窓の外から聞こえてくる鳥の鳴き声などから朝が来たことを知るが、灰色の世界の中心にいる彼にとっては朝が来ても夜が来ても世界が色を変えることはなく、時間はのっぺりとした灰色の中で過ぎていくものだった。
そんな中で見上げるのは高い天井の模様で、時々顔を左右に動かす事で開け放たれている窓の外が視界に入ったり、ドアから入って来る人の姿が見えたりもするが、それらも全て灰色で、色のない中での日々はいつまでも彼を少し前に経験した事件の渦中に押し戻そうとしているようだった。
目を閉じれば自然と思い浮かぶ笑顔があり、その笑顔に何かを告げようとする寸前にいつも無残に切り刻まれた姿へと変貌してしまうのだ。
そうして、その変貌した顔で何故助けてくれなかった、どうしてと問われてもただ指先を小さく動かすことしか出来なかった。
そんな彼に苛立つのか、血塗れの顔や手を彼に向けて伸ばし何故と詰め寄られても、喉を塞ぐ見えないものの為に本当に思っていることを伝えられなかった。
その言葉を伝えれば、現実のような過去において血に染まっている顔も、心配して駆け寄ってきてくれた大きな暖かさで包んでくれていた顔や優しい手で抱きしめてくれた顔も苦痛に歪んでしまうのだ。
思った事を口にすれば、彼が愛する人達が苦しむことになるのだ。
好きと言えば殴られ、助けてと言えば蹴られてしまう、黙っていれば食事を出して貰えるが-それも決して人が食べるものではないもの-、日々心を壊していった中では味を感じることもなく、食べなければ殴られるからただ食べていただけだった。
彼自身がどのような目に遭おうとも我慢できたが、愛する人達が苦痛に苛まれることだけは耐えられなかった。
だから己の感情を殺し思いを零さないように封じたそれは、事件が解決し、もう命を脅かされることもない安全な日々に戻って来たのだと教えられても容易く解かれることはなかった。
彼が自らに課した封印は彼の生が終わりを迎え、血にまみれた姿で待っている少年の元に行くまで解くことは出来ないものだった。
あの極限状態を経験し色を喪った今、灰色の世界はきっといつまでも灰色のままで、明るい太陽や月の色、庭の緑と澄み渡る青空など、あって当たり前と思われていた色を感じることなどもう出来ないことだった。
美しさを感じることも出来ないのっぺりとした世界で、今日も彼はベッドの中でただ静かに天井を見上げ、時折思い出した様に涙を流すのだった。
朝が来たことは部屋の空気からも察することが出来たが、その朝が一体いつのものなのかが咄嗟に理解出来なかった。
それをよりはっきりさせるために瞬きをしたウーヴェだったが、己の目が写し出す世界があの日と同じだと気付いた心に絶望が音もなく静かに染み渡ってくる。
指を動かし手を動かしその手から繋がる腕を動かしていくと、あの頃常に傍にあった解離性を感じることが無かった為に思い切り力を込めその後一気に力を抜けば、全身に血が巡っていく感覚が生まれ、指先がじんわりと痺れてくる。
その温かさに力が少し分け与えられた心が絶望感を押し返し、それを反動に寝返りを打つように横臥した時、ウーヴェの中では存在しない温もりに触れたため身体が驚きに竦み上がる。
色のない世界に一人いた時、こうして同じベッドに入るものなどいなかった。
だから不意に感じた温もりに心底驚くが、それと同時に驚く必要はないと何処かで小さな声が囁き、その囁きに従う様に顔を上げた先、穏やかな寝顔を発見して瞬きをする。
文字通り目と鼻の先にいたのは心地よい寝息を立てているリオンだった。
