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まだまだ問いかけたいことは山ほどあったが、見せつけられてしまった様子からこれ以上深く追求しない方が良いと察したリオンは、週末の騒動を思い出しつつ頬杖を突いて溜息を零す。
その溜息の理由を探ろうとコニーが相変わらず煮詰まっているコーヒーを注いだマグカップを片手にリオンの横に立ち、同僚の椅子に腰を下ろして足を組む。
「どうしたんだ?」
「・・・やっぱ俺は身辺警護だの何だのは苦手だなぁって」
先日の失敗について警護対象者であるレオポルドからそれなりの法的手段を執らせて貰うと言われた事を溜息混じりに告げてコニーを情けない顔で見つめれば、人には得手不得手も好き嫌いもあるからなぁと暢気に呟き、お気に入りのマグカップのコーヒーを一口飲んで同じように溜息を零す。
コニーとしては好きで身辺警護をしている訳ではないが、仕事に関する向き不向きで言えば今刑事としてこの署にいる面々の中では随一とも言える腕前を発揮するのだ。
だがコニーとて刑事になったばかりの頃からずば抜けていた訳ではなく、何度も経験した中で仕事を覚え対処法も学んで来たと、リオンを慰める気持ちと事実をありのまま教えるように告げれば、リオンが背もたれに伏せていた顔を上げて眉尻を下げる。
「情けない顔するんじゃないわ、リオン」
「・・・何事も経験、か?」
コニーの背後からダニエラが腰に手を宛がって慰めと言うには若干強い口調で告げ、その言葉にリオンが涙を拭くフリをして顔を上げて背筋を伸ばす。
「そうそう。もしかすると今回の事は経験値を積ませる為に誰かが仕組んだことかも知れないわね」
「冗談じゃねぇ、止めてくれよ」
「本当にな」
ダニエラの言葉にリオンが絶句し次いで嫌悪感丸出しの顔で否定すれば、その横ではコニーが仰々しく頷いてコーヒーを飲み干す。
「まあ、でも身辺警護の仕事も必要だからな。こう言っちゃ悪いが、今回は対象者も怪我をしなかったし軽いものだったから良い経験になっただろう?」
仕事上で貴重な助言をしてくれる同僚の言葉をかみ砕いて飲み込んだリオンの顔が次第に明るさを増し、雲の合間に見える日差しのような笑みが浮かび上がった事にコニーとダニエラが安堵するように視線を少しだけ交じらせる。
「でもさ、警備の責任者に法的な手段で訴えるって言われたからなぁ」
あの親父の事だ、どんな法的手段に訴えるのかが恐ろしいと再び顔色を曇らせて溜息でデスクを彩れば、それも経験だと苦笑しつつコニーがリオンの肩を叩き、頑張れとこの場合に限っては全く意味のない励ましの言葉を投げ掛ける。
「あ、他人事だと思ってるだろ!」
「他人事だ」
優しいのか優しくないのか分からないと叫んでデスクに突っ伏したリオンだったが、どう足掻こうが仕方がない、腹を括るかと突き抜けた笑みを浮かべて椅子の背もたれを軋ませると、コニーもダニエラもそんなところが羨ましいと言いたげに肩を竦める。
「そうだ。なあ、穴の開いたスーツって修繕出来るかな?」
「穴のサイズにもよるでしょうけど、出来るんじゃないの?」
リオンがデスクに頬杖をつき、オーダーメイドのスーツに穴を開けてしまったことを告白すると、もったいないだの何だのと言った声が周囲から投げ掛けられてもう一度デスクに突っ伏してしまう。
「分かってるから何とかならないかって聞いてんだろ」
「この間のスーツか?」
「そうそう。穴あいちまった・・・」
あのスーツに関しては本当に踏んだり蹴ったりだと、泣き真似をするように唇の両端を下げたリオンにダニエラが買った店に持って行きなさいと優しく提案をしてくれるが、出来ればあの店には行きたくないとそっぽを向いてしまう。
「どうしてよ」
「・・・・・・何かさ、オーヴェには似合ってるし相応しいけど、俺にはなぁ・・・」
