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ウーヴェの世界が灰色になったと教えられ、ウーヴェの心が絶望の淵から落ちてしまわないように思いを伝えて引き留められたリオンは、本を読んでいることを伝えて部屋に戻っていったウーヴェの背中を皆と一緒に見送るが、完全に見えなくなった瞬間に盛大な溜息を吐いてくすんだ金髪を掻きむしる。
「リオン?」
その行為に驚いたアリーセ・エリザベスが恐る恐る呼びかけると、もう一度溜息を吐いたリオンが腕を組んでシンクにもたれ掛かる。
「……あれで良かったのかなぁ」
「え……?」
リオンの呟きにアリーセ・エリザベスが眉を顰めながら自信があったんじゃないのかと非難混じりに問いかけると、もう一度頭を掻きむしったリオンが天井を見上げて自嘲する。
「自信なんてある訳ねぇよ」
「…………」
「俺はオーヴェみてぇに人の気持ちが分かる訳じゃねぇし、相手が望んでいることも理解出来てるとは思わねぇ」
ただ自分に出来る事は、今も苦しんでいる過去に戻って欲しくないだけで、その思いだけでさっきのような言葉を伝えたが、己にあるものはここにいる人達と何ら代わらないウーヴェに対する愛情のみだと肩を竦め、早く世界が元に戻ればいいと零すと、意外そうに口を閉ざしたままリオンを見守っていたイングリッドが目を閉じて何事かを決意したような顔で頷き、リオンが掻き乱した髪をそっと撫で付ける。
歳を取ってもたおやかな白く美しい手が己の髪を撫でている事実を咄嗟に受け入れられなかったリオンだが、撫で付けられて誉めるように頭を撫でられたため、思わず首を竦めてしまう。
「……リオン、わたくしの大切な子どもをお願いいたしますね」
「へ……!?」
「あなたはあなたが思うようにすれば良いのですよ」
誰かからのアドバイスを受けて行動を起こしたとしてもそれがあなたの行動に相応しくないのであれば、きっとウーヴェは受け入れることが出来ないはずだし、あなただからこそウーヴェは頼ることが出来るのだと穏やかに頷くとリオンの蒼い目が最大限に見開かれる。
「ハンナ、今日は皆家にいるようなのでケーキでも焼きましょうか」
「奥様……!」
久しぶりに一緒にケーキを焼き午後のお茶の時に食べましょうと笑うイングリッドにハンナも笑顔で頷き、アリーセ・エリザベスも嬉しそうに目元を弛める。
「あなたがいるからケーキは二つ焼きましょうね、リオン」
一つはリンゴのタルトで、もう一つは何が良いかしらと笑うイングリッドの顔には翳りはなく、リオンの言葉を信じていること、その言葉を信じて行動する息子も信じていることを教えると、女性陣が作りたいケーキのことで盛り上がる。
その様子を呆然と見ていたリオンだが、不意にいつもの笑みを口元に浮かべるとチーズケーキが食べたいと大声で宣う。
「チーズケーキ?」
「そう! クリームでも焼いててもどっちでも良いけど、チーズケーキが食いてぇ!」
一つはウーヴェの好物ならばもう一つは自分の好物にしてくれと宣言するリオンにアリーセ・エリザベスが腰に手を宛がうと、ミカが好きなのはベリーのタルトだからそちらにすると告げ、リオンとの間に見えない火花を飛び散らせ始める。
「ミカにはいつでもケーキを作ってやれるからいいじゃん。オーヴェのお母さんのケーキなんて次いつ食えるか分からねぇから絶対チーズケーキが良い!」
その言葉は誰がどう聞いても駄々を捏ねる子どもと大差ないもので、アリーセ・エリザベスが呆れた声を発するために口を開けるが、それよりも先に鈴を転がしたような楽しそうな笑い声がイングリッドの口元から流れ出す。
「もうここに来るつもりはないのですか、リオン?」
「へ!?」
「あなたが食べたいのならいつでも作ってあげますよ」
