じりじりと灼けるような日差しが、日焼けを知らない肌に照りつける。つい先週までは肌寒いくらいだったのに。と、ベスト姿の叶は唸った。
アスファルトに干からびたミミズが目立っていて、並木の陰にはトカゲが尻尾を見せていた。
「もう夏だねェ」
声の主、厚手のカーディガン姿の青年葛葉も、シャツの襟でぱたぱたと音を立てて口を開く。葛葉の額にも、薄く汗が光っている。
ふたりはもう七月に入ったにもかかわらず、丈の長いスラックスにそれぞれ露出を避けた格好で、傍から見ていて少々暑苦しい。
急にこんなに暑くなるのが悪い、と叶は思っていた。汗が滲んで貼り付いた前髪が鬱陶しい。
舗装された歩道を見ながら、そういえば田舎のこの季節はミミズの死体が風物詩になるんだと思い出した。
「やっば……進路希望表まだ出してない」
隣で全く同じように項垂れていた葛葉が、突然大げさに嘆く。
端正な顔立ちに、艶やかな銀色の髪の隙間から覗く真紅の瞳は、ひとを惹きつける物がある。そんな彼の言動は、しかし緩みきっていた。
「迷ってるの」
と叶が訊ね、「ん、いや、」と葛葉が口ごもった。
「迷ってるっていうか……う〜ん、面倒臭い」
曖昧な答えに笑った顔で頷くと、葛葉は「暑い」と眉根を寄せた。それきり、その話は終わる。
「あっつい」とか「溶ける」だとか、中身のない会話を楽しみながら、通学路を辿る。
背後で、蟬(せみ)の初鳴きが聴こえた。
テストが終わって夏休みまであと3週間。夏休み前の気だるさが、静かに叶に忍び寄っていた。
高校2年の夏が始まる。
数学の教師が、「はーい。お疲れー」と、合わせづらい号令を掛けた。クラスメイトが口々に挨拶をする声に重なって、昼前のチャイムが鳴る。
途端、騒がしくなる教室の隅に、叶は目を遣った。音をたてて仕事にいそしむクーラーの下で、葛葉は机に貼り付いていた。
「おーい。葛葉ぁ?」
弁当を掲げ、熟睡中とおぼしき頭にコツンとぶつける。
「ん…」
「お昼だよー。お弁当!」
お、べ、ん、と、う、と一音一音間延びした叶の声に、葛葉が素早く上体を起こす。
やべ、寝そうになってたわ。あっぶねぇ。
お決まりの常套句で叶を笑わせつつ、葛葉は菓子パンを机に並べた。
せっせと箸を動かしながらの、お昼の時間。
この時間は叶にとって誰にも侵されることはない、特別な時間だ。
さして学校は好きではなかったが、葛葉と駄弁るためならつまらない授業もいくらでも耐えられる。
そう思うことにしている。と、心の中でそっと付け足す。
「やばいよ〜。進路希望表先生に急かされてるんだけど」
「お前もかよ………生徒会本部役員が粗相してるって。え、てか今日、叶、臨時中央委員会とか言ってなかった」
葛葉の問いには答えないまま、予定表に目を通した叶が悲痛な声を上げる。
「本当!え、うそやだあ」
「じゃあいっしょに帰れないじゃんっ」
視線を戻すと、葛葉が飲み干したいちごミルクのカップをストロー伝いにべこべこさせて、不満を訴えていた。
いっしょに帰れなくて残念だといった感情を3割と、微笑ましそうな苦笑を7割。難なく表情を作って見せて、叶は心底何とも思わない自分に吐きたくなった。
「ごぉめぇえん!じゃ、じゃあ明日!明日、放課後遊びに行こ?」
ね、と首を傾げて見せる。自分の中にいる悪魔が、数センチほど顎の角度を引く。
「放課後ぉ?やだぁ…………あっついし」
上目気味の視界の中で、葛葉はわざとらしく肩をすくめた。しかし、葛葉のこの仕草が照れ隠しであることもまた、叶は計算済みである。
協議の結果、案の定ふたりで遊ぶ事に決まり、叶は葛葉の部屋でゲームに付き合う約束をした。他人の家が苦手であることはおくびにも出さずに、嬉しい顔を作る。
最近、時たま感情が死んでいるのではないかと自分で思うことがある。また、そんな感情を無視して、「楽しみやねぇ」と呟いた。
対して葛葉は、叶の考えなど知る由もなく、緩んだ顔で「アイス食べたい」と話を逸らしていた。叶も喜んだ様子の葛葉を見て、嬉しくなる。