リオンがすぐ傍にいることで脳味噌が今の時間を把握し、あの頃の己ではないことを教えてくれ、微かに震える指先で頬に触れると伝わる温もりから一人ではない事を教えてくれる。
その二つから教わったものと過去に戻そうとするような世界が脳内で手を取った結果、横臥するウーヴェの目から涙が溢れ出し、目尻を伝って枕に染みこんでいく。
流れる涙を止めることができず何度か瞬きをして滲む世界をクリアにしようとするがその涙は止まることはなく、また世界もクリアになる事はなかった。
ワイパーを掛けることなく雨の中を車で走っている時のような感覚におかしさすら感じるが、リオンの意外と長い睫毛が微かに震えたあと、ウーヴェが愛してやまない青い瞳が姿を見せるはずだった。
だが、瞼が眠たげに持ち上がっているのにウーヴェが待ち望む青い瞳は見えず、掠れた寝息混じりの声がどうしたと問いかけてきた為、何でもないと涙声で返して目を閉じる。
「……オーヴェ?」
「……何でも……な、い……」
だから心配せずに寝ていろと告げて目を開けたウーヴェは、涙を拭う手の温もりに瞬きをする。
「そんな顔で何でもないって言われても、はい、そうですかって信じられると思うか?」
本当に本当にお前が言う何でもないは信用できないと溜息混じりに告白されて目を瞠ると、鼻を軽く摘まれて更に目を瞠る。
「オーヴェ」
眠気に掠れる声で名を呼ばれて小さく頷き頬に宛がわれている左手を掴むと、幼い頃にいつも感じていた温もりを与えてくれる大きな手を思い出してしまい、そのまま枕に顔を押しつける。
「……悪い」
「謝るならさ、もう言うなよ」
「……うん」
俯いたウーヴェには見えなかったが、うなじ辺りにキスをされて少しのくすぐったさに自然と肩が上がってしまうものの、そのまま覆い被さられてしまう。
「リオン……?」
「教えてくれ、オーヴェ。……どうして泣いてた?」
涙の理由を教えてくれと囁かれて口を開こうとしたウーヴェだったが、過去と脳裏から響く声に喉を封じられてしまう。
早く言わなければリオンを信じていないと思われかねない思いから口を開くが出てくるものはただの呼気で、それに気付いたリオンが小さく溜息を零したあとウーヴェの肩を掴んで正対させる。
「……っ!」
「……だからさ、そんな顔すんなよ、オーヴェ」
お前が思いを口に出来ないのは分かっている、だから捨てられることを知って全てを諦めた犬みたいな目をするなと悲しげに囁かれて目を限界まで見開いてしまう。
人の心を読むことに掛けてはウーヴェは仕事柄自負するものがあったが、己の恋人のリオンも職業柄人の心の奥を探ることを得意としていることを思い出し、刑事の目を甘く見るなと言われた事も思い出す。
また甘く見ていたのかとの思いから自嘲すると額にそっと口付けられ、どうしても思いを口に出来ない申し訳なさからしがみつくようにリオンの首に腕を回す。
分かっていると言ってくれるがその言葉に甘えるのは嫌だった。だが、その思いよりも過去からの思いが強くて言葉が封じられてしまうのだ。
それが苦しくてただリオンにしがみつくと、小さな子供にするように背中を撫でられ、子ども扱いされようが何だろうが嫌われたくない一心から身を寄せ、息苦しいことと目を覚ました直後に気づいた大きな異変を伝えようとするが、辛うじて伝えられたのは苦しいという言葉だけだった。
身体の異変についてはもしかすると一過性のものかもしれない-というよりはそうであって欲しい思いからまた沈黙することを選んだウーヴェは、もう苦しむ必要はないとささやかれて安堵に胸をなでおろすが、今すぐ助けを望んでいる心が喉の蓋を突き破って短い言葉をリオンに伝えてしまう。
「……お前の蒼い目が……」
「オーヴェ?」