だからこれが最初で最後のケーキではないからそんな情けない顔をするなと笑われて思わず赤面したリオンは、上目遣いになりながらやっぱりチーズケーキが食べたいと小さく宣う。
「ええ。アリーセ、ミカのタルトは明日にしましょう」
「……仕方ないわね。良かったわねぇ、リオンちゃん」
恋人の姉のからかいを満面の笑みで交わし、その母には己が知る限りの感謝の言葉を並べ立てるが、賑やかな声につられたようにやってきたレオポルドが何の騒ぎだと問えば勝ち誇ったように胸を張る。
「おやつに食うケーキの話! オーヴェのお母さんのケーキが食える!」
「リッド?」
リオンの言葉にレオポルドが小首を傾げるが、夫に見つめられた妻は些か不満そうに整えられている眉を寄せる。
「わたくしはあなたをリオンと呼んでいるわ。あなたはイングリッドと呼んで下さらないの?」
「へ!?」
自分は親愛の思いを込めて名を呼んでいるが同じように呼んでくれないのかと悲しそうに糾弾されてしまい、目を瞠ったままレオポルドの顔を救いを求めるように見つめるが、アリーセ・エリザベスの心底楽しそうな笑い声が聞こえてきて三人が彼女を見つめて瞬きをする。
「私の時と同じことを言われてるわね」
「あ……」
初めてアリーセ・エリザベスがウーヴェの家を唐突に訪れた時の騒動を思い出せと笑われ、確かに今のような言葉を交わしたことを思い出すが、それにつられて別の言葉も思い出す。
それはいつだったかリオンが仕事でレオポルドの護衛をしたのだが、その際、レオポルドを何と呼ぶのか決めておけと命じられリオンなりに悩んだ結果、今悲しそうな顔で見つめてくるイングリッドにレオポルドを親父と呼ぶと伝えた時、わたくしのことは何と呼ぶのとも問われた事を思い出す。
「あ……」
「リオン?」
レオポルドの妻でありウーヴェの母である彼女だったが、普段ならばイングリッドと呼べるはずなのに、何故か呼ぶ事が出来なかったことも思い出すと、くすんだ金髪に手を宛がってガリガリと掻きむしる。
「あー、うん……その宿題、もうちょっと時間欲しい!」
「……構いませんわ」
ただし、せめてあの子がこの家にいる間にその宿題を提出しなさいと笑われて照れたように頷いたリオンは、レオポルドが己にだけ分かるように頷いたことに気付き、同じように微かに目を細めることで返事とする。
「レオ、そういう訳で今日のおやつはチーズケーキよ」
「……こいつの好物だというのは良く分かった」
妻の言葉に苦笑した夫だったが、書斎にいると告げられて頷き夫の頬にキスをすると、ハンナとアリーセ・エリザベスらとケーキの材料について料理長と相談しようと鈴を転がしたような軽やかな笑い声を零す。
「チーズケーキが食える」
鼻歌どころか自作のチーズケーキ大好きソングを歌い出したリオンにその場にいた皆がただ呆気にとられるが、先ほどのようにウーヴェを思う横顔とは到底同一人物とは思えない子どもじみた顔をこそウーヴェは愛しているのだろうと気づき、自然と笑顔になるのだった。
午後のお茶の時に食べるケーキが無事にチーズケーキに決まったことで安堵したリオンだったが、おやつの前のランチは何だろうなと呟きつつウーヴェと二人で暮らす家に匹敵する長い廊下の先を歩く大きくて広い背中をぼんやりと見つめる。
この背中に乗っているのは彼の家族だけではなく従業員とその家族なのだと思い至ると、己には決して乗り越えることの出来ない巨大な壁のように見えてくる。
この巨大な壁の中で幼い頃の恋人は何の心配をすることもなくすくすくと育ち、父や兄が敷いた盤石な道を一歩ずつ歩んでいくはずだったが、事件の結果その道を歩むことを止め、ただ一人でそれまでの暮らしと比べれば荒野とでも呼べる道へと進んだのだ。