リオンにしては珍しく奥歯に物が挟まったような物言いに二人の同僚が顔を見合わせるがコニーが仕方のない事だなぁと呟いてコーヒーを飲もうとするが、マグカップが空だった事を思い出して苦い表情を作るとマグカップをテーブルに置いて溜息を零す。
「・・・そんなのは付き合いだした時から分かっていた事じゃないか」
「そりゃあそうだけど・・・実際目の当たりにすると結構辛いものがあるぜ、コニー」
考えたくはないがどうしても考えてしまう、恋人との社会的格差をどうあっても感じてしまう事態に直面するとやはりやるせないし切ない溜息しか出てこないと肩を竦めたリオンに、コニーも妻と付き合っていた頃に感じた事があるのか、少しだけならばその気持ちが理解できると同意をするが、自分とは比べられないと言葉を続けたためにリオンがデスクから身体を起こしてコニーに向き直る。
「どういう事だ?」
「俺の場合はヘラはモデルだったからたかが知れてるが、バルツァー会長夫人は確か・・・何処かのロイヤルファミリーに連なる人だと聞かされたことがある」
「は!?ロイヤルファミリー?」
「ああ。生まれたのは戦争前後だろう?まだまだ貴族様は沢山いらっしゃったからなぁ。・・・ドクの家系図を遡ればとんでも無い人間が出てくるんじゃないのか?」
コニーの言葉に、まるで映画か小説のように次から次へとセレブばかりが出てきて、祖父さん祖母さんまで名前の通ったお貴族様じゃないのかと冷たく笑ったリオンだが、お前は本当に何も知らないんだなと二人の同僚から軽く驚かれてしまい、逆にそれに対してリオンが苛立ちを双眸にだけ浮かべてしまう。
付き合いだした頃に周囲からよく言われた育ちの違いは大きいと言う言葉を思い出せば苦い思いも甦ってくるが、不思議なことにウーヴェと二人でいる時には生まれ育ちの違いやごく自然と滲み出るだろうものを感じることがなく、その苦さも彼と一緒にいれば消え失せてしまっていたのだ。
今回の仕事で何度か訪れた実家は確かに美術館や博物館並みの荘厳さを誇る屋敷で、恋人が一人で暮らすアパートも標準的な家庭と比べれば広い家だった。
乗っている車もリオンからすれば憧れを通り越してただ眺めるだけの車で、やはり周囲の口さがない人たちからは親に買って貰ったのだろうと言われたが、開業医としてやっていける確信を抱いてからスパイダーを購入したウーヴェが、親の脛をかじって生きている誰かさんと一緒にするなと言い放って相手を絶句させたことがあったそうだ。
恋人が最も嫌うものの一つが親の七光りであることを良く知っているリオンにしてみれば彼のそんな態度は自らの心持ちと共通していた為、生まれ育ちについて負い目や引け目を感じることなどなかったのに、周囲がそれをことさら煽るような事を言い出したために短く舌打ちをする。
「知らないも何も、オーヴェは家族と付き合いがないから仕方ねぇだろ?」
「政財界でも有名な夫婦だぞ、あの夫婦は。お前はあまりにも知らなさすぎる!」
若かりし頃のレオポルドはいつ政治家に転身し、政財界のトップに君臨するのかと期待半分やっかみ半分で言われ続けるような人だったし、その妻が何処かの王族の血を引いているとなれば家名に憧れを抱く人々の間では話題にならない方がおかしいぐらいだったと教えられ、その言葉が脳味噌の中に杭を打ち込んで引っかかった事に気付き、ならばどうして事件が知られていないんだと顎に手を宛う。
「リオン?」
「ん?いや、何でもねぇ。・・・オーヴェの母さんの出身って何処だ?」
「スウェーデンだったかな?」
教えられた事実に素っ気なく頷くが、スウェーデンだろうがデンマークだろうがイングランドだろうが自分には関係のない事だと肩を竦め、恋人の背後に連なる地位と名声が放つ光に些かうんざりし始める。
