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悪夢

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悪夢

1 - 悪夢

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2024年06月12日

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何かが変わったような気がして、つぼ浦はふっと顔を上げた。食べかけのホットドッグがソーセージからスロー再生で零れて、唇の端にケチャップの赤を残す。眉を寄せ分厚いサングラス越しに空を睨む。空気とも雰囲気とも言い難いが、とにかく何かが変わったのだ。

黙り込んだつぼ浦は静止画のようにビタと動かない。重苦しく静かな画面。誰よりも騒がしい男のシリアスは、それだけで人目を引いた。アロハシャツに刈り上げて流した派手な髪色も相まって、蜂や虎のような危険を思わせる。警戒色の鋭い威嚇だ。

じっと一点をーー衛星のカメラを睨む。その先に何がいるのか。

つぼ浦は知らない。



「大丈夫ですかね」

「分からん。信じるしかないだろう」

青井と馬ウワーは短く言葉を交わした。モニターにはじっとこちらを見るつぼ浦が映っている。正確には、つぼ浦の衛星が流れていた。

騒然とした警察署内。馬ウワーはうなじの髪をぐしゃりと握ってため息をついた。警察署長としてピンと伸ばした背も今ばかりは丸くなる。疲労か気苦労か、刻まれたシワが年齢相応に見えた。

馬ウワーと青井の前にはソファが置かれ、モニターに映る顔と全く同じ顔が眠っている。

つぼ浦だ。サングラスは外され、左頬を肘置きにくっつけて枕にし、口は半開き。足首から先が死体みたいにはみ出している。眠った人間特有の深い呼吸で、アロハシャツがゆっくり膨らみ、しぼむ。

案外毒気のない面立ちは、しかし「グ」と低い唸り声と共にぐしゃりとしかめられる。悪夢にうなされているのだ。

青井はソファに手をついてモニターからローテーブルに視線を移した。つぼ浦のサングラスが丁寧に置かれた隣、紫の小瓶が並べられている。

「本当にこれが原因なんですか? キャップ」

ダンッ、と拳が打ち付けられテーブルと共に小瓶が揺れた。キャップの拳は節が白くなるまで握り込まれ、震えている。

「あぁ。間違いない。悪夢を見る薬だ」

頷くキャップの顔は暗い。

今すぐテーブルをひっくり返して小瓶を叩き割ってやりたい。しかし、そうするにはこれは重要な証拠だし、何よりつぼ浦を起こすための手がかりだった。

キャップの拳からギリリと音がして爪に血が滲む。局所的な痛みは鋭い。それでもの心の慰めにすらならない。

つぼ浦に小瓶を渡したのはキャップだった。


ほんの1時間前。

「ハー、悪夢を見る薬。キャップはもう飲んだんすか?」

「いや、まだだ。私が飲むより配った方が面白そうだからな」

「へえ」

へえ、とも、ええ、ともつかない発音を言い切るか否やで、つぼ浦は瓶をくっと煽った。風呂上がりの牛乳もかくやあらん。あまりの思い切りの良さに、キャップは「おまえ」と吹き出して笑う。いつもそうだ。つぼ浦は嫌がりもせず、けろっとした顔でフリを引き受ける。

つぼ浦の鼻を瓶から拡散した光がなぞる。紫陽花のように青から赤へ緩やかに変化するガラス瓶は、エジプトで作られた香水瓶に似ていた。ユウガオの銀細工がつぼ浦の嚥下に合わせてキラキラと輝く。

キャップの白い肌とは違う、日に焼けた黄色人種の肌はべっこう飴の色に似ている。そこに紫色が乗るもんだから、つぼ浦の柔らかなパステルは一層鮮烈に見えた。

キャップは右手を開いてつぼ浦に向ける。

「5分くらいで目覚めるらしいぞ」

「なるほ」

ど、とはほとんど言わないで、つぼ浦はアメリカのコメディアニメみたいに気絶した。地面に頭を打ち付ける寸前、キャップが右腕をつかんで支える。どこまでも面白い男である。一体どんなカラフルでハチャメチャな夢をみているのか。きっと花火みたいにどうしようもなくて、サイケデリックなストーリーなんだろう。

