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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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真昼は癒しを胸に意気揚々と自宅の玄関扉を開ける、いや、開ける前に裏の勝手口の隙間から龍彦の様子を窺い見てから表玄関の扉を開ける。


(あんなもの二度と見たくない!)


龍彦がオンラインセックスに耽っていない事を確認し、大袈裟な程に大きな声で帰宅した事を告げる。


「ただいま!」


だが今は冷戦状態、家庭内別居、龍彦はそれに返事をする事もなくパソコンに向かい振り向きもしない。


(ーーーちっ!)


ふと見ると洗濯機の脇に積まれていた龍彦の洗濯物が消えていた。どうやら母屋の義母に頼み込んだに違いなかった。洗濯かごの中には真昼の靴下が二足残されていた。


(ーーーーくーーー!大人げない!)


真昼は苛立ちささくれた感情をシステムキッチンの上で憂さ晴らししようと制服のブラウスの袖を捲り青いストライプのエプロンを身に付けた。


(癒しには癒しを!)


普段、郵便窓口での発送業務が遅れているお詫びにという名目で、玉井真一にクッキーを焼いてプレゼントしようと考えた。戸棚からボウルを取り出し計量器で小麦粉を計る、計るつもりが残りが少なかった。


(ううむ)


冷蔵庫を確認すると、包み紙がビリビリに破られパン屑が付着した状態のバターが放置されていた。


(お、おのれ、龍彦!)


これではクッキーを焼ける状態ではなく真昼は渋々エプロンを外して壁に掛けた。


(明日、買ってこよう)


真昼はメモ用紙を手に取ると鉛筆で明日の買い物リストを書き始めた。


(ん?)


それは数十文字書いたところで気が付いた。鉛筆が擦れた跡に白い線が浮き上がって来たのだ。


(なに、これ)


鉛筆を寝かせ軽いタッチでその部分を塗ってみると龍彦が書いた文字が明らかになった。


(NGホテル 2018 20日、14:00、なんのメモ?)


2018年ではない、意味が分からなかった。日付は20日、NGホテル、真昼は思考回路を最大限にその意味を探った。


(NG、NG、ホテル、NG・・・・あっ!)


そしてカレンダーに駆け寄って20日が何曜日であるかを確認した。


(水曜日、私が遅番で帰りが遅い日だ)


NGホテル、この近辺のシティホテル、ラグジュアリーホテルでNGといえばニューグランドホテルしかないと真昼は予測した。


*ニューグランドホテル

*20日

*14:00


2018の意味は不明だが、龍彦はこの日時にニューグランドホテルに出向く必要がある。


(まさか、《《橙子先生》》)


来週の水曜日。


(よし、その顔を拝見しようじゃないの!)


真昼は20日の水曜日、有給休暇を取得する事にした。


真昼は|陰鬱《いんうつ》な気持ちを小麦粉とバターに練り込んで怒りというバニラエッセンスとベーキングパウダーを混ぜ合わせた。そして業火の如く200℃で焼き、味気のない皿の上にザラザラと盛り付けた。

リビングテーブルの上に放置すれば小腹を空かせた龍彦が一個、二個と摘むだろう。


(この焦げ目で胃癌になれ!劇薬をひと匙でも盛りたいくらいだわ!)


そしてもう一つのステンレスのボウルでは玉井真一への感謝の気持ちを込めて小麦粉を優しく振い、淡い恋情のバターをさっくりと混ぜ合わせた。


(おやすみ〜♪)


冷蔵庫で寝かせたクッキー生地を丸い型抜きで抜き、鼻歌まじりで爪楊枝を持つとちょんちょんと穴を開けて次に口を描いた。


(さすがにハート型クッキーはハードルが高いわよね、ドン引きよね)


170℃で焼き上がったクッキーは真昼へとにこにこ微笑みかける。


(なにげに玉井さんと似ているわ)


左の口元には八重歯を作った。


(もう、これだけで癒される)


しっかりと冷ましたクッキーを赤いタータンチェック柄の紙箱に詰めた。メッセージカードには <いつもありがとう>と一言添えたが、文字の並びが気に入らず三枚書き直した。


(緑のリボンを結んで出来上がり)


真昼はクラフト紙の小さな手提げ袋にそれを入れるとベッド脇のナイトテーブルの上に置いた。シェードランプの温かな灯りの中、仄かに匂うバニラエッセンスの香りが《《橙子先生》》の白檀を掻き消した。


(ふぅ)


龍彦と暮らした五年間が、たった三ヶ月の不倫で脆くも崩れ去るとは予想だにしなかった。


(浮気と不倫の違いってなんだろう)


