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たまたまアルバイトが休みだった日の午後、シェアハウス【Felice(フェリーチェ)】の管理人・梅子に頼まれ、星良は梅子の知り合いの情報屋から書類を受け取りに出向いていた。
何故か直里も一緒に。
「なんでオマエまで来るんだよ」
「暇つぶし」
それなら部屋で趣味のゲームでもしていればよかったのに、と、星良は心の中で呟く。
「その情報屋って、F市駅の近くにいるんだろ? 駅前にすげぇ美味いって評判のラーメン屋があるらしいから、帰りに食ってこうぜ」
「はぁ……、遊びに行くわけじゃねぇんだぞ」
受け取る書類は、ここ最近で異能者が巻き込まれた様々な事件について詳細にまとめたもので、星良や直里たちが普通で平和な日常を送るためには重要なものらしい。その情報を梅子がどのように活用しているかまでは、教えてもらえなかった。
情報屋を訪ねて無事に書類を受け取った後、星良たちはラーメン屋に立ち寄った。
メニューがラーメン一種しかないその店は、直里の言うとおり評判が良いらしく、狭い店内は客でいっぱいになっている。時間帯によっては、かなり並ばなければ食べられないときもあるそうだ。
「うまっ! やっぱ人気店なだけあるなぁ」
直里は満足げにラーメンを啜っているが、星良のほうはあまり箸が進まない。
「どした?」
「思ったより油っこいな、これ……」
店主や店員に聞こえないよう、星良は小声で呟く。
確かに味は良い。が、濃厚なスープにたっぷりの背脂が足されたラーメンは、細目の縮れ麺にスープがよく絡み、少し食べただけでもズッシリと胃に溜まる。
「あー……、かなりのこってり系だからなぁ、星良には重すぎたか。俺に付き合って無理に食うことねぇぞ、残しとけ」
「いや、せっかく店の人が作ってくれたのにほとんど残すとか悪いし、できるだけ食う」
何度か個人経営の飲食店でバイトした経験がある星良は、店側の人間の様々な苦労も見てきているだけに、せっかく作って出してくれた料理を残すのに抵抗があった。
「律儀だなぁ。でも、ほんと無理すんなよ腹弱セーラちゃん」
「うるせぇ、セーラちゃんって言うなクソガキ」
さすがにスープまで飲むのは無理だったものの、少し時間をかけて麺と具はなんとか食べきり、星良は胃の辺りをさすりながら直里と二人で店を後にした。
それから直里のワガママでゲームセンターに立ち寄り、リズムゲームやらガンシューティングやらに二時間近く付き合わされ、ようやく帰路についた。
そして、帰りの特急電車に乗り込み、扉の傍に立って約二十分。
一つ目の駅に停車していた電車が再び動き出した直後のことだった。
「……っ」
下腹部の痛みと共に、星良の腸が派手に蠕動音を鳴らす。
他の乗客は気付かなかったようだが、目の前にいる直里には聞かれてしまった。
「今の音、星良だよな。大丈夫か?」
直里が星良にだけ聞こえるくらいの小声で問いかけてきた。
「う……」
腹痛と便意は急激に高まり、星良を苛み始める。鏡で確認せずとも、顔からサーッと血の気が引いていくのがわかる。
「大丈夫じゃなさそうだな。残せばいいのに、無理して食うから……」
「うう……」
「次の駅までもちそう?」
今乗っている特急列車にトイレはなく、次の停車駅までおよそ十五分ほどの間、我慢する以外に選択肢はない。
「……」
嘘でも「大丈夫」という言葉が出てこない。額に嫌な汗が滲む。
「はぁっ……、はぁっ……」
星良は痛む腹を押さえ、苦痛に息を乱しながら、ひたすら耐える。
出口付近まで急降下してきたものが、早く出せ、ここを開けろ、と、せっつくように内側から出口を強引に押し開こうとしてくる。
「星良、もうすぐだから」
直里はそう言うが、まだ五分程度しか経っていない。今の星良には、たったの一分でも途轍もなく長い時間に感じられた。
「ぐ……っ、う……」
更に五分ほど経過した頃には、平静を装いたくとも腹を押さえた手を離せず、身体が勝手に前屈みになり、足がガクガク震えだしていた。腹痛を起こしているのをアピールするかのような、明らかに不自然な体勢だとわかっていても、もう真っ直ぐ立ってはいられない。
ちらほらと星良の様子がおかしいことに気付く乗客が現れ始め、複数の視線が星良に突き刺さり、ヒソヒソと話す声が耳に届く。