確かにウーヴェを彩る家名や肩書きを見ていけば羨むようなものばかりが溢れていて、天は幾つも人に与えるものなのだとただ溜息がこぼれ落ちるが、そうではないと否定をする声が胸郭に溢れかえる。
良く思い出せと囁く声に導かれて今まで経験した事を思い返せば、ウーヴェの口や態度からはいわゆるセレブと聞いて連想する事象を感じ取ることが無いと気付く。
医者という地位は事件の後何とか立ち直って人並みに生活が出来るようになってから必死に勉強して得たものである事は疑う余地が無く、あの愛車も自らが稼いだ金で購入した為、やっかみ半分で嫌味を告げる人に対して冷たい皮肉を言い放ったのだろう。
リオンが初めて得た給料は大半をマザー・カタリーナに預けて彼女らを驚かせ、それ以降決まった額の金をマザー・カタリーナに手渡しているが、その残りをやりくりした金で自転車を購入し、せっせと乗り回している事と同じだと気付き、椅子の背もたれを軋ませながら天井を見上げて溜息を零す。
実家が地位や名声を持っていると言うだけで自らが思いもしない言葉を投げ掛けられ誤解された続けた結果が誘拐事件だとすれば、それはあまりにも悲しい事だったが、本当に幸せなのはどちらだろうかと考え込まざるを得なくなる。
金が無くてもそれなりに日々面白おかしく過ごし、今は夢に見た刑事という職を得ている自分と、親が金を持っているが為に今でも夢に見て魘されてしまう事件に巻き込まれた恋人とでは、一体どちらが幸せなのだろうか。
「・・・切ないなぁ」
己の脳裏で沸き起こった疑問に対する答えなど見つからないが、溜息を一つ零して呟くと、腹が減ったのかと言われてがっくりと肩を落とす。
「くそー、思い出したら腹が減ったじゃねぇか。コニーのくそったれ!」
「お前が切ないなどと言うからだっ」
昼食までにはまだ時間がある為、時間が来るまでどうやって腹の虫を誤魔化そうかと思案し始めたリオンだが、誤魔化す必要など無くヒンケルが隠し持っているチョコを奪い取ればいいのだと気付いて不気味に目を光らせると、その気配を察して身を引く同僚に向かって不気味としか言いようのない笑い声を残してヒンケルの部屋へと突進していく。
程なくして部屋から何ごとかを争うような物音が響き、周囲が何ごとだと部屋を除いていくが、いつものようにリオンが騒いでいる事を知ると呆れたような顔で三々五々立ち去っていくが、リオンが名誉の負傷をしたが戦利品を手に入れたと蹌踉けつつ戻ってくるが、その手にはしっかりと正方形のチョコ-いつもリオンが買い求めるそれのミニチュア版-を握りしめている事に二人の同僚はただただ溜息を零すしか出来ないのだった。
その日、いつものように患者の診察を終えたウーヴェは、今日もお疲れ様でしたとオルガとすっかり習慣になっている挨拶を交わし、明日の予定を脳内で組み立てた後、彼女が用意をしてくれたバインダーにメモを挟んで診察室の隣の小部屋のドアを開ける。
今日は恋人はどうやら忙しいようで朝から全く連絡が無く、珍しい事もあると苦笑しそうになるが、先週末の口論を思い出せば当然のことかも知れないと不意に暗澹たる思いに囚われそうになる。
あの時の口論はあの夜に終わった筈で、翌朝は二人揃って少し遅い時間まで眠りを貪り、ブランチを食べて晴れ間が見えていた為に近くの公園に散歩に出かけたのだが、その時には前夜の口論の蟠りも何も無く、いつものように陽気な笑顔で笑いかけられて同じように控えめではあっても笑い返していたのだ。
だから大丈夫だと己に言い聞かせるように囁き、ジャケットを脱いでコートを片手に小部屋を出ると、診察室のドアがノックされている事に気付く。
「はい」
どうぞと入室を促すとドアが開き、顔を出したのは先日とはまた違った派手な化粧をしたブルックナーだった。
「今良いかしら、ウーヴェ?」
「マルセル?どうかしたのか?」