末息子-実際は孫-を溺愛していたことは今までの言動からもしっかりと読みとれていたが、その愛する息子がただ一人で荒野を進む背中を遠くから見守ることしか出来なかった日々、親としてどんな思いを抱いていたのだろうか。
己の学生時代を振り返ったリオンは、毎日毎日喧嘩に明け暮れ警察の世話になるたびにマザー・カタリーナが迎えに来てくれ、関係各所に頭を下げていたことを後に教えられたが、あの頃は己の言動がどれだけの人に影響を与えていたのかすらも理解できないガキで、ただ己の不満や鬱憤を暴力という形で発散していた。
己の周りには抱え込んだ思いを表現する術を暴力という形でしか持てなかった人が多数いたが、前を行く背中の持ち主は一体どんな形でそれを発散したのだろうか。
それとも、発散することなく腹の中に澱のように沈殿させていったのだろうか。
己の腕一本で家業をグローバル企業へと発展させた稀代の実業家でもあるため、家から一歩外に出れば家族のことだけにかかずらっている暇はなくなるだろうし、見渡す限り敵という状況下、神経を磨り減らすような日々があったはずだった。
それらの日々をどうやって乗り越えてきたのだろうか。
幼い己が渇望しようやく手に入れたように、傷ついた心を癒してくれる存在がいたのだろうか。
そのあたりの疑問にも答えを得られるかも知れないと気づき、背中が動きを止めたことにも気付いて顔を上げたリオンは、昨夜も通された書斎のドアを開けて待ってくれているレオポルドに促されて中に入り、昨日と同じ椅子に腰を下ろして足を組む。
「ウーヴェは部屋に戻ったのか?」
「なんか本を読むとか言ってたっけ。どーしてオーヴェはあんなに本が好きなんだ?」
俺なんて小難しい本を開けば5分で眠れるのにと肩を竦めるリオンに苦笑したレオポルドは、ウーヴェの本好きはギュンターの影響だと答えるが、それが意外だったのかリオンの目が大きく見開かれる。
「へー、兄貴が好きだったのか?」
「ああ。……お前ももう知っているだろうが、ギュンターは進路を決める大切なときに家を出て学校に行っていなかった」
基礎学校の頃の成績は決して悪いものではなかったから勉強が嫌いではないのだろうが、何しろ十三歳になるかならないかの頃に学校で知り合ったウーヴェの生みの親である女性と一緒になって家出をしてしまい、ようやく見つけた時にはすでにウーヴェが産まれていたため学校に通っていないことを若干の苦みとともに教えられ、昨日見た、どこからどう見てもエリートコースを驀進してきたような男にそんな過去があったことにただ純粋に驚いてしまう。
「ウーヴェと一緒に帰ってきてしばらくしてから家庭教師をつけて勉強していたな」
「家でずっと勉強してたのか?」
「関連会社で下働きをして夜は家に教師を呼んで勉強をしていたな」
親を認められずに家を飛び出したはずの息子は、生後間もない息子を連れて戻ってきたが、さすがに己の状況を認識したのか、幼いウーヴェの面倒を両親に頼み、己は出来る範囲で金を稼ごうと下働きをし、どのような職種に就いても良いようにと勉強にも励んだ結果、アビトゥーアを受験しても上位で合格できるほどの学力を身につけたのだ。
勉強嫌いのリオンからしてみればただひたすら驚愕することだったが、彼をそこまでさせるものがあることに思い至り、オーヴェと呟けばレオポルドも無言で小さく頷く。
「子どもを育てるには金も時間も必要だが、それ以上に必要な親の愛情はギュンターだけが与えられるものだった。だからあいつは家にいる時間を可能な限り作るようにしていたな」
「……」
頼まれてウーヴェを育てることになったが、自分たち夫婦は若い頃は仕事だ遊びだといって家を空けることが多かったからロクに子育てをしたことがない、だからウーヴェに対してはつい甘くなると苦笑するレオポルドに口を閉ざしたままのリオンだったが、己の中で常に抜けない棘のように刺さっていた言葉がぽろりと口からこぼれる。