不意に聞こえたその言葉にリオンがウーヴェの顔を覗き込むが吐息交じりの不明瞭な声が聞こえるだけで、しがみついてくるウーヴェの背中を撫でて大丈夫だと何度も言い聞かせるうちに落ち着きを取り戻したらしく、顔を見られないように背けつつリオンの腕をそっと外すとベッドから抜け出して部屋を出て行く。
どうこう言ってもウーヴェも同じ男なのだ、泣き顔や弱っている姿など見られたく無いだろうと苦笑し大きく伸びをしたリオンは、不明瞭な声の前にはっきりと呟かれた言葉を思い出して小首を傾げる。
蒼い目が見えないと言われたがどういう意味なのだろうか。
間近すぎて見えない訳ではないし、ベッドから抜け出した様子からも目が見えなくなっている訳でもなさそうだった。
どういう意味か分からないと首を傾げつつももう一度伸びをしたリオンは、ウーヴェに続いてベッドを抜け出し、大きな窓に掛けられているカーテンを開け放ち秋の空気を感じる為に窓も開け放つ。
寒さはまだ感じなかったが、それでも季節は確実に秋の終わりへと向かっていて、後ひと月もすれば朝陽が顔を出す時間が遅くなるのだと気付くと清々しい秋晴れに毒突きたくなってくる。
緯度の高いドイツでは冬が近づくにつれ太陽が昇る時間が遅くなり、地平に帰る時間が早くなる。
また陰鬱な季節が始まるのだと溜息を吐いた時、静かな足音が聞こえて背中に温もりを感じると同時に腹の前でしっかりと手が重ねられる。
「……起きたのなら朝食を食べないか、リーオ」
「あ、そうだった。それを食いに来たんだっ」
ハンナの朝食を食べたのはいつ以来だったと笑って腹の上の手に手を載せたリオンは、ウーヴェが背中に張り付いたまま動く様子がないことに気付き、肩越しに背後を振り返る。
「オーヴェ、メシ食いに行くんだろ?」
「……ああ」
「じゃあさ、少し力を緩めて欲しいなぁ」
これじゃあ朝飯を食いに行くことが出来ないと嘆くとウーヴェの溜息が背中に弾け、力を抜くだけではなく離れて行こうとしたため、慌てて振り返ってその手を掴む。
「オーヴェ!」
「どうした?」
じっと見つめて来る顔からは隠し事やウソを感じ取ることは無く、さっきの不可解な様子は精神的に少し不安定になっているからだろうと己を納得させたリオンは、何でもないとウーヴェの頬にキスをし、ハンナの朝食を食べに行こうと笑ってウーヴェの腰に手を回すのだった。
リオン待望のハンナの朝食をメインのダイニングではなく家人たちが食事をするキッチンの片隅でヘクターとハンナと一緒に食べたウーヴェは、今朝目を覚ましてからの異変についていつリオンに話すべきかをずっと考え込んでいた。
その為、せっかくの料理を上の空で食べてしまい、ハッと気付いた時にはヘクターとハンナが心配そうにじっと見つめ、隣ではリオンが意味ありげな顔で見つめていて、バツの悪さから肩を竦める。
「ウーヴェ様、調子が悪いんじゃありませんか?」
顔色も良くないようだと頬に手を宛がいながら眉尻を下げるハンナに苦笑を深めたウーヴェだったが、隣から伸ばされた手が何をするのかが気になってしまい、そちらに顔を向けると同時に鼻を摘まれて目を瞬かせる。
「メシ食いながら考え事するなんて作ってくれた人に悪いぜ」
「……」
悪かった、ちゃんとハンナに礼と謝罪をしたいから手を離してくれとくぐもった声で告げてその通りにして貰ったあと、心配だけを顔に浮かべている祖母のような人の手を取り、ちゃんと味わえなくて悪かった、ただいつも通りにしっかりと食べたからそれで許して欲しいと顔を見ると、ウーヴェのその言葉に何度も頷いたハンナが紅茶の用意をすると言って立ち上がる。
「俺が用意する」