つぼ浦の語る悪夢が今から楽しみで、警察署の駐車場を占拠してキャップはつぼ浦が起きるのを待った。

しかし30分経っても1時間経っても、つぼ浦は目覚めなかった。




『なんだ? ちくしょう、やられたな』

モニターの中で、つぼ浦が移動を始める。

あたりは不自然なくらい誰もおらず何の音もしない。つぼ浦のコメカミからじわりと汗が伝う。左右に首を振り、後ろを神経質に振り返る姿はハリネズミに似ていた。

「つぼ浦、こういうホラー大丈夫な気がしますけどね」

青井が普段の多動癖を潜めて、じっと画面を見ながら言った。鬼面の下では瞬きもしていない。ポップコーンがあったら夢中で頬張っていただろう、彼はつぼ浦の悪夢をドラマのように見ていた。

反対に、馬ウワーは腕を組んで指で肘を細かく叩く。落ち着かないのか頻繁に足首を回していた。

「つぼ浦は案外寂しがり屋なのかもしれないな」

「……」

そんなはずがない、というキャップの声は形にならない。喉の奥で後悔がぐるぐると溜まって胃を締め付けているようだった。

画面の中のつぼ浦が無線に呼びかける。が、返事は無い。沈黙の度に、キャップはサボテンを飲み込むような自責を感じていた。

『誰もいねえな。みんな寝てんのかぁ? じゃあ、やりたい放題だな』

瞬間、甲高い痛快な破壊音。つぼ浦が車の窓を叩き割った。そのままバットで勢いよく2度、3度とドアを殴打する。景気よく車体をボコボコにして、挙句の果てに『あピッキングツール持ってねえや! チクショウ、通報され損だぜ』と馬鹿みたいによく通るデカイ声を上げる。

「やりやがったあいつー!」

青井が手を叩いて大笑いし、馬ウワーもゲラゲラと肩を揺らした。あんまりな衛星だ。しかも覚えがある。車両窃盗の通報現場に妙につぼ浦がいるのはこういうことか。やけに手際がいい。いや手際というか、思い切りだ。そのうえでピッキングツールの持ち忘れとは、車の持ち主に訴えられたら勝てないだろう。

「そうだった、特殊刑事課はシリアス時空には存在できなかったな」

キャップは頭をぶん殴られたみたいに笑った。




「ハッピーパウダー、ふん、ふふー」

緩い鼻歌は、しかし歌いきることができない。口の中が乾ききって、つぼ浦は無理やりつばを飲み込もうとしかめ面をつくる。レギオンから飲食店、警察署へスケボーで走るが、白市民もギャングも警察もいない。スマートフォンを確認してもSTATEに誰もいない。確かな異常事態だった。

静かな街は肌が痛くなるほどだ。油断すると猫のようにうつむいてしまいそうで、つぼ浦は無理やり顎を高く上げて前を向いていた。衛星で見ている誰かに弱みを見せたくなかった。

ふと、つぼ浦の耳が車のエンジン音を聞きつける。ぱっと体が軽くなったような気がした。人の気配だ。

「おーい! 止まれ警察、だ……」

駆け寄る足は途中で勢いを無くした。車の中で、感情の色が全く見えない透明な目が虚空を見つめている。心無き市民だ。

つぼ浦はバットを持ち直した。手には嫌な汗が滲んでいて、いくら力を入れても滑り落ちそうな予感がした。

誰でもいいから人間に会いたかった。

通知音は鳴らない。この街で犯罪が起きていない証拠だ。それが頭が痛くなるほど恐ろしい。孤独は怖い。誰とも話が合わなかった幼少期を思い出すから。両親を親と思えなかった嫌な時代。人間のいない世界。


画面が色褪せ、過去を映す。

つぼ浦は自分が意志を持った瞬間をよく覚えていた。広くて優しい暖かな部屋で、十人が十人とも実家と答えるようなリビングだった。これからつぼ浦になる肉の塊は口ばかり達者で、「まだ私人間として生まれてないんですけど」と前口上を述べて、あれこれくだらない質問を投げかけていた。相手はきっと上位者だった。観測者とか魂とかそういう。部屋を移動して、小さなアパートの一室で粘土みたいに自分の顔が作られていく。