依頼していたスーツを持ってきてくれるのならば兎も角、ここに来る事が珍しい彼の来訪に眼鏡の下で目を丸くしたウーヴェは、どうしたんだと再度問いかけながらソファを掌で示し、自分はデスクの端に尻を乗せて彼と正対する。
「この間のスーツの事」
「スーツ?」
ブルックナーが足を組んでソファに腰掛けると同時に無骨でも恐ろしいほど器用に動く指を唇に宛がって窺うように見つめてくるが、その姿態を見慣れているウーヴェは特に感想を抱くことなくオウム返しに呟くと、ブルックナーのパールがふんだんに塗りたくられている唇が不安げに歪んでしまう。
「・・・自信はあるのよ。でもどうだったのかしら」
何に対する自信と不安なのかを見抜くとつい苦笑がこぼれ落ち、睨まれて咳払いを一つして掌を立てて悪気はない事を伝えると、ブルックナーが大きな身体をソファの上で小さくしてしまう。
「俺のスーツはやはりこれからも頼みたい。そう改めて思ったな」
「それ、本当かしら?」
「お世辞を言ってどうなる?」
着心地が良いからそう言っているだけだと告げて肩を竦めたウーヴェは、あることを思い出して彼が口を開く前に問いを発する。
「スーツに穴が開いたんだが、修繕出来るだろうか」
「穴の大きさはどれぐらいかしら?」
「そうだな・・・小指の先ほどかな」
「それぐらいなら問題ないわ。でも・・・」
あなたがスーツに穴を開けるなんて珍しいと心底驚いたように目を丸くするブルックナーにもう一度肩を竦めたウーヴェは、リオンだと答えて背後の窓を肩越しに見つめる。
「え?この間のスーツに穴を開けたの!?」
「ああ」
「信じられないわ!あんな立派なスーツに穴を開けるなんて・・・!」
仕立屋のプライドが許さないのか、乱雑に扱った為に穴が開いたことを疑わないブルックナーの言葉にウーヴェが眼鏡の下で目を細め、仕事だったのだから不可抗力だろうと胸の裡で溢れる怒りの一端を冷たい言葉に載せて彼に突きつければ、一瞬にしてブルックナーの顔色が変化し、言い過ぎたわと肩を竦めて見つめられる。
先週の自分も彼の職を貶すような事を感情的に言ってしまってリオンと口論になったのだが、日が経つにつれあの日の己の言動はやはり八つ当たり以外の何物でもないと思い至って反省をしているが、他人から似たようなことを言われると瞬間的に怒りを感じてしまう。
陽気な笑顔の子供のような性格の恋人が刑事という仕事にどれほど誇りを持っているのかを直接聞いたことはないが、ふざけているように見える態度のそこかしこに顔を覗かせている事をウーヴェは知っており、そんな恋人だから尊敬も出来るし何度も好きになると自嘲した事もあったほどで、そんな彼を貶される事など耐えられる筈もなかった。
ウーヴェの冷たい怒りを素早く察したブルックナーが両掌をウーヴェに向けて溜息を零した為、言い過ぎたとウーヴェも目を伏せて肩を竦めつつもう一度問えば全く問題は無いわと仕立屋の顔で頷かれる。
「分かった。その時はよろしく頼む」
「任せておいて」
穴の存在など全く感じさせないほど完璧に修繕してあげるわと片目を閉じられ、スーツなどに関しては全幅の信頼を置いているブルックナーに一任すると頷くと再度ドアがノックされるが、今度のノックはまるでリズムを付けているかのようでしかも大きな音を立てていた為、ウーヴェが無意識に溜息を零しながら額に手を宛がう。
「どうぞ」
「ハロ、オーヴェ!」
今日も一日頑張って働いたからキスしてと、満面の笑みを浮かべたリオンが飛び込んでくるが、一人掛けのソファで巨体が振り返ったことに気付いてそのままの姿で飛び上がり、背後で閉まるドアに背中を強かにぶつけて悲鳴を上げる。
「・・・恋は盲目とはよく言ったものよね」
「・・・・・・お疲れ様、リオン」