朝食の礼とお詫びだと笑って立ち上がったウーヴェは、茶葉が入っていると思われる棚を開けてそのまま動きを止めてしまう。
目の前にあるのはおそらく同じ色だろう二つのキャニスターで、ひとつを手に取って蓋をあけ、その中にティーバッグが収まっていることに内心胸を撫で下ろすが、ミルクたっぷりの紅茶が飲みたいとリオンが注文を付ける。
「ミルクティ用の紅茶は青いキャニスターですよ、ウーヴェ様」
ハンナの言葉に頷くものの何やら思案している様子のウーヴェに気づいたリオンが、ハンナが眉をひそめたくなるような態度で足を組んで躊躇いを感じさせる背中を凝視する。
「ミルクティ早く飲みたい」
「……ああ」
いつもとは違う背中をじっと見つめていたリオンだが一つため息をついて立ち上がると、いつもと変わらない陽気な声でウーヴェを背後から抱きしめる。
「オーヴェ。一つ約束してくれねぇか?」
「突然どうした?」
ミルクティが飲みたいのは分かるがもう少し待ってくれと苦笑するウーヴェの耳に口を寄せたリオンは、背後で何事かと目を見張る老夫婦をそれ以上驚かさないように声を潜める。
「……この間の言葉、忘れてねぇよな?」
リオンが言うこの間がいつのことだか理解できず顔だけではなく身体ごと振り返ろうとしたウーヴェだったが、予想外の強い力で押し留められて眉を寄せる。
「……何も隠すな」
「……っ!」
昨日持ち帰った日記の内容が気になるのも分かるしここが長年距離を置いていた実家だと言うことから緊張して疲れているだろう。背後で心配そうにしているハンナの病気のことも気になるのも分かるが、助けてくれと言ったのなら何も隠さないで欲しいと懇願するには強い口調で囁くとウーヴェの身体から力が抜けてしまい、慌てて支えながら色をなくしつつある頬に労るようにキスをする。
「嫌な夢を見たとかでもいいから教えてくれよ」
いつもいつも言っているが、素直じゃないお前も好きだけど素直なお前はもっと好きと自分たちにとっての定番の告白をすると、ウーヴェの手が眼鏡を少し乱暴に外して床に落とした後、目を覆うように宛われる。
「……目が……」
「見えない訳じゃないよな? どうした?」
今朝一番に見たのがウーヴェの涙でその後ちゃんと話をしたときも己の目を見つめていたことを思い出し、見えていないわけではないことを確かめたリオンだったが、聞かされた言葉にある意味納得してしまう。
「……色が、ない、んだ……」
事件の後、病状の変化が見られないとの理由から自宅で療養するようになったが、その時と同じ世界になってしまったと自嘲され、どういう意味だと問えば躊躇いを振り切るような声が灰色に見えると告げ、さすがにそれには驚いてしまう。
「灰色?」
「ああ……すべてが灰色……なんだ」
色の濃淡はまだ分かるが、このキャニスターが青なのかそれ以外の色なのかも分からないことを小さな震える声で告白されて沈黙したリオンだが、その言葉がもたらした衝撃よりも苦しさを乗り越えて告白してくれたことが心に沁みたため、己が疲労している時にウーヴェが与えてくれるものとは比べられないが、それでもその思いに近づけるようにいつも以上に白い頬に再度口付け、そのまましっかりと抱きしめる。
「……そっか。それはすげー困るよなぁ」
白っぽい髪に口を寄せながら告げた言葉はいつもと何ら変わらない軽く明るささえ感じるもので、リオンをよく知らない人からすれば本気で心配しているのかと目を吊り上げたくなるようなものだったが、背中から抱く腕はウーヴェが誰よりも何よりも安心出来る強さと優しさを持っていて、それといつも通りの声にウーヴェの心が僅かに軽くなる。