そして、自分のその感情に吐きたくなった。
本日二度目の炎天下で帰路を辿りながら、深く吐息をつく。通学路の坂道には陽炎がのぼっていて、人ひとり居ない。
例の中央委員会と言えば、三十分ほどで終わった。その程度で終わるなら開かなくてもいいのではと内心で毒を吐き、再び鼻を抜けるような溜め息を一つ、零した。
今日鳴き出した蟬は、気がつけば複数鳴っていて、閑静な通学路を小うるさくしていた。
バスを降りてから汗が止まらない。一秒でも早く冷房の下に避難するため、元々大きめの歩幅を更に速くして歩いた。
それからアパートの階段を踏み、部屋の玄関に鍵を挿してから、ようやく帰宅が許された。
部屋には誰もいない。叶が小学三年生の時に父は事故で亡くなり、それから母はひとりで叶を育てている。平日は帰宅が遅く、基本的に連絡はない。今日もまだ帰ってはいないようだった。ひとまずくつろげる。
昼前の熱が籠もった部屋で鞄を放り捨て、扇風機を付ける。風が通るよう北側の窓を開け放ち、クーラーを働かせた。夕方の柔らかな風が、肌を撫でていく。
動くたびに汗で貼り付く髪や、冷えはじめてひんやりとする皮膚の濡れた感じが気持ち悪い。汗を大量にかくと椅子に深く腰掛けたくなくなるのは昔からの性癖だ。纏わりつくものが気持ち悪いので、立ったまま喉を露わにして水を飲む。今すぐシャワーを浴びたい。
家は嫌いではない。むしろ、好きだった。表情を作ったり、感情を偽ったりせずに済む。叶にとって気の抜ける、数少ない場所だ。
そして、自分にとってここも居場所ではないことを意識する。また、吐きたくなる。
夜、母が帰ってくる。昨日より一段とやつれた顔を見て、叶は悟ってしまう。
今日は、”悪いとき”。
帰ってきた母から視線を離さないでいるままの叶に、面倒臭い、とでも言いたげな表情で一瞥した。
「何。私、疲れてるの。あぁ〜、もうなに、腹が立つわ!」
やはり、母の機嫌が悪い。
『疲れてる』の溜め息の混ぜ方、思い出したら苛立ち始める怒り方。
母は、父が事故に遭う少し前から父の浮気に気づいていて、逃げるようにしてこの世を去った父を恨んでいた。今もその怒りは凄まじく、叶に気に入らないことがあれば父の名を出して、絶叫する。
『あなた、お父さんの真似をしてるのね!?』
『アイツはあんたが大事なときに、何処ぞの女と遊んでるのを隠してっ……!終いには反省のひとつもせずに死にやがった』
『あのときは叶が小さかったから私も言わなかったけどね。今じゃ後悔してるよ。お父さんみたいになるな、って、甘やかさずに言えばよかったね』
『最悪っ!どこであの悪魔の真似を覚えたのっ』
父はもうとっくに亡くなっている。顔も覚えてないひとを真似するだなんて、出来るわけがないのに。
その度に降り注ぐ理不尽な刃のような言葉を、静かに受け入れる。
そうしなければ、生きていけなかった。
「そうだね………ごめん」
一ミリも納得出来ていないばかりか、もう価値も見いだせなくなった謝罪の言葉は、しかし馴染みきって滑るように出てきた。
なんなの、にそっくりな短い音を鼻で鳴らして、母は寝室の方へ向かった。
そして理不尽を受けながら不満の一つも言い出せない自分に怒りを覚えながら、きちんと吐きたくなった。
ドアノブを回すと、トイレの中の、腹の底が重くなるような暑い空気がむわりと纏わる。
あまりの暑さに窓を開け、出来た隙間から入り込む風で涼んだ。途端、蝉の鳴き声がより大きくトイレに流れてくる。
夜の匂いがした。
膝頭に涙が落ちた。いくら学校では誰にも愛される優等生を演じようと、どれだけ家で息を潜めようと、ひとりにもなれば涙は溢れてきた。堰を切ったように溢れた涙が、流れては落ち、流れては落ち。
膜一枚覆われた硬い心の隙間から、一滴、また一滴と、溢れていく。
これが溢れきってしまったらどうなるんだろう、と考えた。そのとき涙は枯れてしまうんだろうか。そのとき僕は、生きていけるのだろうか。わからない。
