テラーノベル
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砂鉄は、すぐ目の前にあった細い路地裏へと、チョモを引っ張って飛び込んだ。路地裏は、ネオンの光が届かない、駐車場がある薄暗い路地だった。さっきまでの喧騒が嘘のように、一瞬にして静寂が二人を包み込む。
「はぁ……はぁ……っ……」
チョモはふらつきながら、ドサッと座り込み、体操座りをして顔を伏せ、激しく肩で息をしている。荒い呼吸が、静かな路地裏に響き渡る。その体は、まだぶるぶると震えている。
砂鉄は、自分もその場にしゃがみ込み、背中を優しく撫でた。
「チョモ、大丈夫。落ち着いて、俺がいるから」
砂鉄の声は、普段よりもさらに穏やかで、深くチョモを包み込むようだった。彼の言葉の一つ一つが、チョモの耳にゆっくりと届くように、丁寧に語りかける。
「ここは、大丈夫。誰も見てない。誰もいないからな」
「ゆっくり息しよう。ゆっくり……」
砂鉄は、自分の呼吸をゆっくりと深くし、それをチョモに聞かせるようにした。チョモは、砂鉄の穏やかな呼吸に合わせて、荒かった息が、少しずつ、少しずつ落ち着いていく。顔をあげたチョモの表情は血色が戻っていた。
「…も、だいじょうぶ、…ごめん」
「いいって、ちょっとびっくりしたよな」
チョモの呼吸が落ち着いてきたのを確認すると、自分の身体を支えることもしんどそうなチョモを自分の足の間に座らせ、向かい合わせになるような体勢をとった。チョモは、されるがままに砂鉄の胸にもたれかかり、その熱い体を預ける。砂鉄の胸板からは、確かな温かさが伝わってきた。
砂鉄は、左手でチョモの背中を優しく擦り始めた。温かい掌が、チョモの体をじんわりと温め、彼の緊張を少しずつ解きほぐしていく。もう片方の右手では、スマホを取り出し、画面を光らせた。先ほど警官に追われたせいで、目指していた夜間病院への道が分からなくなってしまったのだ。迷子にならないように、改めて地図アプリを開き、目的地を再確認する。細い路地から大通りへ出る道筋を、指でなぞりながら確かめていく。
「よし……あと少しで着くから」
砂鉄は、スマホの画面に目を落としたまま、優しい声でチョモに語りかけた。チョモは、砂鉄の胸に顔を埋めているため、砂鉄からは彼の表情は見えない。だが、背中に伝わるチョモの体の震えが、わずかに大きくなったような気がした。
「……もう、いいよ……」
チョモの声が、砂鉄の胸元から、くぐもって聞こえてきた。その声は、掠れていて、まるで消え入りそうだった。
砂鉄は、思わずスマホから目を離し、チョモの頭に視線を向けた。
「え? 何が?」
砂鉄が問いかけると、チョモは砂鉄の胸に埋めていた顔を、ゆっくりと持ち上げ、そして笑った。その瞳は、熱で潤んでいるが、そこには先ほどまでの恐怖とは違う、深い疲労と、諦めのような色が宿っていた。
「病院なんか……もう、いいよ」
チョモは、弱々しく笑いながら、しかしはっきりと、そう言った。
「…どうせ病院行ったって変わんないって。もうやめよ、帰ろうよ」
砂鉄の心臓がズキンと痛んだ。
おそらく言葉通りの意味じゃない。警官との遭遇、人混みでのパニック、そしてこの夜の寒さ。それら全てが、熱で弱った彼の心と体を、さらに深く蝕んでしまったのだ。
病院に行けば、またあの恐怖を味わうかもしれない。それよりも、たとえ狭くても、あの薄暗いネットカフェのブースで、砂鉄と共に横になりたいと願っているのが、痛いほど伝わってきた。 しかし。
「もういいって、何言ってんだよ!」
砂鉄の声は、一瞬にして、優しかったトーンを失った。チョモの顔から笑顔がすっと消える。
砂鉄の荒い声が響いた。心配する気持ちはあった。この震える体で無理やり走らせてしまったことへの罪悪感も、胸の奥底に、確かに、確かにあった。
だが、それ以上に、必死にチョモを助けようとしているのに、簡単に「もういい」と諦めようとするチョモの態度に、怒りが込み上げてきたのだ。
「こんな真夜中に、警察に捕まりそうになっても、頑張って逃げてきたのに、 それなのに、なんで簡単に『もういい』なんて言えんだよ!」
砂鉄の声は、苛立ちを隠しきれない。チョモは、砂鉄の突然の剣幕に、ビクリと体を震わせた。さっきまで笑みを浮かべていた顔が、歪んでいく。
あ、やばいと思った。
「……だって……しんどい……もう、動けな……っ……」
俯いた彼の目から、涙が溢れ出した。声を出さないように、必死に唇を噛みしめるが、震える肩がそれを物語っている。
砂鉄は、そんなチョモの姿を見て、さらに苛立ちを募らせた。
(しんどいのは分かってる。でも、だからって諦めてどうすんだよ!)