少し浮上した心で過去の己の言葉をもう一度口にすると、あの時傍にいてくれた誰もが絶対に口にしなかった言葉が耳に流れ込み、過去へと繋がる心に共鳴しながら広がっていく。
「んー、確かに灰色だとすげー困るし何よりも気持ち悪ぃだろうけどさ、でも別にそれで死ぬ訳じゃねぇよな?」
「……っ!」
「色が分からないだけならどうにかなる」
だから世界が終わりを迎えたかのような顔をするな、そんな顔はお前に相応しくないと器用に肩を竦めたリオンは、抱きしめた身体が小刻みに震えだしたことに気付いて腕に力を込める。
「オーヴェ。俺のオーヴェ。俺を太陽だーって言ってくれる時みたいに笑ってくれよ」
「――!」
「気付いてないかも知れないけど、そんな笑顔を見せてくれるお前が――」
お前こそが、本当の太陽なんだ。
その囁きにウーヴェの膝が崩れてその場に座り込んでしまい、慌ててリオンも床に膝をつくと、今までことの成り行きを見守っていたヘクターとハンナも慌てながら席を立ちウーヴェとリオンの傍に駆け寄ってくる。
「ウーヴェ様……!」
「全てが灰色かぁ。何だっけ、時間泥棒だっけ? あいつらの世界に紛れ込んだみたいなのかな?」
リオンの軽口にすら思える言葉にヘクターとハンナが目を剥くが床に座り込んだウーヴェが身体を捻ってリオンの胸に顔を押しつけたため、丸められる背中を何度も撫で、幼い子供をあやすように叩いて安心させる。
「前に灰色の世界にいたけど、ちゃんと色のある世界に戻って来て暮らしてた。だから今回も大丈夫だ。絶対に元に戻る。いつまでも灰色の世界じゃない」
だからもう終わりなどと思わずにいつか通り抜けた先で振り返り、あんなこともあったと笑えるようになろうと囁くと、ウーヴェが限界以上に身を寄せてくる。
その姿が本当に幼い子供のようで、いつものウーヴェの顔を思い浮かべながらしっかりと抱きしめたリオンは、全身で驚きを表している老夫婦に片目を閉じて静かな声でお馴染みの飲み物を作るための材料があるかどうかを確かめ、必要なものが揃っている事を確認するとウーヴェの耳に何事かを囁きかけて了承を貰って片手に抱きながら立ち上がる。
「無理かも知れねぇけど、今お前がいるのは過去じゃない。俺と一緒に生きてる今だってことを身体に思い出させようぜ」
今ハンナが用意してくれているものでいつものあれを作ろうと笑いかけると、リオンの肩に顔を押しつけたウーヴェが掠れた声で命の水と呟く。
「そうそう。マザーから俺が受け継いだもののひとつだなー」
お前はお前の親や兄弟から受け継いだものがあるだろうが俺にもちゃんとあると笑うリオンは、片手が使えないことを思い出して一瞬だけ情けない顔になるが、ハンナに手伝って欲しいことを伝えると彼女が一も二もなく頷いてくれる。
「ダンケ、ハンナ」
ハンナに手短に指示をし自分が作るよりも段違いの手際の良さで作り出された命の水をカップに入れてもらうと、肩に顔を押しつけているウーヴェに用意が出来たからこれを飲めと笑いかける。
「これを飲んで思い出させよう」
お前がいるのは過去を通り過ぎた今なのだと、過去からの声や影に怯えなくても良い今を生きているのだと笑ったリオンは、ウーヴェがカップを受け取ってくれたことに無意識に安堵し、たった一杯のそれを飲み干すのにどれぐらい時間をかけるつもりなのかと焦れてしまうほどゆっくりと飲んだウーヴェの髪を撫でてキスをする。
「ハンナが作ってくれた命の水はどうだった?」
「……うん」
「そっか。それは良かった。ハンナ、まだ材料があるようだったらちょっと作り置きしてくれねぇかな」
