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素直に「気持ちいい」と言った凪の言葉に千紘はすっと瞼を持ち上げた。
「そんなわけないだろ!」
そう悪態をついてくることを想像していたものだから、千紘は驚かされただけでなく自然と口元が緩んだ。
ほわほわと温かい気持ちを抱きながら丁寧にマッサージしていく。
自分で自分の客にシャンプーするなんて何年ぶりかな、なんて考えながら凪の頭の形を覚えるようにして頭皮に触れた。
上から見下ろす凪の顔はとても整っていた。寝顔を散々堪能したが、会えなかった数日間は隠し撮りした写真を見ては凪のことを思い出し、今日という日を楽しみにしていたのだ。
拒絶されることはわかっていた。それでも今、身を委ねてくれている現実が嬉しくて仕方なかった。
シャンプー剤をお湯で流し、トリートメントまで終えると、千紘はフェイスタオルで凪の頭を包み込んだ。
「はい、お疲れ様」
「ん……」
眠そうに目を開けた凪は、起こされたシャンプー台から立ち上がる。細身の足がスラリと伸び、千紘は自分より少し小さなその体を後ろから見つめた。
「眠そうだね」
「普通に寝不足」
ふわっとあくびまでしている。よっぽど気を抜いていたのか、素の凪が垣間見えた。ずっと警戒されたままだった。千紘は、米山や緒方に見せるようなプライベートな姿をようやく自分にも見せてくれたような気がした。
「マッサージしてくね」
千紘が座った凪に声かければ「は? それもお前がやんの?」なんて顔をしかめた。
「そんなに嫌なの?」
「嫌だけど、それよりお前自分の客は?」
嫌なのね。ポツリと心の中で呟いた千紘は、「俺のお客さん目の前にいるけど」と言いながらミストを頭皮に吹きかけた。
「俺まだ米山さん指名」
「次から俺」
「もう来ないって」
「絶対来させるよ」
「はぁ……どっからくんだよ、その自信」
凪は呆れたように息をつく。こんなにも美容院を変えると言っているのに、また来させるの一点張り。
そんな千紘は頬骨を引き上げ、余裕そうに目を細めると「俺の技術と実力」と言ってニヤリと笑った。
自信満々な千紘は、一瞬目を奪われるほど輝いて見えた。さすがカリスマと言われているだけあって、米山や今まで指名してきたどの美容師にもないオーラを感じた。
う……。なんだよ、コイツ。一丁前に美容師みたいな顔しやがって。いや、美容師なのか……。
凪はむーっと顔をしかめながら、ふいっと顔を背けた。そんな猫みたいな態度に千紘はふふっと笑みをこぼしながら襟足をタオルで拭うと、長い指先を使ってマッサージを開始した。
頭皮は軽めに、首から肩にかけて解していく。肩は思っていた以上に凝っていた。
体を駆使する仕事なだけに仕方がないことだとは思うが、相手をマッサージして自分が凝るなんて本末転倒だと千紘は思う。
かく言う千紘も毎日何十人という客のカットをこなすため、指の使い過ぎで何度も関節炎を引き起こしていた。その都度注射を打ったり、手術してる暇なんかないと突っぱねて痛みに耐えたりと苦労を乗り越えてきたのだ。
仕事内容が違うとはいえ、何かに特化した仕事というのはリスクが伴うのは当然のこと。千紘はそう思いながら、指先に力を入れた。
「はい、終わり」
「ん……」
お前がやんのかと言っていたわりに、またしもうとうとと目を閉じていた凪。お泊まりコースで寝てきたと言っても所詮は客と一緒に寝るのだ。安眠など出来るわけもなく毎日寝不足だった。
「さて、カットしてくよ」
まだゆっくりと瞬きしている凪を他所に、千紘はハサミを右手に取った。
「凪これから仕事?」
「うん。あと2時間ないくらいで」
スマートフォンの画面を見れば既に2時間が経過していた。パーマもかけてカラーもしたのだから当然だ。
「おっけ。じゃあ、セットまでするから」
「あー、別に乱れるからいいんだけど……」
「身だしなみ重要でしょ。商品なんだから」
そう言われれば凪はうっと顔を歪ませた。別にそこまでカッコつけなくても次もリピートしてくれる客なんだけどな……なんて思ったことは口にはしないが、凪は「まぁ……じゃあ、してく」と渋々頷いた。
凪の髪色はまだ髪が濡れていることもあり、黒っぽく見えた。パーマも水を含んだ重みで緩く下がっている。色もパーマの強さも千紘に好き勝手され完成系が見えない凪は、カットも委ねる他なかった。
千紘はハサミを持って構えると、左手で凪の髪を持ち上げ刃を向けた。それは舞を踊るかのように優雅で、けれど目で追えないほど速く動く。
「速っ……」
唖然とした凪が思わずそうこぼしたほど。千紘は集中しながらもふわっと微笑み、髪をサラッと持ち上げては切るを繰り返す。
本当に形がわかってて切ってんのか。そう凪が疑うほどにスピードについていけない。
1分も経たない内にハサミを置いた千紘。
「これが俺の名物ね。動画撮りたがる子もいるんだよ~」
なんてのんびりと言いながら凪の髪をバサバサとかき分けて、切った髪を払っていく。
「え? 終わり?」
「うん」
「ちゃんと切った?」
「失礼だな。切ったよ」
笑いながら言う千紘に納得いかない凪はしかめっ面で鏡越しに彼を睨んだ。そんなことなど全く気にしない千紘は、ドライヤーの電源を入れて凪の髪にあてた。
持ち上げながら乾かしていくと、パーマの湾曲が浮き出てくるようだった。しっかりとかかってはいるが、なんとなく自分がしたかったイメージとは異なった。
「何色? これ、青?」
「うん。ブリーチでだいぶ色抜けてたからね。入りそうだったから入れた」
黒っぽく見えたが、乾いた髪に光が当たると紺に近い青が輝いていた。
「色抜けてくるとまたちょっと印象変わるから。放置するとまた髪傷むから来月ちゃんと来てね」
「来ねぇっつったろ」
それとなく誘導させようとする千紘にくわっと険しい顔で凪が言う。ははっと楽しそうに笑いながらワックスを手に取る千紘は、「セットしてくね」なんて言いながら仕事をこなす。
「前髪とトップは束感だした方がいいよ。全体的にワックスつけて、形整えてく感じね」
丁寧に説明しながら、凪の髪をセットしていく。千紘の白い肌が、凪の暗めの髪に映えて見えた。
難しそうに見えるが、千紘の指先は器用に形を作っていく。注意点を聞きながら、凪もいつの間にか「ふーん」と感心しながら興味深そうにセットの方法を頭に叩き込んだ。
「はい、完成」
そう言って千紘は、ぽんっと凪の両肩に手を置いて軽く体重を乗せた。
「重てぇな」
凪は顔をしかめるが、鏡に映った自分の姿を見て目を丸くさせた。来た時と全く印象が違った。凪の整った顔がより強調されるような、しっかりとセットしたにも関わらず、自ら引き立て役に徹したようなそんな感覚。
凪はその時、この美容院を紹介してくれたセラピストのことを思い出した。全くの別人に見えた、その髪型だけで印象が変わる魔法のような技術を見せつけられた気がした。