「ねぇ、あの人……」
「めっちゃヤバそうじゃね?」
「まさか漏らしたりしねぇよな」
「やだ、やめてよ」
「それだけは勘弁……」
聞こえてくる冷たい言葉の槍に、心が折れそうになる。
ふいにヒソヒソ話が止み、恐る恐る顔を上げてみると、直里が声の聞こえた方向を険しい面持ちで睨んでいた。
「気にすんなよ、星良」
「う……、でも……、マジでもう無理かも……」
意地を張る余裕もなくなり、弱音が星良の口をついて出る。
「大丈夫だって、我慢できる我慢できる。立ってるのキツかったら俺に寄りかかっていいから」
さすがに寄りかかりはしないものの、星良は片手を伸ばして直里の服の袖を弱々しく掴む。駅まであと数分というところで、星良の腹痛はピークに達した。
「直里……、もうダメ……、出る……っ……」
星良は直里の肩に額を押し付け、か細い声で限界を訴えた。絶望感で目に涙が滲み、視界がぼやけてくる。
「大丈夫、あと少しで着くからな」
直里は星良の耳元で囁き、肩を軽くポンポンと叩いて励ます。
「ふぅ……っ……、う……ぅ……」
直里が声をかけ続けてくれたおかげで、なんとか気力を振り絞り耐えることができた。とはいえ、決壊寸前の状態なのは変わりない。
『まもなくO崎、O崎です。左側の扉が開きます、ご注意ください』
駅への到着を報せる車内アナウンスの後、ようやく電車が停車し、扉が開く。星良たちの最寄り駅はもう一つ先のE嶋駅だが、今は降りる駅を選んでいられる状況ではない。
「着いたぞ、星良。歩けるか?」
震える足では走りたくとも走れず、へたり込んでしまいそうになるのを直里に支えてもらいながら、ぎこちない足取りでよたよたと駅のトイレに向かう。
トイレの前まで来ると、水色の作業服を着て掃除用具を持った初老の女性が「清掃中」の看板を入口に立てようとしているところだった。
「あのっ、連れが具合悪くて! 使わせてもらえませんか!」
「あらまぁ、それは大変……、どうぞどうぞ」
直里が声をかけると、女性はおっとりした口調で言いながら看板を退けて二人を通してくれた。
「星良、使っていいってよ。荷物、俺が持っとくな」
「ん……」
肩に掛けていたメッセンジャーバッグを直里に渡し、トイレの個室に向かう。洋式便器が目の前に見えて、星良は「間に合った」と安堵した。
その一瞬の油断が命取りだった。
ずっと気を張って締め続けていた出口が無意識に緩んでしまい、腸内に押さえ込まれていた濁流はその隙を逃さなかった。
ブジュッというくぐもった音と共に、ドロリとした感触が下着の中に広がる。便器まであと数歩の距離での決壊だった。
「あっ……ぁ……」
ジーンズの中で、液状のものが腿を伝っていくのがわかる。頭が真っ白になり、その場にくずおれてしまいそうになる。
「星良! 早く中入って脱いで!」
直里が咄嗟に星良の肩を抱き、個室の中に連れ込む。
我に返った星良は、慌ててジーンズのボタンを外しファスナーを下ろす。そうしている間も、我慢に我慢を重ねて留めてきたものが溢れ続け、裾からボタボタと零れて靴や床までも汚染していく。扉も閉められず、直里が見ているからと恥ずかしがってもいられなかった。
下着ごとジーンズをずり下げ、便器に腰を下ろす。
「う……うぅっ……」
鈍く痛む腹を両腕で押さえ、腸内にまだまだ残っている便を排出しつつも、頭の中でいろいろな考えがぐるぐると駆け巡る。
床も便座も汚してしまった。清掃員に余計な手間を掛けさせるわけにはいかない。全部出しきって腹の調子が落ち着いたら、新築並みに綺麗にするぐらいの気持ちで掃除しよう。
そんなことを考えながら、腹の中のものを排泄し続ける。
「うっ……、くぅっ……、はぁ……、はぁ……っ……」
泥状からほとんど水に近い状態になった便がビシャビシャと音を立てて便器内に降り注ぎ、一向に止まる気配がない。
「つらそうだな……、腹さすろうか?」
直里が心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「それよりも、着替え買ってきてもらっていいか……、バッグの中に財布入ってっから……」
下着の中は汚泥がベットリこびりついて目を覆いたくなる惨状。ジーンズにも明らかに漏らしたとわかる染みが出来ている。靴もドロドロだ。
