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タロ
1,099
雪之江荘は、都心からほど近い、湾岸沿いの下町・雪之江町にある。
江戸時代に埋め立てられたこの町は、下町と呼ばれている。
けれど、近頃の下町というものは、なかなか一筋縄ではいかない。
昔ながらの商店や住宅が姿を消していく一方で、空に向かって伸びるタワーマンションが、我が物顔で街を見下ろしている。
もはや、古い長屋を探すほうが難しい。
雪之江荘は、そんな時代に取り残されたような、数少ない長屋アパートのひとつだった。
家主の深澤は、江戸時代から続く佃煮屋の跡取りだった。
だった、というのは、店はとうの昔に畳んでしまったからである。
今の深澤は、独立プログラマとして働きながら、祖父から相続した長屋の大家をしている。パソコンに向かって仕事をし、家賃を管理し、古くなった建具を直す。そういう暮らしをしていた。
深澤は、この町で育った。
子どもの頃から知っている景色が、少しずつ、けれど確実に変わっていく。
それを時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、寂しいものは寂しい。
なくなってから惜しむくらいなら、残っているうちに大事にしておけばいい。
深澤は、わりとそういう人間だった。
祖父から長屋を相続すると、さっそく大手デベロッパーがやってきた。
再開発の話である。
立派なタワーマンションの設計図や、緑の植え込みが美しい完成予想図を、何枚も見せられた。
どれもこれも、いかにも便利で、いかにもおしゃれで、いかにも高そうだった。
それでも深澤は、首を縦に振らなかった。
この町には、雪之江神社という小さな神社がある。
昔から地元の人々に守られてきた、由緒正しい神社だ。
深澤の後輩である阿部の実家でもあり、長男の亮平は大学で神職を学んだあと、そこで神主を務めながら、神社の敷地内で幼稚園を運営している。
大学時代に取得した幼児教育の免許も、きちんと役に立っているらしい。
神様に手を合わせる子どもたちの声が、境内から聞こえてくる。
そういう風景も、この町の一部だった。
そして、雪之江神社から少し歩いたところに、雪之江観音舎がある。
こちらは、神社とは少し事情が違う。
江戸時代、このあたりの漁師たちが有志で祀ったのが始まりで、決まった守り人がいるわけではない。
町内会の人々が代々世話をしてきた、いわば町のみんなの場所だった。
樹齢三百年を超える大銀杏が、そこに立っている。
その根元には、石盤に刻まれた観音像がある。魚河岸が繁盛するようにと迎えられた小さな稲荷社もある。
お稲荷さんの狐は、いつの間にか片方だけになってしまった。
どういう事情で片割れがいなくなったのか、知っている人はもういないのかもしれない。
それでも、誰かが置いた小さな狐の置物が、残された一体の隣にちょこんと並んでいる。
それから、猫塚。
かつて魚河岸だったこのあたりには、昔から猫が多い。
人の暮らしのそばで生きてきた猫たちを弔うために、猫塚がつくられた。
人間の都合で街が変わっていくあいだも、猫たちは猫たちのやり方で、この町に暮らしていた。
観音像と稲荷社と猫塚。その三つをまとめて祀る場所が、雪之江観音舎だった。
そして、そのすぐ隣に雪之江荘がある。
デベロッパーが持ってきた再開発計画には、大銀杏も観音舎も含まれていなかった。
大銀杏は倒木の危険があるため伐採する。
観音像は、別の場所へ移す。
説明は、いかにももっともらしかった。
安全性だとか、街の利便性だとか、そういう言葉はいつだって正しい顔をしてやってくる。
けれど、何百年もこの町に立ってきた木を切り、何代もの人々が手を合わせてきた場所を動かすことが、本当にこの町のためになるのだろうか。
地元の人々は、当然のように反対した。
観音舎は、ただ古いものを置いておくための場所ではない。
毎日掃除をし、花を供え、手を合わせてきた場所なのだ。
そういうものを、図面の上から簡単に消してしまうことはできなかった。
深澤もまた、首を縦に振らなかった。
そして、彼は少しばかり大胆なことをした。
長屋の裏手にあった祖父の住まいを、親に頼み込んで譲ってもらったのである。
長屋とその住まいを合わせれば、敷地は表通りから裏通りまでつながる。
雪之江荘は、町の一区画のど真ん中を押さえる、なかなかに厄介な存在になった。
再開発を進める側からすれば、たまったものではなかっただろう。
どれほど立派な完成予想図を描こうと、肝心の土地が思うようにまとまらないのでは話にならない。
結局、計画は中止せざるを得なくなった。
こうして雪之江荘は、今日もそこにある。
古い木造の長屋アパート。
立派なタワーマンションに囲まれながら、時代に取り残されたような顔をして、それでも案外、堂々と。
深澤が守りたかったのは、長屋そのものだったのか。
それとも、大銀杏や観音舎や、そこに手を合わせる人々の暮らしだったのか。
たぶん、全部だった。
人間というのは、案外そういうものなのだ。
しかし、雪之江荘も、いいことばかりではなかった。
何しろ古い。
長屋というのは、古いこと自体が魅力でもあるのだけれど、魅力と不便は、案外、紙一重なのだ。
建具は軋むし、設備だってあちこちくたびれている。
大銀杏や観音舎を守ることに成功した深澤だったが、自分の住まいまで昔のままにしておくつもりはなかった。
そこで彼は、これまでこつこつ貯めてきた金を、思い切って全額つぎ込むことにした。
フルリノベーションである。
玄関を開けると、まず広い土間がある。
土間の隣には、ゆったりとしたリビングとダイニングキッチン。
外気の影響を受けやすい場所なので、床暖房も入れた。
冬場に足元が冷えるのは、いくら風情があっても我慢ならない。
リビングの奥には、襖で仕切ることのできる畳の居間がある。
普段は開け放って広々と使い、来客があれば襖を閉めて客間にする。
そこから見えるのが、小さな坪庭だった。
坪庭を眺めるための縁側があり、その先には渡り廊下が続いている。
渡り廊下の向こうにあるのは、あとから増築した一軒家だ。
長屋と一軒家が廊下でつながっているという、少々説明しにくい造りになっている。
一軒家の一階は、水回りをまとめて改修した。広い浴室にはシャワーブースを設け、ついでに三人まで入れるサウナまでつくった。
サウナが必要だったのかと問われれば、深澤にも明確な答えはない。
ただ、つくれるとわかったときには、もうつくる気になっていた。
二階には部屋が二つある。
一つは深澤の寝室。
もう一つは、これといった使い道もなく、しばらく物置になっていた。
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