「……特別な子ども」
「俺たちは自分の子どもの世話をハンナやヘクターらに任せっきりだった。その結果がギュンターの家出だったりアリーセの反抗だったりしたからな。だからウーヴェを育てることになったとき、同じ轍は踏まないようにしようと決めた」
同じ轍、つまりは仕事や遊びにかまけて家族を顧みない暮らしをこれから育てるウーヴェには絶対にしないことを夫婦で誓った結果、レオポルドは周囲が驚愕の声を上げるほどの家庭人になり、イングリッドもそれまで通い詰めていたオペラやコンサートなどには出かけることを止め、出かけるとすればギュンターやアリーセが自宅にいる時にレオポルドと二人で出かけるようになったのだ。
二人の変貌ぶりについては当時の世間を賑やかすものだったが、当の本人たちは十年ぶりの乳児の子育てにてんやわんやになり、ヘクターやハンナをハラハラさせていた。
そんな人々に囲まれて日々大きくなったウーヴェだったが、決して避けて通ることの出来ない問題がいくつかあり、それを解決するために毎夜のようにレオポルドとギュンター・ノルベルトが話し合いを重ね、出された結論がウーヴェをレオポルドとイングリッドの三番目の子どもとして育てるということだった。
その決定はウーヴェの幸せを親と祖父という立場から考えた場合の最高のものではあったが、これから成長に伴いいつか必ず己の出生について耳に入ることを思えば、ウーヴェが物事を理解できる頃に話すべきだとの思いと、せめて基礎学校を卒業するまでは黙っているべきだとの思いも幾度となく話し合われた。
「……他人に知らされるより親から教えられた方が良いだろうとなった」
「まあ、それはそうかも」
リオン自身物心つく以前からリオンがこの教会に捨てられていたという残酷な事実を周囲が良くも悪くも伝えていたため、またそれを伝えられる実の親は存在しなかったから誰に教えてもらっていても同じだという思いはあったが、実際ウーヴェにとってはどうだったのだろうと思うと自然と手を組んで親指をくるくると回し始める。
「リオン、お前が知りたいことにはすべて答えてやる」
聞きたいことは山ほどあるだろうがすべて話してしまえと促され、天井や床や壁の本棚を無意味に見回したリオンは、溜息一つで腹を括ると考える時の癖を止めて真っ直ぐに恋人の父を見つめる。
「……親父、オーヴェにずっと憎まれてるけどさ、辛くねぇのか?」
問うた方も問われた方もまさかその疑問が出てくるとは思わなかったのかどちらも同じような表情で互いの顔を見つめるが、一つ咳払いをしたリオンが足を組み替えるついでに気分も切り替えたようで、肩を竦めつつ先程よりは幾分か軽い口調で問いかける。
「オーヴェを誰よりも可愛がっていたのにさ、ずっと憎まれるのをどうして我慢できるんだ?」
軽い口調であっても内容に変わりはなく、微苦笑を浮かべたレオポルドがリオンの肩の向こうを見つめながら口を開く。
「どうしてと言われてもな」
「20年以上だぜ? オーヴェも確かに辛いけど、親父や兄貴の方がもっと辛いだろ?」
どうして我慢できるのか、そもそもこんなにも辛い思いをするのにどうしてそこまでするんだとレオポルドが考える以上の真剣さで問いかけるリオンだったが、親というのは腹を痛めて生んだ筈の子どもを自分の都合で捨てることが出来るのに何故それをしないんだと零してしまい、己の言葉を悔やむように顔を顰める。
「……あー、今の言葉は……」
「取り消す必要もないし謝る必要も無い」
その思いに嘘偽りは無いのだろうが、ただもう少し言葉を選べと苦笑したレオポルドにリオンの蒼い目が見開かれる。