わかっている事と言えば、ただひとり、人を騙して、人垣の中心にいようと孤独なまま、ひっそり生きていくのだろうということだけ。
「死にたい」
血がもう一滴。誰にも見えないところで溢れた。
「すずしーィー!」
「わあああっホントだ!!」
ドアを開け放った途端、隣で絶叫した葛葉につられて、一緒に叫ぶ。
葛葉の部屋はすっきりとしていて、床に置いて在る物と言えばゲームのコントローラーくらいだった。そして、とても涼しい。
足早に部屋をずんずん進んで、お馴染みの葛葉のパーソナルスペースともであるそれに、迷いなく陣取った。
「はい、ここ僕の特等席!」
「あぁっ!ずる、俺のベットぉ!」
と言いつつ、なんだかんだふたりで仲良く分け合う。
ああ、他人の家だ、と思う。ひとの家は嫌いだ。
笑っている叶の顔にかなり強めにクッションが飛んでくる。
ひとの匂い___良い匂いがすること。そのしっかりと手入れの行き届いたクッションの匂いに、頭がクラクラする。
ゲームをする。共感性の強い葛葉が、攻撃されたキャラクターと共に「いってぇ!」と叫んで、画面を睨んでいる。不意に、彼の母の声がした。
「あら、叶くんじゃない。いらっしゃい。お菓子用意しといたわよ」
友達の家族が、『ちゃんとしている』こと。
母が、優しいこと。
葛葉の母はきつい香水の匂いはしないけれど、石鹸の匂いがいつもしていて、そして笑ったときにできる目元の皺が優しそうだった。
羨ましい。
「わあ!ありがとうございます。いつもお世話になっていて。お母さんのお菓子美味しいし」
ね、葛葉?と訊くと、葛葉はそっぽを向いて恥ずかしそうにコントローラーをカチカチしている。かあさん、いま子供だけで遊んでんだから。あら〜はいはい、お邪魔しちゃったわね。
羨ましい羨ましい。
「はあ…やっと行った…………あれ、叶?」
葛葉が顔を覗き込んできた。
しまった、ぼうっとしてた、という顔を作って言う。
「………いや、お前のお母さん美人やな」
「きっしょ」と叫んで、葛葉が息も絶え絶えに笑った。叶も笑顔を作った。我ながら計算し尽くした、完璧な笑顔。
「違う、ちがう!なんかそういう意味じゃない」
楽しい。きっとみんなは、これを楽しいって呼んでる。
それでも明日が来ればまた学校に行かなければならないし、その次の日は週末で休みだ。家で母と、ふたりきり。嫌だなあ、と何処か他人事のように考えて、笑みを崩さないまま身の入らないゲームをひたすら愉しんでいる。
自由に表情を入れ替える葛葉を、叶は羨ましく思った。このひとは、囚われていないんだ、と。
きっと葛葉が僕だったら、母との事なんて、簡単に誰かに泣きながら話せるだろう。
そして、いい子のふりなんて、一生することなく生きていける。しあわせなまま、ありのままでひとの悩みを聞いて救った気になって、そうやって、気持ちよくなるんだろう。
そういう所が大好きな反面、許せなかった。
だから叶は、彼との関係も他の人と同じように薄氷の上に載った幸福のような物だと、毎回確認させられた。
ひとりで居れば心休まる____なんてことは無いが、しかし母が居ればそれだけで地獄になる。
点数だけ見せたときは良かった。その日は、『さすがに、私のかわいい娘然だわ』と、テスト用紙を流すようにして見ながら独りごちていた。
母が叶を、「私のかわいい娘」と呼ぶのは機嫌の良いときの癖だ。
ところが。
「何これ!?」
遅れて返ってきた素点表を見せると、母は一昨日の歓びなどいざ知らず、激昂したのだ。
ふと、気が付く。午前中に渡すのは間違いだった。今日1日の母の怒りを買ってしまう。
その日は土曜日だった。
「130人中、40位って……………………あんたこれ、どういうこと!?」
絶望の中で発した「ごめん」の小さな謝罪は、母の怒声に消された。
「ねえちょっと、返事しなさいよ!?」と髪を引かれて目線を合わされる。思いの外耳元で叫ばれたようで、母の甲高い絶叫がビリビリと耳に響いた。
