テラーノベル
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京介は佐山へ電話を掛けると、至急市役所へ向かうよう手配してから、現状を見る。
「三井。ここ、任せても大丈夫か?」
ゴタゴタした中、すぐそばの三井に問い掛けた京介に、「カシラが顔を見せて下さったお陰で下の者も皆、落ち着いてます。大丈夫ですよ」と、三井が胸を張ってみせる。その目には、例え無理でもご要望とあらばなんとかします、という意志が感じられて、京介は「すまねぇな」と労いの言葉を掛けた。
火事とはいえ、幸い小火だ。消火活動も終わり、野次馬も大分引けてきている。事務所自体に被害はないから、あと数時間もすれば中へ入ることも出来るだろう。
三井にも電話の内容を聞いてもらった絡みで、芽生が危機的状況にあることは自然と伝わっている。
「姐さ……、神田さんのところ、早く行ってあげて下さい」
一度ここへ連れて来た時から、相良組の面々の間で暗黙の了解的に、芽生がこっそり〝姐さん〟と呼ばれていることは京介だって知っている。だが基本的に京介の前で三井クラスの人間が口を滑らせることは珍しい。それだけ芽生の状況に、三井も危機感を覚えていて気持ちにゆとりがないということなんだろう。
日頃ならアイツはそんな対象じゃねぇよ、と軽く訂正するところだが、京介は何故か言及する気になれなかった。
***
車に戻るなりいつも持ち歩いている鞄の中から少し角が傷んだ印象を受ける封筒を取り出した京介は、それを手に小さく吐息を落とした。
中には芽生が十八の時――『陽だまり』から独り立ちしてすぐの頃に冗談半分で託された【婚姻届】が入っている。
三十歳になっても芽生が独身だったら、京介が芽生を〝引き受ける〟という約束をさせられた証だ。
芽生は身内の贔屓目を差し引いても、かなりいい女だと思う。
きっと放っておいてもいい男を捕まえて、自分との約束なんて笑い話になるだろうと、京介は考えていたのだ。
だが――。
こんな形。望まない男と無理矢理婚姻させられるぐらいなら、さっさとこれを出しておいてやればよかったと思ってしまう。
幼少期、愛情というものを知らずに育った京介は、家庭を作るということに執着がない。
そもそもこんな稼業をしている身。どうせ妻を娶る気なんて元よりなかったことを思えば、養子縁組でも結ぶ感覚で芽生を自分の戸籍に入れたところで痛くも痒くもなかったはずだ。
(けどなぁ)
京介は自分と同じように世間一般で言うところの〝家族〟というものを知らずに育った芽生には、好きな男と結婚して誰よりも幸せになって欲しい。自分がそれを芽生に与えてやれないことは誰よりも分かっているからこそ、傍で芽生を見守りながらその日が来るのを待ちわびてきたのだ。
芽生との結婚を〝不本意〟だのなんだのと吐かす男に、可愛い娘を嫁に出したいと思う親がいるはずないではないか。
千崎に聞かされた話も、京介の心の中にモヤモヤとわだかまっている。
それが明るみに出るのを防げない限り、第二・第三の細波鳴矢が湧いて出ることは容易に推察出来た。
(だったらいっそのこと……)
そう思ってしまった京介は、それさえも自分勝手な思い込みに感じられて、芽生はどうしたいんだろう? と思った。
(ま、とりあえずはクソ男が婚姻届を提出するのだけは阻止しねぇとな)
すべてはその後だ。
幸い電話を掛けた時、佐山は市役所のすぐ近くを通過中で、一分と掛からず現場へ到着できると請け合ってくれた。
一階の戸籍担当課が見渡せる場所に隠れて待機するよう指示を出した京介は、自身もそこへ向かいながら逸る気持ちを懸命に押さえつける。
車がスムーズに流れればここから市役所まで約十五分。
どう足掻いても自分より芽生を拉致した細波の方が先に到着してしまうだろう。
(頼んだぞ、佐山)
こうなっては、佐山だけが頼りだ。
きっと今、相良組の中で芽生のことを一番に考えて動けるのは、自分以外だと佐山だったから、どう考えても彼が適任だと分かっている。
分かっているけれど、佐山と今いる場所を今すぐ入れ替えたいと思ってしまったのは何故だろう。
〝芽生のことを誰よりも救いたいのは自分だから〟という言葉だけでは説明し切れないモヤモヤとした感情の正体を、京介はあえて深く考えないことにした。
***
「細波さん! その書類が目的だったんですよね!? だったら……私とその子はもう」
