競馬の歴史とは即ち、優駿たちの激闘の歴史である。ことに日本の競馬においては俗にクラシック三冠と呼ばれる3つのGⅠレースを手中に納めた馬が注目されやすい。
一冠目は皐月賞。最も「速い」馬が勝つと言われている。直線が短い中山競馬場のコースレイアウトと三冠の中で最も短い2000メートルという距離が相まって、スピーディーな決着になりやすい。続いては日本ダービー。最も「運が良い」馬が勝つと言われている2400メートルのレース。開催時期が5月の後半と皐月賞より一ヵ月以上遅く、それ故に遅咲きの馬と皐月賞組が入り乱れる混戦になりやすい。したがって数多くの他馬を振り切って勝てる運が求められる。そして最後が、菊花賞。最も「強い」馬が勝つと言われている。3000メートルという距離を走り切るには、豊かなスタミナと「強い」体が欠かせないのである。
「速く」「強く」「運の良い」馬。この3つを兼ね備えた馬は、そう簡単には出てこない。70年以上の歴史を誇る我が国の競馬において三冠全てを制した馬がたった8頭しかいないことがその証明だろう。何よりクラシック三冠は3歳の競走馬しか挑めないため、たった一度のチャンスをものにしなければならない。だからこそ、三冠馬は抜きん出て強い馬の証なのである。
そして、上には上がいるという言葉があるように、三冠馬の中でも飛び抜けて強いと評される者がいる。日本競馬の至宝、ディープインパクト。デビュー戦を快勝し、無敗で三冠を勝ち取った。その後も数多のGⅠを勝ち、最終戦績は14戦12勝。競走馬としても三冠馬としても圧倒的な勝率を叩き出してターフを去った。
最後尾から一気に追い上げる派手な勝ち方と相まって多くの人から愛された彼は、いつしか「英雄」と称されるようになった。種牡馬としても多大な功績を残しており、1738頭もの子を成した。GⅠを獲った馬は数知れない。2022年現在でも、彼の子供達はレースで活躍している。
これは、その中の一頭の蹄跡が示す物語の最終章。
「最後は2頭の叩き合いだ!」
血脈が導く運命。
「無敗での三冠達成!」
遺伝確率1738分の1、英雄に見込まれた異能の存在。
「父ディープインパクトの偉業から15年、衝撃には続きがありました!」
その馬の名は、コントレイル。英雄の後継者が臨む最後の戦いは、血に翻弄され続けた己への哀歌になるのか、それとも類稀な力の証明となるのか。その答えは、ゴールの先にしかない。
2021年11月28日、東京競馬場。冬の冷たい空気に包まれたそこには15000人の観客が集っている。コロナ禍における人数制限をものともしない熱気である。彼らが待っているのは、日本が誇るGⅠレース・ジャパンカップ。国内外から強豪が集うこのレースは、今年で41回目を迎えた。
出走馬が発表された時、ファンは大いに盛り上がった。マカヒキ・ワグネリアン・シャフリヤールなど歴代ダービー馬が四頭も参戦し、さらに外国からジャパン・ブルーム・グランドグローリーの3頭が出走を表明。キセキやユーバーレーベンなど過去にGⅠを獲った馬や、アリストテレスやオーソリティなど名脇役も名を連ね、まさに群雄割拠といった様相であった。しかし、このレースには主役であることを運命づけられた馬がいた。
コントレイル。令和初の三冠馬にしてディープインパクトの最高傑作。デビュー戦から他馬を圧倒する力を見せつけ、2020年には無敗でクラシック三冠を達成。親子揃って無敗の三冠という前代未聞の記録は、人々に衝撃の再来を確信させた。
しかし、父の背はあまりにも大きく、そして遠かった。ディープインパクトは2戦しか敗北しなかった一方で、コントレイルは3連敗に出走回避と三冠後のキャリアは散々であった。彼の名誉の為に言っておくが、敗北と言っても3着以内は必ず確保しておいる。その敗因も明確で、疲れが抜けきらない中での出走や雨のせいで走りにくくなった馬場、執拗なマークによる包囲など本人にはどうしようもないことばかり。並の馬ならば「仕方ない」で済まされただろう。だが、三冠という称号と父の存在が、皮肉にも彼の評価を転落させる要因となったのである。「最弱の三冠馬」「ディープには遠く及ばない」何度もそう言われた。コントレイルの尊厳を傷つける言葉も数知れずあった。