後片付けをするにしても、自分の身体と衣服が汚れたままで動き回っては新たな汚染場所を増やしてしまうだけ。情けなさと申し訳なさを感じながらも、ここは直里に頼るしかなかった。
「わかった、行ってくる。あ、拭くものもあったほうがいいよな? ウェットティッシュとか」
「ああ、頼む……」
「なるべく早く戻ってくるから」
直里は自分のリュックを背負ったまま星良のバッグを肩に掛ける。
「ドア、鍵かけとけよ。戻ったら外から呼ぶし」
そう言って直里が個室を出た後、すぐにドアを閉め鍵を掛ける。今更ながら、直里の前で漏らしてしまったうえに、トイレで下痢便を排泄する姿も見られたことに凄まじい羞恥が沸き上がってきて、悲鳴をあげたいぐらいの気持ちになる。
「すみません、おばさん。汚したところは俺たちで掃除するんで……」
直里が外にいる清掃員の女性に話しかける声が聞こえる。
「お連れさん、災難だったねぇ。お腹、大丈夫そうかい?」
女性の声音からは怒りや困惑は感じられず、本当に星良を心配してくれているようだった。
「えぇと……、たぶん大丈夫だと思います。すぐ戻るんで、連れはあのままにしといてやってください」
「はいよ」
女性は一度だけドア越しに「大丈夫?」と声を掛けてきて、星良が力なく「はい……」と一言答えた後は、そっとしておいてくれた。
直里が着替えを調達しに行ってからも、腹痛と便意はしつこく星良を苦しめ続ける。
油っこいラーメンを無理して食べただけで、ここまで酷く下してしまう自分の胃腸のひ弱さが恨めしくて仕方なかった。
――よりにもよって直里と一緒のときに漏らすとか……最悪……。
しょっちゅう下しているだけに、大人になってからの失敗も何度か経験はあるが、直里がフェリーチェに来てからは一度も失敗していなかった。今日までは……。
「ううぅ……」
また腸がギュルギュルゴロゴロと激しく蠕動し、水様便が噴出する。
――こんなみっともない姿、直里にだけは見られたくなかったな……。
普段はいがみ合ってばかりの直里が時折見せる優しさ、温かさに、星良はいつしか惹かれるようになっていた。
――ほんと、最悪だ……。
好意を抱く相手に醜態を見せたくはなかったという気持ち。
ズタズタになった、フェリーチェの年長者としてのプライド。
静まらない身体の不調。薄ら寒い個室で助けを待ち続ける孤独感。
ネガティブな要素が重なりすぎて、いつしかポロポロと涙が溢れてきて止まらなくなった。
「星良!」
三十分ほど経ち、ようやく腹が落ち着いてきた頃、ドアの外から星良を呼ぶ直里の声が聞こえた。
星良はシャツの袖でゴシゴシと涙を拭い、泣いていた痕跡を懸命に消して、ドアを開けた。
「星良、着替え買ってきたぞ」
直里の顔を見た途端、安心感からまた涙が出そうになるのを堪え、差し出された紙袋を受け取る。袋にプリントされたGUのロゴを見て、そういえば近くに大きな店舗があったなと思い出す。
「腹の調子はどうだ?」
「ああ、やっと落ち着いた」
「じゃあ、早いとこ身体拭いて着替えないとな」
直里は着替えの入っている紙袋とは別にドラッグストアのレジ袋を持っており、そこから「からだ拭き用・大判ウェットタオル」と書かれたパッケージを取り出した。
「お、おい、直里」
風邪をひいた時に有無を言わさず全身拭かれてしまったのを思い出し、慌てて直里の手を掴む。
「ん?」
「あとは自分でやるから」
「手伝うよ」
直里はさも当然のように言う。
「手伝わなくていい! 頼むから外で待っててくれ!」
「遠慮しなくていいのに……」
何故か不満げな直里を個室の外に押し出し、鍵を閉めて小さく息を吐く。
まずは汚れた靴とソックスを脱ぎ、ジーンズと下着も脱いで、下だけ裸になる。そして、厚手のウェットタオルを何枚も使い、足先から上に向かって丁寧に拭いていく。
身体を拭き終えると、紙袋から真新しい下着、ズボン、ソックス、靴を取り出し、身に付けた。
汚れものを入れることを考慮してくれたのか、ドラッグストアのレジ袋の中には同じレジ袋が二枚余分に入っていた。汚れた衣類とウェットタオルをそのレジ袋に押し込み、袋口をきつく縛って着替えが入っていた紙袋にしまい込む。
「あとは掃除だな……」