ホテルの部屋を出るなり、当然のように芽生も車へ乗せようとする細波に、自分達はもうお役御免ではないかと問い掛けた芽生である。
書き上げてすぐ細波の懐へ仕舞われた婚姻届は確かに気になるけれど、芽生にはそれより何より殿様の命の方が大事だった。
望まない婚姻なら……ましてや相手が〝不本意〟と言ってのけた関係なら……最悪ほとぼりが冷めたら離婚してもらえば済む。けれど、殿様の命は失ってしまえば二度と戻ってこないのだ。
芽生が懸命に殿様の入った紙袋を返して欲しいと意思表示すれば、細波は何が可笑しいのか、クスッと笑った。
「ねぇ芽生ちゃん。もしかして書類さえ出せば解放されると思ってる? 残念だけど芽生ちゃんには役所のあと、まだ僕と一緒に行って貰わないといけないところがあるんだ。僕の用が全部済むまでは付き合ってもらうからそのつもりで」
非情な宣告をするなり殿様が入った紙袋を無造作に後部シートへ放り投げる細波に、芽生は思わず悲鳴を上げて後部ドアへ縋りついた。
使い捨てカイロで保温してあるとは言え、殿様は確実に衰弱している。
今すぐにでも病院へ連れて行きたいのに、細波は芽生のことも殿様のことも解放してくれる気はないと知って、絶望的な気持ちでドアハンドルを引っ張った。
ガチャッと音がしてすんなり扉が開いたことにホッとして紙袋に手を伸ばしたと同時、細波に背後から車内へ突き飛ばすように押し込まれて扉を閉ざされた。
***
相良京介からは一階の戸籍担当課が見渡せる場所に隠れて待機するよう指示を受けた佐山文至だったけれど、市役所内に入ってしまうとかなり身動きを制限されるんじゃないかと思い至った。
京介の話では、細波は弱った猫を利用して神田芽生を脅しているらしい。
そんな状態で下手に動けば、彼女自身が猫の安全を第一に考えて、佐山の呼びかけに応じない可能性もある。そればかりか、場合によっては細波を守る盾になる可能性も否定できなかった。
そう考えると少々なら荒っぽいことが出来そうな分、建物へ入る前に捕まえるのが妥当に思えた。けれど残念ながら市役所の入り口は一か所ではない。以前それが原因で、ワオンモールで芽生に逃げられた過去もある。
(戸籍担当課が見える位置で張ってなかったら、婚姻届の提出自体を阻止できねぇ可能性もあるんだよな)
それだけは何としても防ぎたい。
役所内駐車場、細波に気付かれないよう目立たない位置へ車を停めて下車してみたものの、どこで待機すべきかなかなか気持ちが定まらない佐山である。
だが、佐山のそんな迷いを見透かしたみたいなタイミングで、京介からの電話が鳴った。
『佐山、もう役所には着いたか?』
京介からの問いかけに「はい」と答えると、何も言っていないのに、『待機場所だがな、やっぱテメェの判断に任せる』と言葉を紡がれる。
「え……?」
『猫を盾に取られてる限り芽生は動きが制約されちまう。あいつはそういう女だ。役所内じゃ、お前も思うように動けねぇだろ? ――さっき千崎に確認取ったんだが、脅されて書かされた婚姻届は、最悪一度受理されちまっても家庭裁判所に無効の訴えを起こせば結婚自体を取り消せるらしい。こっちにゃ、芽生が脅されて書類書かされてる証拠の音声もある。だから、提出云々のことは考えねぇでお前の好きに動け』
幸い駐車場は役所前のだだっ広いここしかない。
駐車場の出入り口は東側と西側にひとつずつ。その両方が見渡せる場所で入ってくる車をチェックするぐらいなら、佐山一人でも出来る。
「分かりました」
京介の言葉にグッとスマホを握る手に力を込めると、佐山は心を決めた。
***
殿様が入った紙袋を労わるようにして膝に抱えて座った芽生は、本当はシートベルトしないといけないと分かっていて、あえてそうしなかった。
ルームミラー越しに細波がそんな芽生を観察しているのは見えていたけれど、お構いなしに助手席の後ろ側へ移動する。車が停まったらすぐ、ドアを開けて逃げるつもりだ。
「芽生ちゃん、婚姻届は僕ひとりで提出しても有効だからね?」
細波の口ぶりから、彼がそれを自分の手中に収めていることが、芽生の行動を制限する抑止力になると信じているのだと確信した芽生は、あえてショックを受けたふり。眉根を寄せて「うそ……」と呟いた。
そうしておいて次の瞬間、「細波さん、私、好きな人がいるんです! 私、その人以外とは結婚したくありません! 細波さんも私のことは何とも思っていないんでしょう? お願いだから考え直してください! さっき書いたの、返してください!」と身を乗り出してみせる。