涙が一筋頬を伝う。それでも母には、叶の涙は視えないのだ。
そのまま叶の額を机に叩きつけると、叶の髪を乱していた手は離れていった。
顔を上げると、束からはみ出た髪が落ちてきて、叶の視界の端に映る。
女の子を育てておしゃれをさせるのが夢だったの、という母に伸ばされた髪が、視界に入るだけで疎ましい。同じく母の意見で手入れされていた爪が、キメの細かい肌に食い込む。
こんなとき、叶の心は小学三年生のあのときに飛んでいた。
母に、叶の涙が視えなくなったあの日。父が死んで、病院から帰ったあの日。
誰かとの電話を切って、突然、母は言った。
『病院に行くよ、叶』
母に手を引かれて車に乗った。病院と言われて、注射を真っ先に思い起こした叶は、自分が病気なのか、なんの注射なのと母に訊ねた。しかし、治療を受けているのは父だと母は静かに言った。
『お父さん…死んじゃうかもしれない』
車の中で、母は父が事故に遭ったとは言わなかった。もしかするとあのとき、もうすでに母は、父が亡くなっていると知っていたのかもしれない。と、叶は考えている。
看護師に案内されたのは、病室ではなく霊安室だった。叶は何が起こっているのか理解できず、困惑して母の方を窺った。
母は____母の顔は確かに、表情が無かった。
怒りも悲しみも見えない真顔を称えていて、子どもながらに恐怖したのを覚えている。
病院に向かう際には気づかなかったが、帰りは妙に長い時間、車に揺られた。家に帰ったら、普段この時間居るはずの父の姿はなくて、父が昨日脱いだコートが目に入った。
そして初めて、泣いた。
母は言った。
『何、泣いちゃってんの……悲劇のヒロイン?』
__泣きたいのはこっちよ。
「……っ」
こういうときこそ時間は遅く流れる。時々怒りの波が来るのか、母は思い出したように叶を罵っていた。ふと時計を見上げると、2時間ほど経っている。
母の癇に障ることはしないよう、依然叶は耐えていた。母の平手が降ってくる。
今朝から水を飲んでいないせいかよろけてしまい、そのまま真横に倒れてしまう。
「あんたなんかっ!産まなければ__」
まさに、ぱちんと乾いた音が鳴り響く直前の事だった。刹那、叶は直感的に思った。
声が遠くなり、母の腕がスローモーションで動いて見える。叶は立ち上がっていた。
____逃げなきゃ。
ざっと机を見渡して、そこにあった財布を掴んで走り出す。「待ちなさい!」と後ろから声が聴こえたが、無視して家を飛び出した。
何処へ行こう、と考えて、ひとまずバス停まで走った。
逃げなきゃ。
どうしよう、と呟いた。自分の格好を確認する。家着代わりだったが、外に居ても違和感は無い服装だ。ひとまず胸を撫で下ろした。
真っ先に来たバスに乗り込む。時刻表も行き先も今はどうでもいいのだ。
どうしてか、普段母にどれだけ強く当たられようと外出すればスイッチが入れ替わるようになるのに、今日は違った。
今まで大切に守ってきた何かが、音を立てて崩れていく。
前の座席の模様を見つめながら、ぼんやり考えていた。僕の家はいつから壊れてしまったのだろう。何も自分から滅茶苦茶にしてやろうとしたんじゃない。ただ普通に生きていたら、僕の家が壊れていった。
外の光景に目を向けて、初めて通学路を辿っていることに気がついた。再びそれがゆっくりスローモーションになり、やがて動きを止めると、若い女性が立ち上がる。金もさして多いわけがなく、知らない土地に行くのは阻まれ、結局いつものバス停で降りた。
同級生とすれ違うことが心配されたが、時間帯のせいか鉢合わせることはないようだ。
叶の行き先は決まっていた。しかしそこへ行ってどうしたいのか自分でもわからない。ただ一言、助けてと言うのは難しい。スマホも置いてきてしまった。急に連絡もせずに家に行って、変に思われるだろうか。
僕がこれまで積み上げてきた信用を崩してしまうのではないか。それは、やだな。こんなときなのに、心から頼れる人間だと親友を認識していない自分にも、たまらなく嫌悪感が押し寄せる。