幼少期からそんな記憶があったものだから、つぼ浦はどこか達観した子供だった。「まだ本編じゃないな」と脳みその奥が呟いている。両親は愛情を持って育ててくれたが、実際つぼ浦が生まれたのはあの小さなアパートで、上位者によって作られたのだ。そういう信仰があったからなんとなく折り合いは悪かった。心の底から信頼出来ない、違う生き物な感覚がずっとあった。

それが確信に変わったのは十に満たない頃だった。分別が付かないくらい幼くて、特別を喜ぶ時。クラスメイト3人とつぼ浦で自分が特別だと思う瞬間を語り合っていた。万引きが成功した時とか、今度のテストで天才なところ見せてやるよとか、無邪気で罪悪を知らない語り合いだった。「おれは今この瞬間も特別なんだぜ」とつぼ浦は言った。

「まだ本編じゃねえけど」

「それ、どういうこと?」

色白で頬のまるい、内気な友人がそっと尋ねる。つぼ浦にとっては空が青いとかものが下に落ちるとかそれくらい当然の話だったので、その内気な友人にだけなんでもない声で返した。

「だって、繋がってない」

「何と?」

「あー……」

つぼ浦は指を上に向けた。それを何というか指し示す言葉を知らなかった。今ならわかる。魂だ。友人はつられて、天井を見た。

「ぼっはじ」

友人は白目を向いて奇妙な声を上げた。

ダラダラと鼻から血が流れて、上を向いているから流れ込んだ血が口からも溢れていた。足がガタガタと痙攣している。椅子が引きずられて嫌な音をたてた。首と両腕ばかり脱力して、それ以外が別の生き物みたいに硬直している。つぼ浦はびっくりして固まってしまったのに、話し込んでいた2人の友人はこちらに気づきもしない。それどころか、壊れてしまった、上を向いたままの友人に話しかけた。

「なぁ、佐藤もそう思うよな?」

「かぺ」

「だよなー!」

「えー、おい、テッカイしろテッカイ」

「ん、どうしたつぼ浦?」

呼吸が上手くできなくて、心臓が痛かったのを覚えている。どうやってそこから離れたのは分からない。ただ、壊れてしまった友人は二度と元に戻らなかったし、周りは当然のように接していたし、みんなそのうち交通事故で死んだ。

つぼ浦の幼少期、同じ生き物と認識できたのは叔父のつぼ浦勲だけだった。彼だけは魂と繋がっている人間だった。

孤独を知っているから、今が震えるほど怖かった。




キャップは悪趣味な衛星に舌打ちを鳴らす。人の過去までダイジェストで映すそれは、つぼ浦が一度も口にした事の無い心の柔らかい部分だった。誰にでもある、秘密にしたい弱みだ。

『……』

あのつぼ浦が、あの破天荒ではちゃめちゃでどんなシリアスもコメディで乗りこなすつぼ浦が、顔を引きつらせて笑っている。色がついているはずなのに画面がモノクロに見えた。

黙り込んだ顔はうつむかない。胸を張り、大股で再び歩き出す。

だが、ソファで眠るつぼ浦は額に脂汗をかいて歯を食いしばっていた。腕に力が入っているのだろう、アロハシャツに不自然なしわが寄って戻らない。

キャップは唇をぎゅっと結んだ。ゆっくりと瞬きをしてポケットの中に手を入れる。心臓がバスドラムみたいに低く、確かに体を揺らす。飲み込んだ罪悪感が全て決意に変わって、体中に満ちていた。