ここにいる間はウーヴェにはこれを飲ませてやりたいと告げると、今までのやり取りを呆然と見ていたヘクターが作り置きなど必要ない、飲みたいと言ってもらえたらすぐに作ると妻の言葉を代弁し、ハンナもエプロンで目尻の涙を拭きながら何度も頷く。
「そっか。ダンケ、ハンナ、ヘクター」
それを飲んだ後も己の肩に顔を押しつけるウーヴェをしっかりと支え、己のことのように喜び安堵するリオンを見る老夫婦の目に今までとは違う信頼の色が浮かび頼もしそうに何度も頷き合うが、リオンの肩に一瞬強く額を押しつけたあと、ウーヴェが手をついて距離を取ったため二人が驚きと心配の顔でウーヴェを見つめる。
「……顔を洗ってくる」
「ん、行って来い」
今の顔を誰にも見られたく無い思いを酌み取って苦笑しつつウーヴェの髪にキスをし、ここではなく洗面所に早く行って来いと背中を優しく押すと、俯き加減のウーヴェがキッチンを出て行く。
「リオン」
「ん? どうした?」
ハンナの呼びかけに振り返り、いつか何処かで見た様な表情を浮かべる老夫婦に目を丸くしたリオンは、どうかウーヴェ様を頼むと手を握られて瞬きを繰り返すものの、二人の思いが真摯なものだと気付くと唇に太い笑みを浮かべて逆に二人の目を見開かせる。
「安心しろよ。オーヴェと一緒に幸せになるから」
今少し苦しいだろうが必ずそこを通り抜けて二人で笑うからと遠くない未来に浮かべているだろうそれを先取りしたような笑顔を見せたリオンに、ハンナが涙を浮かべて何度も何度も頷くと誰かが入って来たことに気付いて慌てて涙をエプロンで拭うが、入って来たのが何とも言い表せない表情をしたイングリッドだったため、別の意味で慌てて彼女に笑いかける。
「ハンナを泣かせたのですか?」
「へ!? あ、や、そうじゃなくて……」
「リオンが泣かせたのは私じゃなくてウーヴェ様ですよ、イングリッド様」
「まあ……」
間違ってはいないが己にとって頗る状況が不利になりそうな嫌な予感を抱いたリオンは、オーヴェ早く戻ってこいと思わず叫んでしまい、ヘクターとハンナにくすくすと笑われてしまう。
これがもしもレオポルドであったりギュンター・ノルベルトであればいつもの口調で何食わぬ顔をして言い返せるのだが、さすがに相手がイングリッドとなれば話は別で、マザー・カタリーナに悲しそうな顔で己の悪事を窘められそうな時と共通のものを感じ取り、もう一度ウーヴェを呼んだ時、救世主とさらなる居心地の悪さを与えてくれる二人が姿を見せる。
「何を騒いでいるんだ?」
「そうよ、朝からうるさいわよ、リオンちゃん」
まだ少し顔色が悪いものの先程までとは比べられないほど明るい表情のウーヴェが眉を顰め、その横ではアリーセ・エリザベスがイングリッドと良く似た顔立ちを悪戯っ気たっぷりに歪めていた。
「オーヴェ! 俺が泣かせた訳じゃねぇよな!」
お前が勝手に泣いたんだと捲し立てられても意味が分からないウーヴェが一体何の話だと更に眉を顰めるが、母の言葉に今度は目を瞠り、次いで小さく吹き出してしまう。
「何がおかしいんだよ、オーヴェ!」
「……確かにお前が泣かせたと思ったんだ」
ハンナと俺も危うく泣かされるところだったと笑ったウーヴェだったが言葉とは裏腹にその顔はすっきりとしていて、訝る母と姉に正対するようにリオンの横に立つと衒うこともなくその頬にキスをし、その左手を胸の前で両手で包んで口の中で何事かを呟く。
「オーヴェ?」
「……母さん、エリー、後でみんなにもちゃんと話をするつもりだったけど、起きて気付いた……色が分からない」
「え……?」
「まさか……!」
ウーヴェの告白に母と姉は咄嗟に理解出来なかったが、意味を察した瞬間どちらも蒼白になってしまう。