背中に手を宛がって痛みを分散させるように撫でるリオンにウーヴェがもう一度深々と溜息を零し、そんなウーヴェとリオンの間ではブルックナーがどうしてこんなにも騒々しい子がウーヴェの恋人なのかしらと、ウーヴェをよく知る者ならば一度は発する疑問を口にする。
「あーびっくりした。ブルックナーじゃねぇか」
「びっくりとは何よ」
それにびっくりしたのは私の方よと、胸に手を宛がってガラスのハートが壊れたらどうしてくれるのとリオンを睨んだブルックナーだったが、デスクの辺りから小さく吹き出す音が聞こえた為に振り返ると、ぎこちない態度で顔を逸らすウーヴェがいて、今度はウーヴェを詰問するように名を呼ぶ。
「・・・強化ガラス?」
床に落としたぐらいでは割れないぐらい強固なガラスかとにやりと笑うリオンにブルックナーが呆気に取られた直後、勢いよく立ち上がって腰に手を宛がう。
「ちょっとどういう意味よ!あなた達と違って繊細なのよ!」
「オーヴェ、繊細ってどういう意味だっけ?」
ブルックナーの剣幕に首を竦めつつもにやりと笑みを浮かべてウーヴェの傍に駆け寄ったリオンは、目を吊り上げる彼をからかう事が楽しい顔で小さく舌を出す。
「リオン」
いい加減にしろと言外に窘めて溜息を零したウーヴェがお前のスーツの修繕を頼んでいた所だと苦笑すると、リオンも思い出したのか目を瞠った後掌に拳を打ち付ける。
「そうだった!なあ修繕出来るか?」
「ええ。見てみないと分からないけれど、多分大丈夫でしょう」
だからスーツを今度店に持ってきなさいと言われたリオンの口が躊躇うように開閉した後、へらりと笑みを浮かべて後頭部に手を宛がってオーヴェに預けると告げるが、その言葉にブルックナーが意味有り気に目を細め、アイヒマンなら随分と大人しくなって働いているわと衣服の乱れを直しつつ苦笑する。
「へ?」
「・・・そうなのか」
「ええ。ハウプトマンに叱られたとかではないみたい。あの子はあの子なりに何か思うことがあったのでしょうね」
だからあなたは気にすることなく店に来ればいいと肩を竦めるが、リオンはウーヴェの肩に顎を載せるように身を寄せて沈黙を保っていた。
「リオン?」
「・・・うん、やっぱりさ、オーヴェが持ってってくれよ」
自分があの店に足を踏み入れるのは場違いな気がして仕方がないと、今朝同僚達と交わしていた言葉を思い返しながら告げると、ブルックナーがソファに再度腰掛けつつ鼻息も荒く当たり前よと言い放った為、リオンが肩を揺らしウーヴェがターコイズに険しい光を浮かべてどういう意味だと先を促す。
「あの店は老舗と呼ばれる程長い間やっている店なのよ。それなりの格式も当然あるわ」
「だから俺には相応しくないって。オーヴェなら行き慣れてるからおかしくねぇし」
あの店に行ったとき自分の存在が酷く浮いている事に気付き、ああ、自分にはやはり縁遠い店なのだと改めて気付いたと、ウーヴェの身体を抱きしめる腕に無意識に力を込めたリオンが自嘲すれば、腕の中でウーヴェが身動いでそんな事を言うなと少しだけ切羽詰まった声を挙げるが、ブルックナーは頭を左右に振って腕を組む。
「あなたに相応しいとかの問題じゃないわよ。老舗のプライドがあるのよ。店の品格を下げるような人を自分から相手にはしないわ」
リオンにとっては手厳しい言葉を告げたブルックナーを思わず睨んだウーヴェは、お前の品格が下だとか店のそれが上だとかは関係ないと取り繕うように告げるが、その言葉を遮るようにブルックナーがリオンの顔を真正面から見つめながら口を開く。
「それなりの場所に出るときにはそれなりの格好をしなければ相手にして貰えなくて当然よ。馬鹿にされたくないのならその場の雰囲気を尊重することも必要だわ」
ブルックナーの言葉に何も返せずに沈黙してしまったリオンを気遣うように手を挙げて金髪を撫でたウーヴェだったが、彼が言わんとする事を察して目を伏せる。