つぼ浦を助けるなら、こんなところで立ち止まっている暇はない。

「所長! つぼつぼのことを暫く頼むぜ」

「どこにいくんだ?」

「決まってる。部下を助けに行く」

ポケットから取り出したのは紫色の小瓶だ。ユウガオを模した銀の装飾が怪しく光る。それはためらう理由にならなかった。

ちょっと前のつぼ浦のように、キャップはそれを一息に煽った。慌てた馬ウワーと青井の顔が見えて、そのまま意識を失う。

そしてすぐ目を覚ました。

「お、おぉぉ。早いな。大丈夫か? キャップ」

「ああ。全然ダメだったぜ。震えが止まらん。泣きそうだ」

「何があったんですか?」

「最悪の悪夢だ。一目で絶望するような。……懐かしい記憶でもあった。これ以上は言いたくないぜ」

「そうか……。つぼ浦は?」

「いなかったぜ。まあ、一人一人違う悪夢なんだろうな。当然だが」

「そうか」

「というわけでもう一回行ってくるぜ」

「は?」

「え?」

バターン! キャップがまた薬を飲んで倒れた。

「ポプテピピックかなんか?」

青井が小さく呟いた。特殊刑事課には誉め言葉だったかもしれない。




モニターの中、ようやく、つぼ浦と心無き以外の人間が映る。特徴的なカチューシャに遠目からでも見える水色のフリルスカート。この街で有数の不審者ルックで、古株の警察官。

「何寝てんすか、キャップ」

つぼ浦の声は小さく、情けなかった。自分で驚いたように口元に手を当てて、誤魔化すように喉を鳴らす。

「キャップ、起きてくださいよ。街が変で誰もいないんです。スマホ見てもサッパリで」

キャップはつぼ浦を見たまま棒のように立っていた。蛍光灯の弱い明りでは、真っ黒なサングラスの下はうかがえない。つぼ浦は大げさに「なんか言ってくださいよ」と笑った。

「ドッキリっすか、勘弁してくれ。もういいから」

鼻に不自然なしわが寄る。落ち着かなく腕をさすって、「キャップ!」と一際悲痛な声を上げた。

自由と腹ペコが、愛と正義にすがる。キャップが声を上げるのを待っている。手を取って、突き飛ばして、そばに立って、それでもキャップは一言もしゃべらなかった。

心臓が踏切みたいにガンガンと警鐘を鳴らしている。汗が止まらないせいで、背中にTシャツが張り付いていた。耳鳴りが酷い。足元がぐらぐらして視界が狭くなっていく。

つぼ浦の腕が油を刺していないロボットみたいに動いて、キャップのポケットをあさった。拳銃は吐き気がするほどあっさりと見つかる。

止まらない嫌な予感を息と共にグッと飲んで、つぼ浦はキャップの心臓に銃口を突きつけた。

「z-go away.g-mug.h-stay here.」

キャップが喋った。

心無き市民と同じ発言だった。

「そんな」

震える手から銃が滑り落ちた。胸に穴が空いたようで、しかし、予想通りでもあった。つぼ浦はあの日の友人のように天井を見る。今、キャップは魂と繋がっていない。

「……ト、イレとかご飯とか、なんかそういうのっすよね。なぁ」

魂が一時的に離れているだけだと信じたかった。

あんなに五月蝿いと思った喚き声が今は恋しくて仕方がない。

キャップの背後に周り手錠をかける。護送の形で抱えあげたキャップの体は、いつも通り成人男性らしい重さをしている。

魂の重さは21g。

あまりにも僅かな違いをつぼ浦が感知することは出来ない。

ただ少しだけ。つぼ浦は街の、否、世界のシステムに詳しかった。キャップがの魂が決定的に離れてしまったか確かめる方法を一つだけ思いついていた。

薄茶色のジャグラーに乗り込み最高速度で北へ走らせる。「道路交通法違反すよ、ほら。切らないんですか」と一度つぶやいたきり、車内は静かだった。

日が傾いていた。

世界の終わりのように真っ赤な視界の中で海だけが眩しいほど金色に染まっている。たおやかな波が寄せては返して、車から降りたつぼ浦とキャップの足をサラサラと濡らした。逆光に照らされ2人は長い影に沈んでいた。輪郭ばかりが白金に際立つロードムービーのエンディングみたいな光景だった。