殿様に被害があってはいけないので、その間だけは殿様が入った紙袋から手を離して足元に置き、両足で挟み込むようにしていた。
奪えないと分かっていて、芽生がわざと細波の懐に手を伸ばしたら、細波がグッとアクセルを踏み込んだうえでハンドルを右に左に大きく切った。そのせいで、中腰になっていた芽生はシートへ尻餅をついてしまう。
ギュッと両足に力を込めて殿様が入った紙袋が横倒しになるのだけは回避したけれど、そちらに意識を取られて窓ガラスに頬骨をしこたま打ち付けた。
「僕と心中するのが嫌なら変な気は起こさないことだ」
ルームミラー越しに冷ややかな視線を送ってくる細波に、芽生はじんじんと痛む頬をさすりながら涙目で細波を睨みつけた。
打ち付けたところはズキズキと痛んだけれど、これで少しは細波に、『神田芽生は婚姻届に固執している』と思い込ませることが出来ただろうか。
足元に置いた殿様の袋を膝の上に乗せてギュッと抱きしめ直したら、中から「ニィ」とか細い声が聞こえて、芽生は心の中で(ごめんね。もうちょっとだけ頑張って)と声を掛けた。
鞄の中の携帯は通話中ではなくなってしまっていたけれど、さっき隙をみて確認した着信履歴には『京ちゃん』と表示されていた。京介がホテルでの会話を彼が聴いてくれていたならば、絶対に何か手を打ってくれているはず。
芽生はその可能性へ賭けることにした。
***
市役所が見えてきたところで芽生はグッと手に力を込めた。
殿様に心の中で(もう少しだよ)と励ましの声を掛ける。
そんな芽生を嘲笑うように、細波が言うのだ。
「そう言えば言い忘れてたんだけどね、リアシートのドア、チャイルドロックがしてあるから。中からは開けられないよ?」
「えっ?」
その言葉に、芽生はルームミラー越しに細波を見詰めた。
「逃げられると思ってた? 残念だったね」
子供の転落防止のため、外からは開けられても中からは後部ドアが開けられないようにするのがチャイルドロックだと説明を加えて笑う細波に、芽生は我知らず殿様が入った紙袋を持つ手に力を込める。
「ホント芽生ちゃんって隠し事下手だよね」
市役所駐車場入り口ゲートで発券機から駐車券を抜き取りながら、細波が吐息を落とす。
「そんなあからさまに助手席側へ寄ったりしたら『私、車が停まり次第こちらから逃げようとしてます』って宣言してるみたいなもんだよ?」
そこで一旦言葉を切ると、細波が駐車スペースを探しながら付け加える。
「婚姻届より猫の方が大事?」
芽生の思惑なんてお見通しだと言わんばかりに問い掛けられて、芽生は返答に窮した。
「そんなに大切なら役所の中にいる間だけは猫、芽生ちゃんが持っていていいよ?」
予期せぬ言葉を紡ぐ細波に芽生がハッとしたら、「その代わり手、繋ごうね」と条件が付けられる。
「芽生ちゃんの手は二本だ。片側に猫、空いた方の手で僕と手を繋ぐから荷物は車へ置いて行く。いい?」
要するに、貴重品が入った鞄を質草に残せと言いたいらしい。
車を駐車するなり「それとも猫を置いて行く?」と芽生を試す細波に、芽生は「鞄を」と告げた。
(お金や携帯は諦めが付く。でもマンションの鍵だけはダメ。京ちゃんに迷惑が掛かっちゃう)
そう思って鍵を取り出そうとしたら、「ダメだよ。それ、今すぐこっちに頂戴? 中から何か取り出したりしたら、その時点で置いて行くのは猫に決定だよ?」
細波に先手を打たれてしまった。
コメント
2件
細波、狡猾すぎて腹立つ! 佐山くん、早く、早く!!!
うわあ、今回もハラハラしっぱなしでした…!京介が持ってるあの婚姻届、まさかこんな形で効いてくるとは思わなくて胸が熱くなりました。自分は芽生に幸せになってほしいって願いながらも、今この瞬間だけは「俺が守る」って決めたのが伝わってきて…。細波のチャイルドロックにはゾっとしましたが、芽生が京ちゃんを信じてるシーンが心強かったです!次が気になりすぎます🤍
鷹槻れん

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鷹槻れん

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月詠 涼
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