タータンチェックの小箱を眺めた真昼は、この浮ついた感情をなんと表現すれば良いのかと考えながら長いまつ毛を閉じた。

翌日、夕方から雲行きがおかしくなり16:45を過ぎる頃にはポツポツと雨粒が落ち始めた。真昼は基本、傘をささない。政宗から「おまえはイギリス人か」と|揶揄《からか》われるがとにかく使用後に畳む事が面倒なのだ。


(ーーーうーん)


今日は郵便物の発送業務はない。竹村事務機器の終業時刻は17:30だ。


(郵便窓口、閉まっちゃうなぁ、夜間窓口、玉井さん居るかなぁ)


真昼はチラチラと足元のクラフト紙の小さな手提げ袋を見た。


(折角作ったのに、濡らすのも勿体ないな)


最終的に郵便局近くの専用駐車場まで車で移動し、手提げ袋を胸に抱えて走る事にした。手首に光るピンクゴールドの腕時計をチラチラと盗み見して17:30丁度に「おつかれさまでした!」と勢いよく椅子から立ち上がった。


「なんだ、おまえ」

「お先に失礼します!」


「なんなんだ、あれは」

「やる気スイッチ、入ったんじゃないですか?」

「なんのやる気だよ」

「分かりませーーん」


車のエンジンキーを押す指先が震えていた。心臓がドキドキと跳ねているのが分かった。


(な、なに緊張しているのよ)


頬が紅潮し、ハンドルを握る手に力がこもった。徒歩数分の距離は車では数秒で到着したような錯覚に陥った。ハンドルにもたれ掛かりフロントガラスから覗き込むと郵便窓口にはシャッターが閉まり、夜間窓口に明かりが灯っていた。


(玉井さんじゃなかったらどうしよう)


真昼の喉がゴクリと鳴った。

結局、自動車から降りた場所に水溜りが出来ていてもたついている間に制服のブラウスがグレーに透けるまで濡れてしまった。郵便局の自動扉が開いて胸元を見ると紙袋には皺が寄り濡れてはいたが被害は最小限に抑えられていた。


(良かった)


ただひとつの問題は郵便夜間窓口の担当が誰か、という事だった。一瞬、プロレスラーみたいな名前の小物系女性局員の顔が思い浮かび「あの子は嫌だなぁ」と少し尻込みしてしまった。恐る恐る呼び出しブザーの赤いボタンを押した。


「はい」


少し気怠そうだがその声は間違いなく玉井真一だった。


(きゃーーーー!)


きっと傍目には挙動不審者に見えるだろう、この郵便局が閑散とした僻地で

良かった。真昼以外に客の姿はない。


「はい」

「あの、これ」


幅の狭い受け取り窓口から紙袋を差し出すとこれまた不貞腐れた声で「こちらはゆうパック60cmになります、ナマモノや壊れ物は入っていますか、ゆうパックの伝票はそちらでお書きください」と機械的な台詞が返って来た。


「あ、ナマモノで壊れ物です」


窓口から中を覗くと紙袋の重量を計る玉井真一と目が合った。


「まっつ!真昼さん!」

「はい、ナマモノで壊れ物です。大丈夫でしょうか」

「そ、そうですか、ゆ、ゆうパックの伝票を書いて下さい。そちらの記入台に有ります」

「伝票は要らないと思います」

「どういう意味でしょうか」


玉井真一の声色がいつものように優しくなり、真昼は精一杯大人の女性の余裕を装いながら紙袋を指差した。


「これ、封がしてありませんが」

「それ、玉井さん宛です」

「僕、僕宛ですか」

「事務所のみんなにクッキーを焼いたの。玉井さんにはいつもお世話になっているから、お裾分けです。」


嘘も方便である。


「そうですか、クッキーですか」

「甘さは控えめにしたんだけど手作りが苦手だったらごめんなさい」

「いっ、いえ!甘いのも手作りもクッキーも大好きです!」


そこでポマード中間管理職の咳払いが聞こえた。


「じゃあ、またね」

「は、はい」


真昼が踵を返すと急にATM脇の扉が開いて玉井真一が飛び出して来た。自動扉の中と外、その手には透明なビニール傘が握られていた。

「まっ、真昼さん!」

「は、はい?」

「ぬ、濡れてますよ」


窓口越しに真昼のブラウスが濡れている事に気が付いたのだろう。玉井真一の左手は真昼の右の二の腕をしっかりと掴んでいた。触れ合った布地越しの肌の感触、互いの熱が伝わり二人が《《現実》》になった瞬間だった。