つぼ浦はくっとキャップを振り返った。

「特殊刑事課は! シリアス時空には存在できない、っすよねぇ」

声を張り上げ、口角を無理やりあげる。波の音がつぼ浦の声を響かせない。

むせかえるほどの潮香の中で、静かな海に二人きり。夕日がジリジリと沈んでいく。

つぼ浦はキャップを抱えて、深い波間に足を踏み入れた。かき分けられた海水が黄金のしぶきに砕けては散る。キャップのスカートが水を吸って重たくなっていく。

サンダルが脱げてさらわれた。構わず、腰が濡れるまで歩く。

遠くで海鳥が鳴いている。市民もギャングも警察もいない。胸が痛くなるほどの孤独だ。いや、孤独かどうかを今から確かめるのだ。

「キャップ」

言葉を探すようにつぼ浦は目線をさ迷わせた。躊躇いながらキャップの背中に頭を預ける。額から伝わる暖かい人間の体温はつぼ浦がこれからすることを咎めていた。

「おれはキャップを信頼しています」

魂のある人間は頑丈だ。死んでも死なないくらい。

つぼ浦はキャップを突き飛ばした。そのまま、頭を掴んで水面に押し付ける。40秒を数えたところでキャップの背中が咳をするように揺れて、気泡の塊がごぼっとで吐き出された。キャップの手足が引き付けのようにバタバタと暴れる。水しぶきは赤と金に染められて、命の危機を壮絶に美しく見せた。ふざけたカチューシャが外れ海底へと流れていく。

つぼ浦は指が白くなって、腕に血管が浮かぶほど必死にキャップを押さえつけた。こんなことをするべきじゃないと心が叫んでいた。サングラスをかけていて良かったなぁ、と冷静な理性で思った。衛星に涙が映らないから。

段々とキャップの抵抗が弱くなっていく。握りこんだ手が砂をかくように開かれ、警察無線に通知音が鳴った。

キャップが死んだ。

重たく脱力した体を持って、つぼ浦はキャップを海岸へ引き上げた。海水ですっかり手は冷え切っていて、そのくせ頭の奥がアドレナリンで沸騰したように熱かった。

夜のとばりが近づき、空は紫陽花のように赤から青へと色を変え始めている。

薄墨色の砂浜で、つぼ浦はキャップを仰向けに転がした。急いで胸の中心に手を当て、右手の甲を包むように手を組んでぐっと体重をかけた。

BPM100。

「そうっ、だ、おそれ」

リズムを正しくとるためにつぼ浦は歌った。愛と正義の歌だ。キャップのテーマソングでもないのに日本で一番有名なヒーローの歌詞はしっくりくる。なんだかおかしくなって、つぼ浦はちょっと笑った。それは衛星の向こうで痛々しい唇の引き連れに見えた。今にも泣き出しそうな、迷子の子供の顔だった。

キャップの胸がギョッとするほど沈んで、戻る。まっすぐに伸ばした肘は衝撃を吸収しない。肋骨はひどいことになっているだろう。それでもつぼ浦は心臓マッサージを続けた。命を救いたかった。

頭の中で30を数える頃には、目の前がぼやけるほど酷く息が切れた。歌いながら全力で心臓を圧迫したせいだった。

それでも無理やり深く息を吸って、キャップの顎をくっと上げた。顔がのけぞり気道をが確保される。教本通り鼻をつまんで、横から隙間が生じないようにキャップに口づけた。1秒、強く息を吹き込んだ。キャップの胸が風船のように膨らんで、しぼむ。

もう一度。キャップは目覚めない。

カチューシャもサングラスも外れたキャップは、つぼ浦の知らない青白い顔をしていた。特殊でも変態でもないただの男の死体に見えたが、それでも確かにつぼ浦が殺したキャップなのだ。

心臓マッサージに戻る。耳がキャップの声を拾おうと鋭敏になっていた。少しでも彼が自発的に動いてくれないか、目を皿のようにして探した。

キャップの爪に砂が詰まっている。沈めた時の抵抗で着いたのだろう、しかしこそにつぼ浦の血は着いていなかった。傷つけてくれた方が気が楽だった。人間を傷つけない優しさが、魂の不在を残酷なほどに示していた。