「お前が思っている以上に真剣に言葉を捉える人達にそれを言う時は気をつけろ」
そうすることでお前という人が誤解される可能性も低くなるだろうとリオンを思っての言葉を伝えたレオポルドは、リオンの頭が小さく上下した素直さに目を細め、デスクの写真の中でも最も気に入っている一つを手に取る。
それはある夏の日に休みを取って出向いた旅先での一枚だったが、写真の中央ではウーヴェが空で輝く太陽よりも眩しい笑顔でカメラを構えているギュンター・ノルベルトに笑いかけているものだった。
この笑顔が喪われてから20数年が経過するが、辛くないのかと言われれば辛いに決まっていた。
だが、笑顔を喪う原因が己にあると分かった以上、どれ程辛かろうが耐えるしかなく、またその辛さを一人ではなく家族皆が分かち合ってくれたからこそ耐えられていることを伝えるとリオンの目が細められて家族という言葉が呟かれる。
「ああ。リッドやギュンター、アリーセらがいたからな」
だから何とか耐えてこられたことも伝えると写真をデスクに置いて顎の下で手を組んで溜息を吐く。
「辛い時に支えてくれる人がいれば、人というのは思いの外強くなれるものだ」
「それはそうだけど、な……」
でもそれにしても20年以上は長いと、誰を一番思っての言葉なのかは分からないが長い年月への思いを零すリオンを真正面から見つめたレオポルドは、今のお前ならば俺の気持ちが分かるはずだと告げて目を見開かせる。
「姉を喪ったお前なら分かるだろう?」
「…………」
レオポルドの言葉にリオンが軽く目を伏せ組んでいた足の上で手を組み直して親指を回し始めるが、確かにそうだけど、でも、どうしてそこまで出来るんだと何かが納得出来ない声で問いかけると、レオポルドが意外そうな苦笑を浮かべる。
「家族だからな」
「…………」
「家族と言われてもお前は納得出来ないかも知れないがな」
リオンが納得出来ない理由を読み取って肩を竦めるレオポルドだが、お前にもそんな家族がいるだろうと問いかけるとリオンの蒼い目が答えを躊躇するように左右に泳ぐが、無意識に動かしている親指へと向けられる。
「……そう、なりたいと思う人はいるけど」
でもその人を家族と言って良いのか、そもそも俺が家族を持って良いのかとリオン自身思いも寄らなかった疑問を口にしてしまい、先程とは比べられない程の驚愕を己の言葉から浮かべてしまう。
「お前と俺が思い浮かべているその人が同じなら今の言葉は絶対に言うな。その人が許したとしても俺が許さん」
そんな後ろ向きなつもりでお前は俺の大切な子どもと付き合っているのかと、レオポルドが見たもの総てを威圧する目でリオンを睨むと、その眼光の強さにさすがにリオンが肩を揺らしてしまうが、生来の負けん気の強さで顔を上げ、今の言葉は撤回する、その人には口が裂けても伝えることはないと断言し眼光を和らげて貰う。
「今の言葉は聞かなかったことにする」
「ダンケ、親父」
「ああ。……お前がそう思いたいように、きっとあの子もそう思っている筈だ」
言葉にしてまだ伝えていないのかどうかは分からないし婚姻関係という公的に認められたものがある訳ではないが、そんなものの有無に関わらずとも一緒にいられる関係だろうと笑われて頷いたリオンは、確かにその通りだとも頷く。
「何を悩んだんだろうな、俺」
「珍しく考え込んだから訳のわからないことを口走ったんだろう」
「ひでぇな、親父」
恋人の父との会話が実の親子のようだとこの時どちらも実感したが口にはせず、聞きたいことはそれなのかと問われて頷いたリオンだったが、事件について聞きたくはないのかとも問われて今度は首を横に振る。
「事件のことはオーヴェに教えてもらうって約束したし署に事件の調書が残ってるからいくらでも調べられる」