「あ、あの」


玉井真一の手は想像よりもずっと厚く、指先はゴツゴツと骨張っていた。


「は、はい」


真昼の二の腕は想像よりも柔らかく細かった。


「か、傘、使って下さい」

「ありがとう、ございます」


辿々しい言葉のやり取りに頬が赤らむのを感じた。通り過ぎる車のヘッドライトが照らし影を作った。我に帰る。


「返すのはいつでも良いですから」

「はい」

「クッキーありがとうございます」

「いえ、どういたしまして」


玉井真一の手のひらが名残惜しそうに離れた。


「じゃ、じゃあ、また!」

「はい!」


傘を開き真昼は駆け出した。振り返るとビニール傘越しに、ポマード中間管理職に後頭部をパンフレットで叩かれる玉井真一の姿が見えた。


「あぁ、びっくりした、意外と力強いんだ」


車に乗り込んだ真昼は助手席でびしょ濡れになった郵便局のビニール傘を眺めた。

自宅近くの駐車場で車のエンジンを停めるとフロンガラスは乾いていた。夜空を流れる低い雲の隙間にはぼんやりと輪を被った朧月が浮かんでいた。


バタン


助手席のフロントドアを開け、真昼は雨に濡れたビニール傘を手に持った。


(これ、乾かしてから返さないと失礼よね)


パンっと開いてくるくると回すと、車のヘッドライトに浮かんだ眼差しが浮かんでは消えた。雨粒の付いた銀縁眼鏡の奥の真剣な眼差しを|反芻《はんすう》する。


(眼鏡を外したらどんな顔なのかなぁ)


強めの度数のレンズで目元は窄まり小さく見える。眼鏡の下の面差しは普段目にしているものとは違う筈だ。真昼の中に湧き上がる玉井真一を《《知りたい》》という感情。そんな事を考えながら真昼のパンプスは水溜りを避けつつ玄関扉の持ち手を握った。

つい普段通りに扉を開けると淫靡な喘ぎ声が漏れ聞こえた。


(・・・・もしかして)


真昼は携帯電話の録画スイッチを押してフローリングの廊下を摺

り足で壁伝いに進んだ。軽く息を吸って気付かれぬように吐いた。カメラレンズをリビングの扉から差し込んだ。


(やっぱり橙子先生)


呆れてものも言えない。その性欲を一度くらい妻に注いで欲しかった。


(私とたっちゃんに子どもが居ればまた違ったかも、ううん、同じよね)


股座

またぐら

を顕にして喘ぐ女、盛んに右手を上下させる夫、嫌悪しかなかった。直視する事も憚

はば

かられ思わず目を逸らす。


(これも、これも不倫の証拠、頑張れ、頑張れ私!)


目を逸らしながら震える左の手首を右手で支え脇を締めた。ただ、女の顔が龍彦の後頭部が邪魔をして見え隠れする程度しか映らない。


(たっちゃん、あんた邪魔なのよ!)


今となっては憎しみの対象でしかないその背中を蹴り付けたい衝動に駆られる。それでも真昼の胸は痛んだ。


(あんなに好きだったのに)


五年間を共にした相手。


(どうして裏切ったの)


甲斐甲斐しく尽くす事に張り合いを感じた。


(私のなにが足りなかったの)


その美しい顔に虜になった。


(何処が駄目だったの)


真昼の涙はとめどなく溢れ、そして龍彦と橙子先生は同時に絶頂を迎えた。愛おしくその名前を呼び画面越しの唇に口付ける。真昼は吐き気をもよおし、耐えきれず録画ボタンをもう一度押した。


ピコン


龍彦のオンラインセックスという不貞行為は真昼の携帯電話の中に収められた。


「ただいまーーー!」


真昼が玄関先で大声を張り上げると洋間で慌ただしく物音がして龍彦はバスルームへと飛び込んだ。激しく叩きつける水音。


「たっちゃん、シャワーなの?」

「う、うん」

「クッキー美味しかった?」


予想通りリビングテーブルの皿の周りにはクッキーの食べカスの粉が散乱していた。


「う、うん。美味しかったよ、ありがとう」

「そう」

「明日は水曜日ね」

「そうだね」


長期間の家庭内別居、無口な時間はこれを機に解消された。真昼は二階の寝室に向かい携帯電話の画面をトントンとタップした。


「あ、叔父さん、休んでるところごめん」

「どうした」

「うん、ちょっと熱っぽくてさ」

「大丈夫か!」

「大袈裟だなぁ、もう」

「そうか」


「明日、有給、取っても良い?」


真昼はクローゼットの中の白檀の微かな香りを睨みつけた。

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