人工呼吸。2回の長い吹き込みで、しかしキャップは唸りもしない。教材用の人形を使っているようで、つぼ浦に焦りが募る。

心臓マッサージに戻る。腕が信じられないくらい痛かった。休みなく短時間で酷使したせいだ。それでもいいと思った。折れて、一生使えなくなってもキャップの声がもう一度聞こえるなら、それで。


つぼ浦はわかっていた。

システムは融通を効かせてくれない。どれだけ夢でみた正しい処置であろうと、この街で蘇生ができるのは医者だけだ。

警察官には、つぼ浦には。

キャップを起こすことは出来ない。


世界の青が増していく。

ゼイゼイいうほど肩で息をして、その呼吸にすら耐えられず咳が出た。真っ赤な顔に今更ダラダラと汗が吹きでて、飲み込む力もなかった唾液が垂れ落ちる。

つぼ浦はもう一度心臓マッサージしよう構えて、そのままキャップの体の上に倒れこんだ。もがくように体重をかけるが、腕が耐えきれずガクガクと折れる。体力の限界だった。

水平線へ夕日が消えていく。今際の際みたいに赤々と燃えて、悪あがきみたいに暗い光の線を広げ残す。

ボロ切れみたいに疲れ果て、つぼ浦はキャップを見た。短い髪が濡れてペタリと肌に張り付いて、カチューシャもサングラスもないから普段とはまるで違う顔だった。つぼ浦が散々蘇生を試みたせいで衣服は砂だらけで、溺死した人間らしく唇は紫色をしていた。

それでも案外穏やかな死に顔だった。

見納めだと思った。

目を閉じる。

開く。

キャップの死体は消えた。

心無き市民の死体がいつの間にか消えるように、誰も見ていないキャップの死体はチャンクに飲み込まれた。

キャップの魂が完全に離れてしまった証明だった。

夕日が完全に沈んで真っ暗になる。暗闇に包まれてつぼ浦はどこまでも1人になった。




静かで絵画のような画面が続く。賑やかで騒がしいこの街でたった一つしかない静謐に思えるほど、それは重たい美しさをしていた。

青井はモニターを見ながら「え、良。エモー」と言った。

「良すぎ。俺も飲んでみようかな薬」

「らだお、不謹慎だぞ」

「ははは」

青井は画面を見ながら肩を竦めた。誤魔化すように笑ったが本心だ。純粋に綺麗なものを見たし、生意気な後輩が弱りきっている姿に加虐心も満たされた。心無き市民を笑顔で見逃せると思うほど、優しい気持ちになっていた。

馬ウワーは両手で顔を覆って、長いため息をつく。見ているだけの自分がこうなのだ、ひとりぼっちになってしまったつぼ浦の辛さはどれ程だろうか。

黒い画面からは波の音ばかりが聞こえた。すすり泣く声が聞こえたらいっそ安心出来ると耳を澄ませたところで、「ワ゛アア!」と絶叫。馬ウワーはすっ転んだ。口から心臓が出たんじゃないかと思った。

「あ、キャップおはようございます~」

13回目の帰還に青井が手を貸してキャップを立ち上がらせる。ついでに馬ウワーも起こして貰って、5歳は老け込んだ顔で「驚かせるんじゃない」と言った。

「あぁ、すまない。だが、ようやく確信したぞ」

「何をだ?」

「悪夢から覚める方法だ」

二人から歓声が上がる。キャップは言い淀むように右のこめかみを手のひらで抑えた。

「ただ、……つぼつぼには難しいかもしれない」

「なんすか? 謎解きとかならあいつ意外といけるけど」

「自殺だ」

「あー、なるほど……」

「それは……」

青井と馬ウワーが揃って画面に目を向けた。つぼ浦は丁度立ち上がって、ピシャンと両手で顔を叩いたところだった。『しゃ全員ぶっ殺してやるかー!』とバットを構え、電灯の下で吠える。その顔は国家公認ギャング特殊刑事課の、いつもの不敵な笑みだった。

