嘘が真に、朝起きると身体が気怠くベッドから起き上がる事が億劫だった。
「やだ、風邪?」
昨日、雨の中を郵便局まで走った事が災いしてか軽い風邪をひいたようだ。ナイトテーブルの引き出しから体温計を取り出した。
(37.5℃、微熱)
けれど今日は20日、龍彦と《《橙子先生》》がニューグランドホテルで落ち合い14:00からホテルのベッドの上で愛を語る。
(もしかしたら、私の勘違い)
暗号のような2018、NGHがニューグランドホテルであるか如何かは定かではなかった。にも関わらず発熱した身体に鞭打って出掛ける自分が滑稽に思えた。二階の洗面所で顔を洗いパジャマのまま階段を降りると龍彦がキッチンでコーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「うわっ!」
それはまるで幽霊でも見たかのような反応だった。いつもの時間ならば私はとうに出勤している時間だ。《《いる筈のない妻が居た》》その驚きに、龍彦はコーヒーメーカーに左手の人差し指を突いていた。
「熱っち!」
「大丈夫?」
心配する真昼を他所に龍彦の言葉は酷いものだった。
「なんで居るんだよ」
「風邪ひいたみたい、後で病院に行く」
「真昼が朝、家に居ると調子が狂うんだよな」
「・・・・・・」
「なに」
「なんでもない」
真昼の体調を心配する事もなく龍彦は水道の蛇口に指を付けて火傷した部位を冷やしている。西向きのキッチンの窓、逆光の中に透ける龍彦の長いまつ毛、薄茶の瞳、反り返った上唇、流れるようなシャープな顎のライン。
(|上辺《うわべ》はこんなに綺麗なのに)
これまで龍彦の容姿ばかりに惹かれていた自分の愚かさを呪った。
真昼の顔を窺うように龍彦が向き直った。
「何時に病院に行くの?」
(気になるよね)
「どうして」
「あーーーいや、その病院、混むだろうし」
(スーツに着替えなきゃいけないものね)
真昼は洗濯機のスイッチを押した。
「熱、あるんだろ。洗濯物とか明日でいいじゃん」
「たっちゃんの洗濯物、溜まってるよ」
「おふくろに頼むから」
「お義母さんになんにもしない嫁みたいに思われるから嫌だもん」
「大丈夫だよ」
龍彦の必死さに真昼は笑いを堪えた。
「じゃあ、もう少し休んで11:00くらいに行こうかな」
「そ、そうか、混むから早い方が良いよ」
「分かった」
戸惑う龍彦を後にして二階の寝室に戻った真昼はクローゼットの扉を開けた。
(こういう時は頑張れるのね)
普段外出しない龍彦がクリーニング店に出向いた。あの一番上等な焦茶のスーツにはクリーニング店のビニール袋が掛かっていた。大きなため息が漏れる。真昼はそのままベッドに倒れ込むと天井を眺めた。いつもより熱い涙が頬を流れ落ちた。
(私、なんで泣いてるの?)
その涙が龍彦の愛情を失った事への悲しみなのか、他の女に負けた悔し涙なのか真昼は自問自答しながら大きめの鞄に一眼レフカメラを詰め込んだ。
真昼が黒い鞄を肩に掛けてリビングへ降りると龍彦は怪訝そうな顔をした。
「なに、それ」
「郵便局で送りたい荷物があるの」
「ふーーん」
そして真昼の足元から頭のてっぺんまで見上げて首を傾げた。真昼はホテルのラウンジでも見劣りしない、開襟の白地に青い小花柄のくるぶし丈のワンピースを着ていた。
「そんな格好で病院に行くの」
「なに、駄目なの」
「そんな白いワンピース、透けない?」
「裏地が着いているから大丈夫、ワンピースなら脱ぎ着しやすいし」
「全部脱ぐの?」
「前にボタンがあるから、なにか変?」
「そーでもないけど」
龍彦は自分に《《その気》》があるからか、真昼の動向を不審に思っているようだ。真昼は龍彦の怪しむ顔に腹が立った。
(なに、私が浮気でもしているって言いたいの?)
真昼は龍彦に背中を向けて玄関へと向かった。
「半袖のワンピースはこれしかないの」
「ふーーん」
「郵便局に部屋着でなんて行けないでしょ!」
「そうだね」
「そうだよね!」
思わず声に棘が刺さる。
「いってらっしゃーーい」
「いってきます!」
こんな時だけの見送りの言葉掛け、愛想も尽きるとはこの事だ。
踏み出すパンプスの音が力強い。車のエンジンキーを押すとムワッとした生温いエアコンの風が顔に吹きつけた。熱が上がって来たのだろうか頬が火照る。
(このワンピースにして正解だったな)
涼しげなリネンと絹のワンピースは汗ばんだ身体に丁度良かった。虚な思考回路でホテルのホームページで道順を確認した。ラウンジにはフルーツパーラーがあると表記されていた。
(・・・熱い・・そのソファでひと休みしよう)
ドリンクホルダーに飲みかけのミネラルドリンクがあった。ショルダーバッグから鎮痛解熱剤を取り出し流し込む。
(龍彦、《《橙子先生》》、待ってなさいよ!)
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!