
「お前の手がデカいんだろ。つーか、シャンプーなんかしてる場合なのかよ」
「なんかって言わないでよ。こんな絶景を他の男に見せるなんて耐えられない」
「一々気持ち悪いよな、発言が」
「印象に残るってこと? 嬉しいなぁ」
「お前の脳内変換バグってんぞ」
「凪のことで頭いっぱいだからね」
「……」
何を言っても無駄なのは今更のこと。凪は言い返すのもバカバカしくて、あっさりと口を閉じた。
それが面白くなかったのか、千紘は目を閉じてシャットアウトする凪の耳に軽くシャワーをあてた。
「っ……」
通常、シャンプー時には耳に湯が入らないよう濡れるのを避けるものだ。それを直接あてられたものだから、凪は驚いて声を上げそうになった。
水圧を軟骨部分に感じる。少し熱く感じたお湯に、ゾワゾワと皮膚の下を虫が這っていくかのような感覚を得た。
「やっ、めろよ!」
千紘の舌によって集中的に耳を攻められたあの時を思い出す。甘噛みして、舐め上げて、唇でつまんだ。
その度にゾワゾワと体が震えてそれに耐えた。
「凪、耳弱いからね」
余裕そうな千紘は、平然とシャンプーを洗い流す。大きな手で頭を包み込み、お湯をたっぷり含ませて洗っていく。
凪はじとっと目を細め、千紘に睨みをきかせた。
コイツ……わざとやりやがった。しかも耳弱いとかなんだよ。なんなんだよ! あん時だって嫌だっていってんのに何度も何度も……。
つーか、耳攻められたのなんかあん時が初めてだったし!
何もかも千紘のペースで納得いかない凪だが、そっと目を閉じて一々反応するのはやめた。
そんな凪の内心を知ってか知らずか、千紘は無言で流れるように二度目のシャンプーに進んだ。
モコモコと大量の泡が立ち、凪の頭を覆った。千紘が指を大きく広げると、凪の頭皮に指の腹を押し当て、少しずつ解していく。
丁寧なマッサージは、凪が今まで味わったことのないほど心地良いものだった。
うわ……なに、これ。気持ちいい……。アシスタントの方が数こなしてるはずなのに全然違うわ。
思わず凪が心の中でそうこぼしてしまうほど、適度な指圧でゆっくり、ゆっくりとほぐされる。
凪の呼吸が穏やかになると、上から見下ろしていた千紘はふっと口角を上げた。あんなにも警戒していた凪が、自分に触れられているにもかかわらず完全にリラックスしているのだ。
歓喜しないはずがなかった。
首の付け根はとても凝っていて、筋肉が凝り固まっているようだった。そこを押せば、少し眉を動かしながらも気持ち良さそうに目元の力を抜いた。
「気持ちよさそうだね」
ほんの少しからかうつもりで千紘がそう言えば、凪は気の抜けた声で「ん……気持ちい」と呟いた。