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ふらつくチョモに気遣い、歩くペースを合わせようとするが、早く、早く病院へ、と焦る気持ちから足が早まる。小さな公園の脇を通り過ぎようとした、その時だった。
「すいませーん、そこのお兄さんたち、ちょっといいですかね?」
背後から、低い声が聞こえてきた。2人の体が、びくりと硬直する。振り返ると、街灯の下に、二人の警官が立っていた。制服が、夜の闇に浮かび上がる。警官の一人が、ゆっくりと二人に近づいてくる。
「こんな時間に、二人で何してるの? 未成年だよね?」
警官の声は、冷静だが、有無を言わせぬ響きがあった。砂鉄は咄嗟に、チョモの体を自分の方に後ろへ行かせた。極度の緊張が走る。
「あの、体調が悪い子がいて、病院に向かっているところです」
砂鉄は、なるべく冷静に、しかし焦りを隠せない声で答えた。チョモの体が、ガタガタと震えているのを感じる。このままでは、チョモがパニックになってしまうかもしれない。もし、ここで身バレしてしまえば……しかもバレなかったとしても補導なんてされたら溜まったものじゃない。砂鉄の頭に、最悪のシナリオがよぎった。
警官は、砂鉄たちの足元からチョモの顔へとゆっくりと視線を上げた。チョモは、砂鉄の背中に隠れるようにして顔を背けているが、熱で火照った額が、毛布の隙間から覗いていた。
「体調が悪い? んー……君たちさぁ、身分を証明できるものは持ってる?」
警官は、ゆっくりとした口調で問いかけた。その言葉が、チョモの耳に届いたのか、彼の体が激しく硬直する。身分を明かせば、自分たちの素性が明らかになってしまう。心臓が、恐怖で激しく脈打った。
砂鉄は、チョモの震える手を強く握りしめた。どうすれば、この状況を乗り切れるのか。この夜間病院までの少しの距離が、まるで果てしなく遠い道のりのように感じられた。
チョモは、砂鉄が握ってくれた手を、不安でさらに強く握りしめた。砂鉄の掌の温かさが、チョモの心に、わずかな安心感と、同時に、警官に何を言われるか、何をされるかという恐怖があった。その手には、まるで命綱を掴むかのような必死さが込められている。砂鉄も、チョモの震える手から、その不安が痛いほど伝わってくる。
「身分証明ねぇ……ちょっと、急いでまして……」
砂鉄は、警官の質問をのらりくらりとかわそうとした。頭の中では、警官を振り払って、この場から一目散に走って逃げ出すイメージが駆け巡る。この薄暗い夜の街で、全速力で走れば、警官の追跡を振り切れるかもしれない。
だが、すぐにその考えを打ち消した。
(でも……チョモが……)
後ろにいるチョモは、高熱で、咳も止まらない。こんな体で走れるはずがない。もし無理をさせたら、彼の体調はさらに悪化してしまうだろう。そう考えると、砂鉄の足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動けなかった。
チョモを守りたい。その一心で、砂鉄は立ち尽くしていた。
警官は、砂鉄の曖昧な態度に、不審な目を向けた。
「急いでるのは分かるんだけどさ、こっちも仕事だから。協力してくれないかなぁ、」
「家に帰れないんだったら、助けてくれる人に引き渡すことも出来るから、一緒に行こうか」
警官の声に、わずかに苛立ちが混じり始めた。何が助けてくれる人だ。ふざけるな。しかしこのままだと、さらに追及され、身分を明かさざるを得なくなる。
その時、砂鉄の耳元で、チョモの掠れた声が聞こえた。
「……さ、てつ……僕……」
チョモは、震える息で、消え入りそうなほど小さな声で囁いた。
「……走れる、よ」
その瞬間、砂鉄の頭の中で、何かが弾けた。チョモの言葉は、砂鉄にとって、思いがけない希望の光だった。チョモが、この状況を打開するために、苦しい体を動かしてでも、自分からそう言ってくれたのだ。
迷いは消え去った。
砂鉄は、警官の返事を待つことなく、チョモの手を強く引っ張る。
「走るぞ!」
砂鉄の声は、普段はない荒々しさがあった。ほとんど反射的に、二人の体が闇の中へ飛び出した。
「おい!!待ちなさい!」
警官の叫び声が、背後から聞こえる。砂鉄とチョモは、必死で足を動かした。チョモの体はまだ重く、時折咳き込むが、砂鉄が引っ張る手に食らいつき、必死に走る。
二人の足音と、チョモの荒い息遣い、そして背後から迫る警官の足音が、夜の静寂を切り裂いていく。
砂鉄とチョモは、警官の追跡から逃れるため、必死に走り続けた。荒い咳が止まらない。それでも、砂鉄が引っ張る手に食らいつき、ふらつく足で必死にアスファルトを蹴った。背後からは、警官の足音と、何か叫ぶ声が聞こえる。しかし、砂鉄は振り返らない。ただ前だけを見て、チョモの手を強く握りしめ、闇の中を駆け抜けた。
角を曲がり、さらに路地を抜けたその瞬間、視界が急に開けた。
「っ……!」
二人の目に飛び込んできたのは、まばゆいばかりのネオンの光だった。夜の街の喧騒が、一気に押し寄せてくる。居酒屋やバーの看板が、けばけばしい色で瞬き、通行人の話し声や笑い声、車の音が混じり合って、耳をつんざくような騒音となって二人の感覚を襲った。
ここは、駅前の繁華街の裏手にある、小さな歓楽街だった。深夜にもかかわらず、多くの人々が行き交い、酔客の陽気な声が響いている。
握っている手の中で、チョモの手が少しこわばった。振り返ると、その瞳がネオンの光に焼かれたかのように大きく見開かれ、急速に焦点が失われていく。まるで、その場にいる人々の視線が、一斉に自分に突き刺さっているかのように。彼の顔は、熱で真っ赤になり、額にはびっしょりと汗が浮かんでいるのに、どこか青ざめて見えた。
「……ひっ……!」
チョモの口から、引きつったような息が漏れた。彼の目は、まるであの一件で、好奇と悪意に満ちた視線に気づいたあの日のように、目の前の人々を恐怖に歪んだ顔で見つめている。過呼吸になりそうなほど、彼の呼吸が乱れ始めた。この人混みの中にいることが、チョモにとってどれほどのストレスになっているか、砂鉄には痛いほど分かった。
「チョモっ!」
砂鉄は、チョモの異変にすぐに気づいた。このままここにいたら、チョモが完全にパニックに陥ってしまう。そして、何よりも、人目に触れてしまう危険がある。
砂鉄は、迷わずチョモの手を強く引いた。
「こっちだ!」