「お前、職権乱用で警部に訴えるぞ」
「へへ。まあそれは冗談だけど、事件はもう終わったことだし関係者で生きているのはオーヴェと……あ、ハシムの弟」
事件の生き残りを思い浮かべたとき、重要な少年の弟がコンタクトを取りたがっていることも思いだし、三度親指をくるくる回しながらレオポルドの反応を伺うように顔を見る。
「さっき……ム……ッティにも言ったけど……」
彼女のことをそう呼んで良いのか判断が付かなかったが、今の己がそう呼びたがっているのだと口早に言い訳をした後、ムッティにも言ったがハシムの弟が今ドイツに来ていてウーヴェに会いたがっていること、それをウーヴェにも伝えたが、俺と一緒ならばムッティが会いに行っても良いと言っていたことを伝えると、聞かされた瞬間はレオポルドの顔が強張ったものの妻が許可を与えたのならばそれで良いと頷く。
「まだ決まってないけど、なるべく早く会いに行こうと思う」
「そうだな。……お前のことだ、大丈夫だとは思うが……」
リオンの顔を見つめつつ頷いたレオポルドが一度口を閉ざしそれに小首を傾げたリオンだったが、経年による変化がある綺麗なブロンドの頭が軽く下がったのを目にし、本日最大の驚きを覚えて思わず飛び上がりそうになる。
「……あの子を、ウーヴェを頼む」
「……っ……!」
己が密かに尊敬し、可能ならばそんな男になりたいとウーヴェに伝えたことがあるレオポルドが己に向けて頭を下げたことにリオンが一瞬にしてパニックに陥ってしまう。
「いや、あの……ちょ、っと……親父……!」
何を言っているのか分からないと口走り己を罵り倒したリオンは、レオポルドが微苦笑を浮かべつつ優しい目で見守っていることに気付くと胸に手を当てて深呼吸を繰り返し、うっすらと頬を赤らめつつも決心したように頷くとたった今見せた挙動不審な様子を静かに詫びて恋人の父を正面から見つめる。
「俺に出来ることは何でもする。……ウーヴェと一緒に幸せになるから見守っていてくれないか、親父」
「……ああ、そうしよう」
お前とウーヴェがこの先何があっても手を離すことなく同じ方向を見つめて歩けることを信じて見守っていると頷かれ、腹の奥底が熱を帯びてくるが、不思議とそれは静かな熱となって体中を駆けめぐっていく。
「ハシムの弟と会って相手の思いを聞いてくる」
「ああ。終わったら教えてくれ」
レオポルドの言葉に頷き一気に覚えた疲労から盛大な溜息をつくと、レオポルドが楽しそうに肩を揺らす。
「親父?」
「お前は本当に楽しい男だな、リオン」
だからこそウーヴェもお前と一緒にいたいのだろうと頷かれ、楽しいと評されて喜ぶべきかどうするべきかと口角を下げると、褒めているのだから素直に受け取れと睨まれて亀のように首を竦める。
「親父、まだ聞きたいことがあるけど良いか?」
「ああ。何だ」
「んー、そこにある金庫の暗証番号」
「馬鹿者」
そんな大切なものを教えるはずがないだろうと睨まれるが睨んだレオポルドも当然ながらリオンのその言葉が軽口で本心ではないことを見抜いているからか、金庫の暗証番号は教えられないが妻の携帯の番号ならば教えるぞと告げると、親父が出張中にムッティとデートしようと笑いながら携帯を取りだしたため、レオポルドも当然のように番号を伝えるものの釘を刺すことは忘れなかった。
「リッドがマザー・カタリーナと会いたいと言っていたぞ。連絡先を教えろ」
「へ!? マザーと会いたい?」
「ああ。一度食事をしたいと言っていたな。だから俺の留守にリッドとデートをしたのならマザー・カタリーナに報告するぞ」
それに、一体どのような教育方針を取ればお前のような自由奔放な男が育つのかを聞きたいと言っていたと、痛烈な皮肉にリオンが撃沈したように足の間に頭を落とす。