砂鉄は、チョモの背中を擦っていた手を、ついに止めた。
普段のチョモとはまるで違う、静かに泣き続けるその姿が、今の砂鉄にはひどく苛立たしく見えた。その弱々しさが、砂鉄の焦りをさらに煽る。吐き捨てるような言葉が止まらない。
「泣けばどうにかなると思ってんのかよ!? 俺だって……!」
砂鉄の言葉は、最後まで続かなかった。疲労と焦り、そして心配が、怒りという形で噴き出してしまったのだ。チョモは、砂鉄の言葉に、さらに体を縮こまらせ、声を殺して泣き続ける。
泣けばどうにかなるなんて、思っているはずがない。そんなことは分かっている。分かっているのに。
路地裏に、その小さな嗚咽だけが響いていた。砂鉄は、自分の言ってしまった言葉に、後悔の念がよぎる。しかしもう取り返しがつかない。
「……ごめん……」
砂鉄は、絞り出すような声で謝った。
怒りに任せて口走った言葉は、チョモの不安を煽り、さらに彼を追いつめるだけだった。背中に伝わるチョモの震えは、止まるどころか、ますます激しくなっているように感じる。
砂鉄は、チョモの顔をもう一度覗き込もうとするが、チョモは砂鉄の胸に顔を埋めたままで、決して見ようとしない。ただ、小さく、乾いた嗚咽を漏らし続けている。熱で火照った体は、限界を超えているだろう。意識が朦朧としている中で、砂鉄の怒りの言葉が、どれほど彼を打ちのめしたか。
砂鉄は、ため息をついた。その息には、怒りも、苛立ちも、もはや含まれていなかった。あるのは、深い疲労と、どうすることもできない無力感だけだ。自分の体にも、連日の仕事の疲労と看病による疲労、そして精神的な緊張が重くのしかかっていた。頭の奥がズキズキと痛み、視界がかすむ。
(どうすればいいんだよ……)
砂鉄は、脱力して曇った夜空を見上げ、ひたすら考えた。このまま病院へ無理やり連れて行くべきなのか? それとも、チョモの希望通り、ネカフェへ引き返すべきなのか?
(俺が、間違ってたのかな……)
砂鉄は、自問自答を繰り返した。チョモの気持ちを理解しているはずなのに、なぜあんなことを言ってしまったのか。自分の不器用さ、感情の制御ができなかった自分自身への苛立ちが、砂鉄の胸を締め付ける。
砂鉄の瞳にも、次第に涙がにじみ始める。自分も泣きそうになってきた。
まさにその時だった。
「ねぇ! 大丈夫!?」
突然、明るく、しかし心配そうな声が、路地裏の入口から聞こえてきた。
砂鉄は、ハッと顔を上げた。薄暗い路地裏の先に、煌々と光る駐車場が見える。そこに停められた一台の車から、三人の人影が降りてきていた。そのうちの一人、長く派手な髪の男が、こちらに向かってくる。彼の腕には、大きな楽器ケースが抱えられていた。
コメント
2件
普通に神です