その痛みを誰よりも受け止めているのは、主戦騎手である男だろう。彼の名は福永祐一。天才と名高い騎手である福永洋一の息子だ。初騎乗にして初勝利を飾ると、そのままの勢いで53勝を挙げて最多勝利新人騎手となった。9年連続で勝率1位の座に君臨し続けた天才の血を引く優秀な新人。期待されないはずがなかった。
しかし、才能というものは必ずしも遺伝しない。初めて挑んだクラシック三冠では一度も1着もとれなかった上、ダービーに至っては14着と大敗。勝率も父の半分にすら届かない年が続いた。他の騎手から腕を酷評されることも珍しくはなく「親の七光り」「福永洋一の息子なのに」ついて回るのはいつも父の名だった。
それでも愚直に努力を重ね、デビュー3年目に最高グレードであるGⅠを初めて買った。大舞台で功績を出し続け、2018年には父が三冠の中で唯一獲れなかったダービーを勝利。その翌年にコントレイルと出会い主戦騎手を担当。三冠ジョッキーとしてその地位を不動のものにした。「人生観を変えてくれた」と語るほどに信頼している相棒の花道を飾るため、彼は最後まで手綱を取る。
ゲートの中がこれほど狭苦しいと感じたのはいつぶりだろう。初めてレースに挑んだ時か。初めてGⅠに出た時か。初めて格上と戦って負けたあの日か。いや、そのどれとも違うな。勝てるかどうかという不安からじゃない。このレースを最後にターフを去ることへの感情だ。物心ついた時からずっと走ることだけ考えてきた僕が、競走馬ではなくなる。そんな自分が想像できない。一番外の枠に入ったのは……ジャパンか。アイルランドという遠い地からやってきた馬だと祐一が話していた。彼がゲートに収まったということは、そろそろ幕開けか。これがラストラン。「ディープインパクトの息子」ではなく「コントレイル」として歴史に名を刻む最後のチャンス。
お前の手綱を取る最後の日が、こんなにも早く訪れるとは。俺を三冠騎手にしてくれたあの日から、もう一年以上経ったんだな。決して長距離が得意なわけではなかったのに、歯を食いしばって1位を死守してくれた。3000メートルを走り切った勝負根性を見た時、既に父親を超えているんじゃないか、そう思った。だからこそ実力を証明できなかったことが今でも悔しいし、このレースを勝ちたい。勝って、自分もまた父を超えられたと、三冠騎手にふさわしい能力の持ち主だと胸を張って言いたい。 両者が覚悟を決める中、遂にゲートが開く。2400メートルの王座決定戦が幕を開けた。
出遅れることなく踏み出せた。ポジションも悪くないし、順調な滑り出しだ。前に5、6頭いるくらいの位置で控える、僕と祐一の王道パターン。このメンバーなら先頭に立つのはキセキか……いや、あの後ろ姿はアリストテレスだ。彼はハイペースで飛ばすタイプじゃない。このレースはスローペースになりそうだ。
キセキがハナにいないのは出遅れたからだろう。俺も騎乗したことがあるが、あの馬の脚質じゃ終盤で追い上げるのは厳しいだろう。ただ、今回の鞍上は和田だ。逃げ馬だからといって出遅れで勝つことを諦めるようなタイプじゃない。間違いなく第4コーナーまでに逆転の一手を打ってくる。コントレイルのパワーなら問題なく追い上げられるから、惑わされず冷静に行こう。
現在先頭に立っているのはアリストテレス。菊花賞でコントレイルと渡り合った一頭だ。2、3馬身開いて2番手にいるのは2018年度ダービー馬のワグネリアン。さらにシャドウディーヴァとオーソリティが続いて、五番手には2021年度ダービー馬のシャフリヤールがいる。コントレイルはそのすぐ後ろ、馬群の中ほどで進んでいく。彼らより後ろには2017年度ダービー馬のマカヒキ、ジャパンやブルームなどが控えている。縦長の隊列をなして、第1コーナーから第2コーナーにさしかかる。
もうすぐ第2コーナーの出口。今のところ悪い兆候は見えない。先行集団は互いに牽制しているし、後方集団が動く雰囲気もない。祐一の騎乗からもそれが伝わってくる。
向こう正面の直線に入った。そろそろ和田が仕掛けてくる頃合いか。アリストテレスの鞍上は若手だから、慌ててペースを上げるかもしれない。そうでなくとも、突然のハイペースな展開に対応出来ず後ろが総崩れになることは十分有り得る。俺もコントレイルも馬群は好きじゃないから、早めに外に出ておきたい。
ストレートの半分を先頭集団が過ぎた辺りで、最後方から追い上げてくる馬が一頭。福永の読み通り、和田とキセキが打って出てきた。隊列を作る馬を次々に抜いていき、コントレイルの横を通過。その勢いは止まらず、先頭のアリストテレスをも躱して先頭に立った。そのままぐんぐんと伸びていき、4馬身のリードを作る。