ひとまずはトイレットペーパーで便座と足下の汚れを大まかに拭い、個室から出る。
「星良、サイズ合ってたか?」
「ああ。掃除するからもうちょっと待ってろ」
「手伝おうか」
「いい、一人でやったほうが早い」
アルバイトを転々としている星良は清掃員の経験もあり、トイレ掃除も手慣れたものだった。掃除用具入れから必要な道具を持ち出し、床と便器に僅かに残った汚れも落としていった。
掃除を終えた後は、直里の提案で特急ではなく各駅停車の電車に乗り込んで帰路についた。
特急と違って乗客は少なく、直里と並んで座り、ゆったりと揺れに身を任せる。
「……」
後始末に集中している間はまだ気が紛れていたものの、やはり直里の目の前で失敗してしまったショックは大きく、何も言葉が出てこなくなっていた。
「星良、気にすんなよ。頑張ってトイレまで我慢したし、全部漏らしたわけじゃねぇし」
直里が小声で囁く。正直、何のフォローにもなっていない。トイレの前までは我慢しても、全部ではなくとも、漏らした事実には変わりないのだ。
「……俺、臭くねぇか?」
「全然。星良は気にしすぎなんだって」
直里はそう言うが、拭いただけでは完全に汚れが落ちたとは言えないだろう。しかも、傍らには汚物まみれの衣類が入った紙袋を持っている。いくら口を固く縛っていても、臭気が漏れているかもしれない。
「はぁ……、早く帰ってシャワー浴びてぇな……」
星良は独り言のように呟いた。
二人がフェリーチェに帰り着くと、いつぞやのごとく風太と時彦が出迎えてくれた。
「おかえりー! あれ? 星良、行くときと服変わっ……むぐっ!」
素早く直里の手が風太の口を塞ぎ、言葉を遮る。
「なーんも変わってないよな? 時彦」
直里は風太の口を塞いだまま、隣の時彦に視線を移した。
「え? でも……」
星良の姿をチラリと見て何か言いかけた時彦を、直里が笑顔で威圧する。
「うん、変わってない! なんにも変わってないよ!」
時彦の返答に頷いて風太を解放し、星良の肩をポンと叩く。
「行こうぜ、星良」
「ああ……」
二人して梅子の部屋に情報屋から受け取った書類を渡しにいくと、梅子は星良の姿を見ただけで大体の事情を察したのか、余計な言葉はなく、
「二人ともお疲れさま。星良、今日はゆっくり休みな」
とだけ言って書類を受け取った。
梅子の部屋を出た後。
少しでも早く身体を洗いたかった星良は自室に戻るなり衣装ケースから適当に部屋着をひっつかみ、風呂場に飛び込んだ。
温かいシャワーを全身に浴びて、少し前まで排泄物にまみれていた下半身を特に丁寧に洗い、やっと人心地がついたような気がした。
しかし、風呂場を出たところで腹痛と便意がぶり返し、またトイレに駆け込むはめになってしまった。
「クソ……、まだいてぇ……」
下腹部をさすりながら部屋に戻り、二段ベッドの下段に腰を下ろす。
直里はというと、上段のベッドでゲームに熱中している。音楽に合わせてカチカチと操作音が聞こえるところから察するに、リズムゲームをプレイ中のようだ。
星良は枕元に置いてある煙草の箱とライターを取って、箱を指で軽く叩き、飛び出した一本の煙草を口にくわえる。
ライターで火を付け、深く煙を吸い込んでは細く吐き出す。それを繰り返すうちに少し落ち着いてきた。他の入居者からは禁煙を勧められることもあるが、星良にとって煙草は手放せない精神安定剤だった。
しかし、今日のやらかしはあまりにもダメージが大きすぎた。一服して多少は落ち着いても、沈んだ気持ちは元に戻らない。
「はぁ……」
今日だけで何度目かわからない溜め息を吐く。
「溜め息ばっか吐いてっと幸せが逃げてくらしいぞー、セーラちゃん」
カチカチとテンポよく操作音を鳴らしつつ、直里が声をかけてくる。
「いいトシして漏らしたら溜め息も吐きたくなるっての。おまえだって、俺のことカッコ悪いやつだと思ってんだろ?」
「いや、むしろ可愛いと思ってる」
「はっ?」
直里の予想外の返事に、危うく煙草を落としかけた。
「よっしゃー! ハイスコア更新!!」
「おい、直里、おまえ今……」
直里はゲーム機を持ったまま、梯子を使わず上段から身軽に飛び降りてくる。
「風太に自慢してこよーっと」
「直里!」
星良の声が聞こえているのかいないのか、直里は跳ねるように元気よく部屋を飛びだしていった。