色が分からないという言葉から連想するのは事件直後のただ毎日寝ているだけのウーヴェの姿で、出来る事ならばあの姿は二度と見たくないと願っていた二人にはその告白は衝撃だった。
「……、まさか……」
「ああ……色が分からない。ここにあるキャニスターが何色なのかも分からない」
色が無くなった世界に逆戻りしてしまったことを淡々と告げるウーヴェに蒼白な顔でアリーセ・エリザベスが近づくが、弟の顔に浮かぶのが己と同じ不安や絶望でないことを察して恐る恐るウーヴェの頬に手を宛がう。
「どうしてそう落ち着いていられるの……?」
色が分からなくなったのは事件から解放された直後の世界と同じだろうとただ心配する一心でアリーセ・エリザベスが声を震わせるが、そんな姉の手に手を重ねて目を閉じたウーヴェは、暫く優しい温もりを感じていたが、あの時も今も色を無くした世界でもいつも己を案じてくれる姉をリオンが密かに憧れる穏やかな強さを秘めた目で見つめる。
「俺もさっきまではまたあの頃に戻ってしまうと思ってた」
だから朝目が覚めた時に灰色の世界に舞い戻ったと知った瞬間、隣で寝ていたリオンのあの蒼い目がもう見られないと一気に絶望してしまったと穏やかに告げるウーヴェだったが、黙ったまま不安そうに見つめて来る母と姉を交互に見つめるとリオンの言葉に救われたんだと告白する。
「え?」
「色を無くしたからと言って今すぐ死ぬ訳じゃない、過去に戻る訳じゃない。そう、教えてくれた」
「それは……そうかも知れないけど……」
ウーヴェの言葉-実際はリオンのそれ-を理解しつつも納得出来ないアリーセ・エリザベスにウーヴェが穏やかな顔で頷き、確かに色が分からないと日常生活に支障を来すが、だからといってあの頃のようにベッドの中でただ天井を見上げるだけの暮らしに戻る訳じゃないとも告げると、イングリッドが胸の前で手を組み合わせる。
「本当にそう思っているのですね?」
「無理はしてない。だからエリーも母さんもあまり心配しないで欲しい」
この色のない世界にどれだけいなければならないかは分からないがきっとあの頃とは違うことを確信しつつ頷き、愛する家族に心配しないで欲しいともう一度告げたウーヴェは、振り返った先で同じく心配そうに見つめている夫婦と一見するだけでは心の内が読みとれない顔で腕を組んでいるリオンにも頷くと、ヘクターとハンナの行きたいところに連れて行く約束が果たせないことだけが悔やまれると唇を軽くかむ。
「そんなこと……それこそ心配しなくても構いませんよ、ウーヴェ様」
「本当です」
長らくこの街を離れていたが年寄りは人が多いところが苦手なのでお屋敷でゆっくりさせてもらうだけで十分だと頷く二人に感謝の思いから礼を言い、もしもどこかに行くのならばエーリヒか誰かに言って車を出してもらってくれと告げ、もう一度リオンの手を取って軽く握りしめたウーヴェは、驚くように目を見張る恋人にも頷き一度だけ深呼吸をする。
今朝目を覚ました時に感じたのは絶望と過去の扉を開いたかのような視界の異変だったが、強く優しい声に促されてそれらを告げると、己が囚われた絶望がまるで取るに足らない些細な問題であるかのような声で一笑に付され、脳裏を占めていた暗く重いもやのようなものが一気に晴れたのだ。
あの当時、家族や医者や最も長いつきあいであるベルトランでさえも出来なかったことをこの恋人は何気ない一言でやってのけた事実を胸に秘めて頷くと、小首を傾げるリオンが目を見張るようなことを穏やかに伝える。
「あの日記……持って帰ってきてもらったけど……預かっておいてくれないか、リーオ」