そうこうしている間に、ついてしまった。庭の広い一軒家が目の前にある。これまで何度だって体感したことのない緊張感に襲われて、インターホンを押すのを躊躇った。
どうしよう。いきなり来て、なんと言おう。しかし、朝から水も一切飲まずにこの猛暑日を徒歩でここまで来た叶は、もう限界だった。倦怠感と、微かに頭痛もしている。
たすけて。
縋るような思いで、ほとんど無意識に呼び鈴を鳴らしていた。バタバタと足音がして、されどいくら待てどもひとが来ない。痺れを切らして、もう一度手を伸ばした。そのとき。
「はーい__」
え、と声を漏らす。出てきたのは葛葉ではなかった。密かに絶望しながら、そんな感情も疲れも隠し通し、外行きの笑顔を見せる。
「あ〜と…葛葉居ますか?」
「あぁ……ちょっと待っててくださいね」
叶が首を傾げると、ちょうど同じくらいの年齢と見える女子は頷いた。まつげが長いせいで、華やかな印象のある、いうなればかわいい子。葛葉、彼女いたんだ。
___どうして?
騙された、と思った。葛葉は以前から叶に、彼女はいらないと言っていたはずなのに。どこかで二面性を悟られたりしたか。葛葉は僕を、信頼していると思っていた。
「は〜い。何〜ぃ」
どこか眠そうな、暢気な声がインターホンから聞こえた。葛葉の声に苛立ちを覚えたのは、それが初めてだった。
「ごめん葛葉、何も言わずに来て。ちょっと出てこられる?」
もう、僕は何がしたいんだろう。出てこなくていいとさえ思っているのに。会いたくないよ。何で出てこないの?ゲームでもしてるの。こんな暑い日に徒歩でここまで来た友達よりゲームが大事なの?それとも彼女?たすけてよ。
「今ちょっと出れない……」
声が遠くなる。
「何で?」
間髪入れずに訊いてしまった。わがままだ。急に来たのはこっちなのに。
矛盾した思考がまるで乳化するように濁って、ぐちゃぐちゃになる。
「何でって……別に…え、なんで叶来たの?」
とうとう、訊かれた。葛葉の声は困惑していた。そもそも出れない理由くらい説明してくれたっていいのに。もう、言ってしまおうか。全部。
くそ、頭が痛い。
「あ〜……ほんと、ごめん急に来て」
もう、疲れた。
「別に、いいけど……」
疲れた。
「いや別に、用はなくて。近く通ったから。暇だったら遊ぼ〜…って」
もうどうでもいい。
「…ああ、ね」
「迷惑だったね。じゃあごめん、また今度ね」
葛葉の返事を待たずに背を向けた。頭痛が酷いし、吐き気もし始めている。どうしような、と考えながら、段差でよろけた。これ、本当に危ないかも。
スマホさえあれば救急車でも呼びたくなるくらい。それでも不思議と飲み物を買おうとかいう思考にはならなくて、ぶらぶらと近くの公園に来てしまった。
なぜここを選んだのかはわからない。以前葛葉が補習をサボるついでに遊んだからだろうか。ここで待っていれば葛葉が来てくれるような気がする。そのくらい、ふたりが一番気に入っている公園だった。
ベンチに腰掛ける勢いで、そのまま頭を載せた。まだ太陽はほとんど真上にあったが、しかし身体はかじかんだような頼りなさがある。その上吐き気が凄まじい。
無理に決まっているのだと今更気がついた。僕は、どこかで葛葉が家に上げて、ふたりきりで話を聞いてくれると信じていたのか。そんな馬鹿な話、あるわけないのに。
母の話を誰にもしたことがないわけではなかった。中学生の頃は特に誰かに話したくて、その頃の友達には何人か家の事情を知っている者がいる。しかし、いずれも叶が望む反応は示さなかった。母のことを話した途端、皆言葉少なになり、必ず下手くそに気を遣う。
そのうち親友だと思っていたひとりは言った。
『ああ…なんかその話前もしてたよね』
気まずそうに顔を顰めて。
当時十三歳だった叶は、家族の話を外で語るべきではないのだと悟った。
何度この家に産まれなければと思ったことか。母を嫌悪すればするほど、その矛先は自分にも向いた。大嫌いなひとの血が流れた身体を、呪った。吐きそうになった夜は何度もあった。
でも、誰もその夜の僕を知らない。
だから、葛葉も知らない。
抱いた淡い期待は、時間の経過に沿ってゆっくり裏切られていた。ぶらんことベンチしかない公園だ。掃除の男性と犬の散歩に来た女性以外に、ひとの姿は見えない。
もう、帰ろう。そう思って立ち上がったとき、体がよろけた。平衡感覚が遠のいて、嘔吐感に思わず口を覆う。汗はもう出ないようだった。