一か八か賭けに出たな、キセキ。去年もそうだったな。彼が逃げに逃げて、僕たちが追い上げる展開。あの時だって仕掛けどころを変えなかった。唯一あの時と違うのは、僕が挑戦される側であることだ。ただ一頭だけ僕の前を行ったGⅠ9勝の女王も、共に挑んだ同期の三冠牝馬も、もういない。
やはり逃げたな、和田。お前ならそうすると思ったよ。お前とキセキの背を見ていると、1年前のあの日が脳内に甦る。最初から最後までハイペースだった消耗戦。コントレイルは菊花賞の疲れが抜けていなかったのに、最後まで1着になろうと追い上げていた。自分の体に鞭打つ辛さも、届かなかった悔しさも、一度だって忘れたことはない。
あっという間に第3コーナーを過ぎ、第4コーナーの出口が見えてきた。先行集団は競り合い続けたためか伸びが悪く、キセキもさすがに疲れが感じられる。後方集団が足を溜める中、馬群が散ったのを機にコントレイルはコーナーの外側へと抜け出した。
僕は父のように派手な勝ち方は出来ない。体も丈夫じゃないし、常に足の心配をしながら走ってきた。それでも自分なりの走りを見つけて、今日まで走ってきた。三冠を獲れたのは皆の、そして祐一のおかげだ。なのにまだ僕はその恩を返せていない。だから絶対に勝ちたい。皆から貰った夢を、皆から貰った勇気を、今こそ形にするんだ!
コントレイルは馬群の外を回って追い上げる。ほぼ同じタイミングで内側からオーソリティが、真ん中からシャフリヤールが抜け出した。
俺は親父のように才覚に恵まれていたわけじゃない。だからやれることは全部やって、今に繋げてきたつもりだ。俺が三冠ジョッキーになれたのは、お前の力あってこそだ、コントレイル。ジョッキーとして更なる高みに連れていってくれた相棒の花道を飾れるのは、俺しかいないんだ!
二人の思いが速さになって、次々とライバル達を追い抜いていく。シャフリヤールと横並びになりながら向かった最終直線、新旧ダービー馬のデッドヒートが始まった。福永はコントレイルに鞭を入れ、同時にオーソリティの斜め後ろに進むように少しだけコースの外側に寄せた。
パートナーからの合図に即座に応えるコントレイル。ギアを一段上げ、最大出力で地面を蹴る。四本の豪脚が芝を揺らす。気鋭のルーキーも負けじと張り合うが、徐々に三冠馬の馬体が頭一つ抜けていく。同時に、福永の騎乗が光る。オーソリティの斜め後ろに陣取ったのは、シャフリヤールの進路を塞ぐためだった。内側に馬がいる以上シャフリヤールは必ず外に出ようとしてくる。オーソリティは先んじて前に出られたため、彼の真後ろで走らざるを得ないようなコース取りにさせるためにあえて誘い出したのである。
知略と脚力でダービー馬対決を制し、その勢いのまま加速するふたり。前で粘るオーソリティを難無く捉え、あっという間に置き去りにした。外目を着いて1馬身差、2馬身差とギャップを広げ、そして――
「コントレイル!これが、本来の姿だ!ゴールイン!」 絶対王者の復活を告げる実況が、夕暮れの府中に響き渡った。
涙で前が見えない。ゴールした瞬間から、溢れるように出てきた。立派に走ってくれたな。脚部不安で出走取り消しまで考えていたのが嘘みたいだ。静かな競馬場で勝ち続けてきたお前に、歓声を聞かせることが出来て良かった。主戦騎手になれて良かった。
ありがとう。コントレイル。
先頭でゴールすること。この嬉しさ、この感覚、ずっと待ち望んでいた。ターフを去る前に思い出せた。泣くほど喜んでくれて嬉しい。これで僕も心置き無く引退できる。僕たちの航跡は、これからずっと輝き続けるだろう。僕の背に乗る騎手が君でよかった。
ありがとう。祐一。
親が偉大だと子が苦労するのは世の常である。期待、比較、失望……その苦しさと重圧は計り知れない。だからこそ、それを跳ね返すように飛躍する者は一段と美しく見えるのだ。天才の子供たちは長い時を経て、ようやく一流として認められた。「〇〇の息子」ではなく、「コントレイル」と「福永祐一」として。コントレイル。英語で「飛行機雲」の意。有終の美を飾った府中の空は、飛行機雲が映えるような鮮やかな青だった。
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