玄関を抜けた時から、胸の奥がざわついていた。
大森の家に入ったこと自体は何度もある。
けれど──「作曲部屋」に足を踏み入れるのは初めてだった。
廊下の奥のドアの前で、大森が振り返る。
「ここね。俺の“聖域”」
いたずらっぽく笑って言うその声に、肩が自然と強張った。
ドアが開かれると、空気が一変した。
香水の甘さやリビングの生活感とは違う、少し乾いた機材の匂い。
壁には吸音材が貼られ、机の上にはパソコンと複数のモニタースピーカー、スタンドマイク。
紙の束には走り書きの歌詞やコード進行が散らかり、ペン先で何度も押し付けた跡が残っている。
まるで舞台裏の心臓部に入り込んでしまったような感覚だった。
「……すげぇな。普段、誰も入れないんだろ?」
「うん。ここだけは、俺の全部が詰まってるから」
答えながら椅子に腰掛け、キーボードを軽く叩く。
その姿が普段以上に神聖で、どこか近寄りがたかった。
だけど、次の言葉で一気に空気が崩される。
「吐息、録ってみようと思うんだ」
「……は?」
「loneliness のイントロにさ、ちょっとした仕掛けが欲しくて。生々しいやつ」
不意にマイクに顔を寄せて、わざと大げさに「ハァ……ハァ……」と息を吹き込む。
「……ほら、こんな感じ。お前の喘ぎ声でもいいよ?」
にやりと笑うその表情に、思わず耳まで熱くなった。
「な、何言ってんだよ」
「冗談だよ、冗談」
軽口を叩きながらも、大森の瞳は真剣だった。
彼にとって「吐息」はただの音じゃない。
歌詞と同じように曲の一部であり、意味を持つものなのだと伝わってきた。
少しの沈黙の後、大森はパソコンの前で姿勢を正す。
「……ただ吐息を入れるのと、実際やるのと全然違うからな」
その一言で、胸の奥が強く脈打った。
“実際やる”──言葉の奥に潜む意味を考えた瞬間、息が詰まる。
赤いランプが点灯し、録音ソフトの画面が動き出す。
「始めるよ」
低い声でそう告げられ、空気が一気に張り詰める。
俺は無意識に息を呑んでいた。
聖域に踏み込んでしまったのだ。
この先に待つのは、誰にも言えない秘密だと分かっていながら。
コメント
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Lonelinessのエピソードキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 今回の作品も言葉選びがすごいです! 主さんが神さまに見えてきました…! 今回も終わりまでしっかり見届けます!
ちょー楽しみ!Loneliness好きだしなにより発想がすごい!!
Loneliness来たぁーっ!!主最高です♪(≧▽≦) Lonelinessのライブの吐息とか本当に大好きなんですよねー!(←キモい笑) めちゃめちゃ嬉しい(*´▽`*)続き楽しみにしてます(*´ω`*)