家に帰るのが精一杯なので、仕方なく道路に出た。光を柔らかく反射する稲穂に沿って、道を歩く。途中で見慣れない民家の間を縫っていることに気が付いたが、踵を返す気力も無い。
ずっと、鬱陶しかった。自分の肉体に宿る重みが。重力から離れる日を、待ち望んでいたようだった。どこへ行けば自由になれるのか、叶は知っていた。
眼の前に、側溝がある。覗き込むと、濁った水が流れを作っている。
水面に映った顔へ、何度も呑み込んだ物を吐いた。
「死ね」
ずっと、鬱陶しかった。自分の肉体に宿る重みが。重力から離れる日を、待ち望んでいたようだった。どこへ行けば自由になれるのか、叶は知っていた。
眼の前に、側溝がある。覗き込むと、濁った水が流れを作っている。
水面に映った顔へ、何度も呑み込んだ物を吐いた。
「死ね」
今なら行ける、と思った。側溝の縁に手を載せる。
今なら行ける。今度は言い聞かせるように口にした。”手段”の中でもこうするのが最も苦しむといつか聞いたが、今はどうでもいい気さえした。
今なら行ける。
一生孤独で、いい。この流れの激しい水だけが、そっと僕の苦しみを共有してくれるから。
あたりを見回しても、人はいない。たとえ失敗に終わっても、無遠慮な同情に苦しめられたりはしない。
____やれる。
体重を投げ出した。
そこは、蛹の中だった。
もう吐きたくはならなかった。
どのくらい時間が経ったかはわからない。
生暖かい流れに身を任せながら、ここが僕の居場所だと、確かにそう、思った。
食べ物も飲み物も断たれた____小さい頃に読んだ本の、冬眠や蛹によく似ている。
ああ、温かいな。
名前を呼ばれた。
『____え』
『__なえ』
『叶!』
____お母さん。
『大丈夫か!?おい、心配しただろ』
____お父さん。
『もう、私達が見てないときに泳いじゃダメって言ったのに…』
そうだった。ごめんなさい。
僕はお父さんとお母さんと、プールに来てたんだった。
『……叶?』
あれ?
僕は何を____
名前を呼ばれた。
「〜〜〜〜ッ」
葛葉の声。
____おい。
もう一度、名前を呼ばれた。
「起きろよ…っ!!」
「っ!」
目に飛び込んだのは、視界いっぱいに広がるアスファルト。それと、白い何か。…なんだろう、これは。
ああそうか、これは人の__葛葉の指だ。
「叶!」
激しい震えと脱力感がどっと押し寄せ、身体が悲鳴を上げるままに何かを吐き出した。アスファルトに何滴か撥ねたそれが、擦りむいた叶の頬を汚す。
咳の間に挟まる水音と風音が大きくなった。
叶の右手には幅1メートルはある側溝が流れていて、こんな時なのに、これは死ねたなと思った。
手の甲から伝わる地面の燃えるような熱さに、身を震わせる。自分の体温が低かったせいかもしれない。
「従姉弟が帰って、出かけたら、お前が見えて………」
なあ、おい、と葛葉が狼狽える。
「いと、こ……?」
そこで、首の後ろに触れる体温にようやく気が付いた。今の状況が叶にも理解出来た。
やっとの思いで目線を上げると、泣きそうな顔で叶の身体を支える葛葉の顔が。
苦虫を噛み潰したようでは収まらない葛葉の表情に、思わず、言ってしまった。
「死ねなかった」
ほとんど声にならなかった嗄声は、僅かな震えを伴って落ちた。
葛葉の顔から、表情が消える。代わって、肩を包む葛葉の手に力がこもった。すぐに後悔した。僕は葛葉を、傷付けた。
「死にたかったの」
かぶりを振る代わりに頬に流れた涙が、肯定の意を示した。
「お前、なぁ……………そっ…か、だからか」
項垂れた顔は、表情が見えない。
ごめん。何も気付けなくて、ごめん。
葛葉が倒れるように肩に顔を埋めてきた。僕は、死ねなかった。
安堵感と絶望的が押し寄せて、くたくたになった叶から余計に力を奪う。けど。
初めて、泣いていた。
叶は泣いていた。大きな産声を上げて。
その日、叶は産まれた。
近くで、蟬が蛹から孵っていた。アスファルトの端で生き残った、生温い蛹を破って、命が孵った。
「葛葉」と、孵ったばかりの蟬は言う。
「葛葉、ありがとう」
「うん、」
吸血鬼も泣いた。
__うん。
「生きてて良かった」
コメント
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やっべぇ名無しちゃんの物語どれも神だけどなんかもう(?)語彙力失うくらい神(?????
もしかしなくても神小説を読んだようだ。 繋げ方が本当にすごいと思う。尊敬しますぜ