「へ? 読まないのか?」
「……うん。事件はもう終わってる。関係者とも連絡が取れないとも聞いている」
だから、あの事件に関係した人たちがあの日記から新しい事実を見いだすことはないのではないかと告げると、イングリッドが安堵したように胸に手を宛い、アリーセ・エリザベスも小さな溜息をこぼす。
「そーだな。お前がそう思うのならそれで良いと思う」
ウーヴェの判断を尊重するように頷くリオンだったが一度言葉を句切った後、顎に手を宛いながら逡巡するような素振りを見せると、ウーヴェが何を言わんとするのかを察してそっと頷く。
「彼には……必ず会う。直接会って話を聞きたい」
「彼? 誰のこと?」
ウーヴェの言葉にアリーセ・エリザベスが真っ先に反応するが、その声にも穏やかにウーヴェが頷く。
「……ハシムの弟が今ドイツに来ているそうだ」
「!」
その名前はウーヴェを始めとする家族にとって誰一人忘れることの出来ないもので、事件のすべてをある意味象徴していると言っても過言ではないものだった。
だから聞かされたそれに衝撃を受けた母と姉を労るように見つめたウーヴェは、少し前にハシムの写真と一緒に手紙が送られてきたこと、その送り主が彼であり一度会いたがっていることを伝えると、イングリッドが我慢できないのか、背後のシンクに手をついて身体を支えるように寄りかかる。
「だめ……だめですよ、ウーヴェ。絶対に会ってはいけませんよ」
「俺に会いたいと言ってる。だから俺が会う」
トルコからわざわざやって来たとかそんなことは関係がない、彼が会いたいと言っているのならば会わなければならないと数日前もリオンに同じことを言ったが、その時とは比べられないほど穏やかで強い顔で返したウーヴェは、母と同じ表情で口を閉ざす姉にも頷きリオンの腕に手をそっと乗せる。
「ただ、俺も一人で会うのは不安だからリオンにも一緒に来てもらう」
「何かあってもオーヴェの側にいるから」
だからアリーセもお母さんも安心してくれと笑うリオンに母と娘は顔を見合わせて頭を振ったり頷いたりと揺れ動く感情を頭の動きで表してしまうが、イングリッドがきゅっと唇をかんだ後、ウーヴェの意思を尊重する思いを口にし、アリーセ・エリザベスも渋々ながらも頷いてくれる。
「ただし、いつどこで彼に会うのか、必ずわたくしとレオにだけは教えること。……リオンと必ず一緒に会うこと。この二つを守れるのであればあなたの思うようにしなさい、ウーヴェ」
その言葉に秘められた思いにアリーセ・エリザベスとウーヴェがそれぞれ違う思いを感じ取りながらも同時に頷き、ウーヴェがリオンの横顔を見れば誇らしそうな色が浮かんでいることにも気付くと、母の言葉がリオンに誇りを与えたのだと知る。
誇りを秘めた横顔がウーヴェの自信に繋がり、その自信が過去へと繋がる扉を閉ざさせたのだとも気付くと、不意にリオンが自分と同じ時を生きていることが奇跡のように思えてきてしまう。
「……リオン、一緒にいてくれ」
彼と会うときだけではない、その先もこれからもずっと一緒にいて欲しい、そんな思いを秘めた言葉を告げるとウーヴェのことに関しては信じられないほど察しの良いリオンが軽く目を見張った後、誰からも信頼される男の顔で頷いたため、ウーヴェも自然と頷き返す。
「ああ」
短すぎる一言だがそれで十分で、後日彼に会うがその時は必ず連絡することを母に約束したウーヴェは、今日の予定をリオンに尋ねられて部屋で本を読んでいると返し、ヘクターとハンナには外出できないことを詫びるのだった。
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