「くそー、ちくしょー、親父のくそったれ!」
「冗談だ」
「だー! やっぱりこの親子の冗談は笑えねぇ!」
百獣の王よろしく吼えるリオンを笑顔と手を振ることで軽くいなしたレオポルドは、冗談はともかく直接会って話がしたいのは本当だと頷くと、リオンもそれは本気だと分かったのか神妙な顔で頷き必ずマザーに伝えておくと約束する。
「で、聞きたいことは何だ?」
今日ここに来るまで聞きたい事は本当に沢山あった。
ウーヴェの過去についてもそうだし、今では納得がいっているもののまだ何某かの引っかかりを覚えている言葉の真意であったり、聞きたい事は脳内で渦を巻いていた。
だが、不思議なことに総ての疑問に解答を与えられると分かった途端、聞きたいと言う欲求が薄らいでいた。
疑問は疑問のままで良いなどとは思わないし解答がでないことへの苛立ちやもどかしさは胸の中に存在したが、無理に聞き出してまで知りたいのかという深い場所からの問いに口を閉ざしてしまう。
「何だ、聞きたい事はないのか?」
「んー、いや、そういう訳じゃないんだけどな……」
何かさっきまで思っていたことが取るに足らないことに思えてきたとリオンが肩を竦めた時、書斎のドアが激しくノックされる。
そのノックの早急さに二人がつい顔を見合わせるが、レオポルドが入れと声を掛けると血相を変えた己の息子がパジャマ姿のまま大股に駆け寄ってくる。
「フェリクスの目が見えなくなったというのは本当か!?」
「落ち着け。目が見えなくなった訳じゃない」
ウーヴェと良く似た面持ちを蒼白にしたギュンター・ノルベルトがレオポルドに詰め寄り真相を聞き出そうとデスクに手をつくが、目が見えないのではなく総てが灰色に見えているらしいとリオンが答えると、まるで総ての元凶がリオンであるかのように顔を振り向けて睨んでくる。
「どうしてそう落ち着いていられる?」
「んー……慌ててもオーヴェの症状が戻る訳じゃねぇし」
「お前は……!」
リオンの物言いは慣れた者や余程理解している者で無い限りは誤解を与えるもので、ギュンター・ノルベルトの端正な顔に赤味が差して口を開こうとするが、何かに気付いたようにリオンが目を瞠り、恋人の兄の怒りや驚愕など忘れた顔でレオポルドを呆然と見る。
「……何で親父はウーヴェで兄貴はフェリクスなんだ?」
「何の話だ」
レオポルドが答える前に興奮気味にギュンター・ノルベルトが問い返すが、そう言えばアリーセ・エリザベスのことやギュンター・ノルベルトのことをウーヴェがミドルネームを愛称形で呼んでいたことを思い出しながら手を挙げてギュンター・ノルベルトの視線を遮る。
「オーヴェは兄貴のことは確かノルって呼んでた。アリーセのことはエリーだった。アリーセも兄貴もフェリクスかフェルと呼んでる。でも親父やムッティはウーヴェって呼んでる。どうしてだ?」
その疑問はウーヴェの家族構成などを知るようになってから常にリオンの中にあったものだったが、それをぽろりと零したリオンは何故両親はファーストネームなのに兄弟間ではミドルネームで呼び合っているんだと呟き、解答を得られる二人の顔を交互に見つめる。
リオンにもミドルネームはあったが、それはマザー・カタリーナが生後間もなく教会に捨てられたリオンのこれからの人生が苦難に満ちたものだとしてもそれを乗り切れる程の光が溢れまた誰かの光になれるようにとの思いから付けたそうだが、己の時のようにきっとウーヴェのミドルネームの由来もウーヴェの人生が幸せに満ちたものであるようにとの思いから付けられたものだろうとも呟くと、ギュンター・ノルベルトの顔から一瞬で興奮が消え去り、次いで意外そうな驚きと何故素直に答えなければならないという不満が浮かんでくる。
「フェリクスてさ、確か幸福とか幸運とかそんな意味があったよな」
