テラーノベル
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その頃の雪之江荘には、深澤のほかに、二人の住人がいた。
最初にやってきたのは、岩本だった。
岩本は高校を卒業してから、ダンサーを目指していた。踊ることが好きだったし、踊っているときの自分が好きだった。
ところが、怪我をした。足の怪我だった。表舞台に立つことは、難しくなった。
夢というのは、諦めようと思って簡単に諦められるものでもない。
ましてや、諦めたあとにどうやって生きていくかなんて、すぐに答えが出るはずもなかった。
金はなかった。
住んでいたアパートの更新料すら用意できず、月末には出ていかなければならなかった。田舎に帰ろうにも、今さら帰る場所があるのかどうかもわからない。仕事だって、すぐに見つかるとは思えなかった。
東京に残るなら、まずは住む場所がいる。
住所がなければ、仕事を探すのだって難しい。そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。岩本は途方に暮れていた。
気分を変えようと、たまたま入った居酒屋で出会ったのが、深澤だった。
深澤という男は、妙な男だった。
飄々としていて、人の話を聞いているのかいないのか、よくわからない。
相槌も適当だし、こちらが深刻な話をしているというのに、どこか気の抜けた顔をしている。普通なら腹が立ってもよさそうなものだが、不思議なことに、岩本はそうならなかった。
むしろ、話しやすかった。
怪我のこと。
アパートを出なければならないこと。
金がないこと。
仕事もないこと。
初対面の相手に話すような内容ではなかった。
けれど、酒が入っていたせいもあるし、深澤があまりにも気負わずに聞いているものだから、つい、ぺらぺらと話してしまった。
「じゃあ、照さ。俺のアパート、来ねえ?」
深澤は、まるで明日の天気でも尋ねるように言った。
「……は?」
「初期費用とかそんなもん、いらねえからさ。とりあえず必要なもん、全部持ってきな?」
神様というのは、案外、居酒屋にいるのかもしれない。
岩本はそう思った。
もちろん、それ以外に選択肢がなかったという事情もある。
しかし、それだけではなかった。
初めて会ったばかりなのに、この男とは長く付き合えそうだという、妙な予感があったのだ。
翌日には、荷物の大半を引き上げて、雪之江荘に越した。
仕事も、深澤が知り合いに話をつけてくれたおかげで、近所のパーソナルジムに決まった。
住む場所ができて、仕事もできた。
それだけのことなのに、岩本は、久しぶりに先のことを考えられるようになった。
しばらくして、もう一人、空いていた部屋に住人が増えた。
目黒だった。
目黒は駅前の商店街にある花屋の息子である。駅前の再開発に伴って、一階の店舗と、その上に建つタワーマンションの一室が与えられた。
商売を続けられるのだから、ありがたい話ではある。
ただし、マンションの間取りはそれほど広くなかった。
実家暮らしを続けるには、いささか手狭だったのである。
その話を聞きつけたのが、小中学校の先輩である深澤だった。
「俺もさ、全然知らないやつに部屋貸すより、知ってるやつのほうが気ぃ使わなくていいじゃん? だから目黒が入ってくれると嬉しいのよ」
相変わらず、ずいぶん勝手な理屈だった。
けれど目黒にとっても、願ってもない話だった。
実家から近いし、慣れ親しんだ町を離れずに済む。
荷物だって、身の回りのものを持ってくるくらいでいい。
花屋の仕事も、その近くにあるカフェの仕事も続けられる。
暮らしに不満はなかった。
それに、目黒はすぐに岩本とも打ち解けた。
カフェで出す焼き菓子を試食用に持ち帰ることがあったのだが、甘いものに目がない岩本は、それをたいそう喜んだ。
人間関係というものは、案外、そういうところから始まる。
おいしいものを一緒に食べるとか、同じテレビを見て笑うとか、そういう小さなことの積み重ねで、いつの間にか相手が自分の暮らしの一部になっている。
雪之江荘での生活も、そんなふうに落ち着いていくはずだった。
少なくとも、深澤が夜中にとんでもないものを拾って帰ってくるまでは…。
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