リオンの闊達な子供のような明るさは長所でもありウーヴェの最も愛するものでもあるが、あの店のように格式張った場所では相応しくないものとして受け止められかねないもので、ブルックナーが先に名前を出した店員も当然ながら店の教育方針に則って対応しただけの事だった。
だがウーヴェが感情的になって彼女の態度を咎めてしまった事に気付き、視線を足下に落としてしまう。
「ウーヴェの気持ちも分かるけれど、子供じゃないのよ・・・スーツの修繕だけどリオンが持ってくるのなら完璧に仕上げるわ。でもウーヴェが持ってきたら継ぎ接ぎがはっきりと見えるように繕うからね」
分かったわねと睨まれて頷くことも出来なかったリオンだったが、まだ何かを言いたげに口を開閉しながら拳を握って踵を返したブルックナーの広い背中を見送り、ドアが閉まると同時に溜息を零してそのまま床に座り込んでしまう。
「リオン」
「・・・・・・ごめん、オーヴェ・・・」
だから今は何も言わないでくれと、立てた膝の間に頭を落としてぼそぼそと覇気のない声で呟かれて分かったと短く返したウーヴェだったが、躊躇いを感じながらもリオンの傍に同じように座り込むとくすんだ金髪に腕を回して自らの胸元へと引き寄せる。
「リオン」
「・・・・・・やっぱあれかな、オーヴェと俺じゃあ・・・」
リオンの肩が自嘲に揺れて言葉もこぼれ落ちるが、途切れた先を読み取ったウーヴェがきつく目を閉じてリオンの髪に口を寄せる。
「自分を蔑むなと言っただろう?」
「・・・・・・でも、さ・・・」
「マルセルが言った事はお前が考えている様な意味じゃない」
お前が考えるようにバルツァーの家名で相手が頭を下げる訳ではないと、どうか真意が伝わってくれますようにと願いつつ囁けばリオンの肩が三度揺れる。
「お前は子供じゃないんだ。その場その場に相応しい服装や態度がどんなものであるかを知っているだろう?」
あの店のような雰囲気に場慣れしていないとはいえ、時と場合に即した対応が出来る筈だと、お前ならば出来る筈だともう一度自信を与えるように告げると、本当にそれだけだろうかと訝る声が籠もりながらも流れてきた為、疑う余地を与えない程きっぱりと断言する。
「ああ。彼も俺の友人だ。俺の友人の中に人を外見だけで判断するようなヤツはいない」
ましてや生まれ育ちで人を差別するような人は知人とすら呼びたくないと嫌悪感を隠さない声で告げると、リオンの伏せた顔がやっと挙がり、小さな笑い声も流れ出した為に無意識に安堵の溜息を零す。
「・・・うん、そうだよな」
「ああ。・・・・・・胸を張れ、顔を上げろ、リオン」
お前はその名前が示すとおり、何物にも囚われることのない絶対的な王者なのだからと歌うように囁けば、その言葉が胸の中でふわりと咲いたことを示す笑みが唇の端に浮かび上がり、青い眼に自信が滲み出す。
「今度一緒に店に行ってくれるか、オーヴェ?」
「もちろん。新しいスカーフが欲しかったんだ」
だから一緒に店に行こうと笑うウーヴェにリオンもいつもと同じ笑みを浮かべて気に入るようなスカーフがあれば良いなぁと暢気に笑い、一緒に選んでくれとウーヴェが笑みを深める。
「腹減ったなぁ・・・早く帰ろうぜ、オーヴェ!」
すっかりといつものリオンに戻った事に安堵したウーヴェは、早く帰ろうと騒ぐ恋人に少しだけ待ってくれと告げて立ち上がると、足でリズムを刻む事で心理的に急かせる作戦を遂行中のリオンを軽く睨んで待てないのかと告げるが、何かを思い出した様に動きを止めた為、診察室のドアにカギを掛けつつどうしたと問えば、オーヴェと低く名を呼ばれる。
「リオン?」
「・・・今日も仕事を頑張った!」
その一言から何を望んでいるのかを察し、ただ呆れた様に溜息を零したウーヴェだったが仕方がないと言い訳し、自らも密かに望んでいる事をする為にリオンの首筋の後ろで軽く手を組んで輪を作る。
「お疲れ様、リーオ」
「うん」