親が子どもに願うのはその子の幸せでその思いが込められている筈だと頷くリオンにレオポルドも頷き、フェリクスという名前を付けたのはギュンターだと答えると、少し冷静さを取り戻したギュンター・ノルベルトが腕を組んでデスクの端に腰掛ける。
「……ジーナと決めた名前だ」
「そっか。二人で決めた名前なんだな。でもさ、それなら何で親父はウーヴェなんだ?」
ウーヴェの幸せを願って決めた名前なら、物理的な幸せの総てを与えられるはずのレオポルドは何故その名で呼ばないんだと尚も問いかけると、ギュンター・ノルベルトが苛立たしそうに舌打ちをする。
「そんな事、どうでも良いだろう」
「どーでも良いことかも知れねぇけど、気になってしまうとずっと気になる」
さっきレオポルドに告げた時とは真逆のことを肩を竦めつつ答えるが、その顔に浮かんでいるのは太い笑みで、それに気付いたギュンター・ノルベルトの目が細められる。
この時、ギュンター・ノルベルトの脳裏にはアリーセ・エリザベスとリオンのことで話し合った光景が思い浮かんでいたが、その時、リオンを見た目で判断すれば痛い目を見ると妹に聞かされたことを思い出す。
今ギュンター・ノルベルトの前にいるリオンは、彼の価値観からすればちゃらちゃらとしている若者で絶対に自らは近寄らない類の男だったが、それだけの男ではないことをウーヴェに対する言動やアリーセ・エリザベスの言葉から感じ取っていたため、その片鱗を目の当たりにすると納得しそうになる。
恋人の兄が己に対する見方を変化させていることなど知る由もないリオンは、どんな理由があったんだと足を組んで問いかける。
「その話をすると長くなるぞ」
「今日は休みだし、オーヴェがここにいる間はずっと通うつもりだから平気」
「そうか。喉が渇いてきたから飲み物を持って来させよう」
「ああ、じゃあ何か軽いものも頼んで欲しい」
その言葉にレオポルドが眉を寄せ、ハンナに作って貰う間に着替えて来いと溜息を吐くと、リオンが意外そうに目を瞠る。
「今日は会議だろう、遅刻するぞ」
「今日から休みを取った」
ヴィーズンが終わるまで休みを取ったこと、だからハンナとヘクターと一緒に出歩けるが、今日はケーキを焼くから家にいると苦笑したギュンター・ノルベルトだったが、じろりとリオンを再度睨みチーズケーキは一切れだけしか食べてはダメだと告げた為、リオンが椅子の中で飛び上がって不満を示す。
「冗談だろ!? 一切れなんて食ったうちに入らねぇ!」
「朝から大きな声を出さないでくれ」
それでなくても存在自体が目障りなのにと呟きつつリオンを見たギュンター・ノルベルトだったが、その顔には無意識の不敵な笑みが浮かんでいて、その笑みの意味を読み取ったレオポルドが盛大な溜息を吐いてデスクの上のボタンを押す。
「げー、兄貴ずっと家にいるのかよ」
「いてはいけないのか? それに、お前に兄貴と呼ばれる筋合いはない!」
レオポルドの前で突如始まった口論だったが、兄貴を兄貴以外に何と呼べば良いんだ、兄貴以外に呼びようがないだろうと、例えこの後関係が改善されたとしても呼び方を変えない強固な意志の断片を披露しつつリオンが目を吊り上げれば、ギュンター・ノルベルトが冷徹とすら称される笑みを浮かべ、フェリクスと別れれば呼ぶ必要がないだろうと言い放つとリオンが再度椅子の中で飛び上がる。
「ぜってー別れねぇ!」
「ああ、うるさい」
リオンが吼える声を遮るために耳を両手で塞いだギュンター・ノルベルトを呆れた顔で見上げた父は、呼び出しに応じてやってきた家人に自分たちのコーヒーとギュンター・ノルベルトの軽食を用意してくれと頼み、いつまでもぎゃあぎゃあと言い合う息子と息子の恋人に頭痛を堪える顔で溜息を吐くのだった。