「ウワ切り替えはっや」

「えぇ……?」

青井は引いたし、馬ウワーは首をフクロウみたいに傾げた。

つぼ浦が自分を殺した海辺の黄金も真っ赤で悲痛な救命も夜闇の沈黙も知らないキャップは、「どうしたもんかな」と呑気に呟いた。

まあ確かに、と青井は思う。

あのかんしゃく玉の擬人化は自殺などとは縁遠い。命を軽く扱う癖に、自分から死にそうなビジョンはびっくりするほど思い浮かばない。つぼ浦匠はどんな悪に晒されようと自ら命絶ったりしない。多分。

まったく出来の悪い後輩である。仕方がないので、どれだけ時間がかかっても見届けてやるか、と思った。




それからつぼ浦は街の心ある住民を、否、心のあった住民を見つけては殺していった。

青井は屋上のヘリポート付近に座り込んでいたし、馬ウワーは所長室で観葉植物のようにぼんやり立っていた。日頃の感謝とか果たせなかった約束とか、本当はちょっと聞いてみたかったこととかを一方的に話して、キャップの銃で頭を撃ち抜いた。

死体は誰一人として残らなかった。

「あー、疲れた! チキショウ、とんだ大仕事だったぜ」

墓地でつぼ浦は大の字になって寝っ転がる。明け方の空を衛星に映して、久しぶりにゆっくりと深呼吸をした。

「顔見知りは全員やれただろ。あとはー無理だ。すまん!」

鳥が夜明けを告げている。車のエンジン音が遠くで響いても、つぼ浦はもう起き上がらなかった。この世界に魂のある人間は居ない。

「……世界の終わりだな。あれだろ、魂との接続が切れたってやつ。なんで俺が取り残されてんのかわかんないけど。ま、世界に弾かれて強制瞑想があるんだから、世界に取り残されることもあるよな」

透明な風に似た爽快さで両腕を伸ばし「あー、楽しい毎日だったな!」と笑った。

「終わりか」

つぼ浦がそっと、自分のこめかみに銃口を向ける。ヒヤリとした金属の感触。トリガーを引けば、終わる。生きたいと願わなければいいだけだ。

「まあもう誰もいないしな」

人差し指に力をこめようとした。

「……あ、誰も?」


「おい、待て、なんか妙だぞ」

つぼ浦は衛星を指さした。

「なあお前だよ。俺を見てるお前だ! お前、みんなの魂に連絡取れるよな」

「この街をまた繋げてくれ」

「頼む、誰でもいい」

「助けてくれ!」




「ーー勿論だ、つぼつぼ。いい加減目を覚ましなさい」

明転。




ぎゅっと瞳孔が絞られる感覚と、人の声がする。サングラスを通さない視界は光がハレーションを起こして、随分キラキラとして見えた。

強い力で背中に暖かいものがぶつかる。振り返れば、のしかかるように鬼面が体をぶつけてきていた。馬ウワーが無線で何かを呼びかけ、右耳でワッといくつもの声が盛り上がる。

脳みそはまだ半分寝ていて、誰が何を言っているのかよく分からない。とにかく、目が覚めてよかったとか、よく頑張ったとか。

みんな聞き覚えのある、つぼ浦が殺した人間の声だった。生きている。つぼ浦はそれをぼうっと聞いていた。感情が上手く処理できなかった。

さまよう視線が、一等目立つふりふりの水色を見つける。血色のいい白い肌に、サングラスとカチューシャを装備した1度見たら忘れないような男。

キャップがすぐ側にいた。猫背でほっと息を吐いて、つぼ浦の視線に気づいて姿勢を正す。腕を組んで、不敵に笑い、格好をつける。特殊刑事課の見本みたいな立ち姿だ。

「流石だ、つぼつぼ。悪夢が諦めるほど、諦めが悪いとは」

つぼ浦が殺してでも見たかった、生きて笑ってちょっと格好のつかない、最高の上司だ。

「勿論です。特殊刑事課なんで」

「素晴らしい。100点だ」

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