短い言葉に込められた思いを互いに感じ取ると小さな音を立てて互いの唇にキスをした後、ゆっくりと重ねてその感触を確かめ合う。
「・・・・・・ん・・・」
「・・・オーヴェも仕事お疲れ様」
離れることが名残惜しいがそれでも何とか離れた後リオンが笑顔でウーヴェを労い、それに対して腰に腕を回すことで返事としたウーヴェは、今日の晩飯は何かなとこれまたいつもの声で歌うように問われて残り物だと断言すれば、そんな寂しいことを言うなと横目で睨まれる。
「事実だ」
「この野郎」
互いに横目で睨み合いつつ声の中に笑みを混ぜ込んで牽制しあいながら重厚な木の扉から廊下に出ると、さすがにしっかりと施錠したウーヴェをリオンがエレベーターの前で待ち構えるのだった。
ウーヴェが言った通りの残り物で食事をした二人は、その後の時間をリビングのソファでゆったりと過ごしていた。
リオンはいつものようにウーヴェの腿をクッション代わりに寝転がり、テレビをぼんやりと見ていたが、ふと思い出したようにウーヴェを呼んでその顔を見上げる。
「どうした?」
「・・・あのさ、親父の話なんだけど、話しても平気か?」
お前が憎んでいる相手の話だがと控えめに切り出すとウーヴェの身体が条件反射のように揺れるが、何度か深呼吸が繰り返された後、どうしたんだと微かに震える声に促されて安堵の溜息を零す。
「うん・・・この間の仕事のことで警備責任者に抗議をするってさ」
「責任者・・・お前の事か?」
「そうそう。ボスとも言ってたんだけど、まあ誰も怪我をしなかったしその場で犯人を逮捕出来たし前科もないから執行猶予がつくか不起訴になるじゃないかって。それぐらいだったら法的な手段と言ってもたいしたことはないんじゃないかなーって」
ウーヴェの腿の上で寝返りを打ったリオンだが、言葉とは裏腹に不安が見え隠れしていてそれに気付いたウーヴェが雑誌をソファサイドのテーブルに置くと、前髪を掻き上げて額を撫でる。
「そうなのか?」
「うん。・・・・・・んー、いつもなら全く気にしないでいられるんだけどな」
どんな法的手段があるのか不安になったと自嘲され、額を撫でていた手で頬を撫でて顎を撫でると同時に手を掴まれて胸に抱え込まれてしまう。
その様子からも言葉以上に不安を感じていることに気付き、眼鏡を雑誌の上に置いたウーヴェが前屈みになって青い石のピアスに口を寄せる。
「心配するな。お前はお前に出来る事をしたんだろう?」
「うん。それは誰に聞かれても言える」
「ならば胸を張って構えていろ。誰もお前を見捨てない」
「・・・うん」
まだまだ不安を感じている口調に苦笑し、こめかみや頬にキスをすると再度寝返りを打ったリオンがウーヴェを見上げるが、ターコイズにたゆたう色に勇気を分け与えられたのか、下がり気味だった口の端が上方へと修正されていく。
「リーオ。俺の太陽────こんな事で沈まないでくれ」
どうかお前は天空で光り輝く太陽の様に顔を上げていてくれと願い、額に願掛けのキスをするとくすぐったそうに青い目が細められ、首筋から後頭部へと手が回されて引き寄せられる。
「ダン、オーヴェ」
「ああ」
まだ親父からの抗議文や訴えを起こしたという情報が入ってこない不安はあるが、例えどのようなものが来たとしても全てを受け入れると頷き、間近にある唇に小さな音を立ててキスをしたリオンは、同じようにキスが返されて笑みを深め、今度は腹這いになってウーヴェの腿を抱え込む様に腕を回す。
打って変わって明るい気配を漂わせ始めた為、安堵に胸を撫で下ろしたウーヴェだったが、無意識にリオンの髪を手で撫でながらも思案している事を示すように碧の瞳をガラスのテーブルへと固定する。
髪を撫でられる心地よさにリオンがうっとりと目を閉じる上では、ウーヴェが何事かを考え込んでいる顔でテーブルをぼんやりと見つめているのだった。