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なぜ、こんなことになったのか。
事態は、数時間前にさかのぼる。
今日は、会社の忘年会だった。
正直、行きたくなかった。けれど、それっぽい欠席理由を考えるのも面倒で、結局いつも通り参加した。
春川陽一。三十四歳。
中堅メーカーのシステム部で働く、しがない会社員だ。
人混みに紛れたら三秒で見失われるモブ顔。湿気に弱く、朝セットしてもすぐに無意味になるクセ毛。自分から話しかけるのが苦手な性格。
モテたことなんて、人生で一度もない。
二十代後半の時、プロポーズ直後の彼女に浮気されたことがある。
それだけなら、まだよかった。
一ヶ月後、インスタに流れてきたのは、白いドレスを着た見覚えのある元カノと、その隣に立つ見知らぬ男との写真だった。
二股をかけられていた上に、結婚式の準備まで進められていたのだ。僕はしばらく、立ち直れなかった。
男ばかりの職場。恋愛も結婚も、たぶんもう無理だ。
ゲームの推しキャラは裏切らない。ガチャで外れても、人間に裏切られるよりはずっとマシだ。
居酒屋の一番端の席で冷めた唐揚げをつつきながら、「早く帰ってゲームの限定イベントを周回したい」と現実逃避していた。その時だった。
「お隣、いいですか? 」
安酒とタバコの匂いで淀んだ空間に、場違いなほど清らかな風が吹き抜けた気がした。
ふわりと甘い匂いがして、視界の端に彼女が入ってきた。
営業事務の白石ひより。二十六歳。
色白で華奢。社内では「守ってあげたくなるタイプ」と評判の、システム部とは無縁の美人だ。
黄ばんだ壁や、酔いが回って下世話な話に興じる連中という「俗」の風景が、彼女の存在によってモノクロの背景へと退いた。
ぱっちりとした瞳は、瞬きをするたびに長い睫毛が繊細な扇のように揺れた。
彼女がいるだけで、薄暗い居酒屋の解像度が跳ね上がる。
スクリーンの中の女優がスポットライトを浴びているような、非現実的な輝きを帯びていた。
すっと背筋を伸ばし、腰を下ろすその所作さえ優雅で、彼女が座るその一角だけが、別の重力によって支配されているようだった。
(……住む世界が、違う)
僕は反射的に視線を逸らした。まぶしすぎる「リア充」のオーラに、目が潰れそうだった。
しかし——その認識は、数分後に粉々に砕け散ることになる。
「白石さんって、彼氏いないんですか?」
同僚の何気ない質問が、パンドラの箱を開けた。
「いません!! ……まあ、いたけど。だいたい逃げられるんですよね〜」
ビールジョッキをドンと置き、彼女は笑った。
その笑顔はどこか自虐的で、そして危うかった。
「なんでって? ……」
時が止まった。だが、彼女の暴走は止まらない。
元カレにBL好きを話したらドン引きされてフラれたこと。
次の彼氏には隠していたが、趣味の話題を封印した結果、会話が続かなくなり——最後は『白石さん、いろいろ元気すぎる』
と、遠回しに逃げられたこと。
周囲の笑顔が引きつり、空気が凍りついていく。
「清楚」の皮が剥がれ落ち、剥き出しの本音がこぼれ落ちる。
誰かが椅子を引いて席を立つ音がした。
——僕はなぜか、笑っていた。
正直すぎて、不器用で、全部さらけ出してしまう彼女に、妙な親近感を感じていたのだ。
だって僕も、ゲームオタクを「キモい」とバカにされ、信じた相手に裏切られた“はみ出し者”だから。
「……春川さん」
ふいに、潤んだ瞳と目が合った。
「……引きました?」
その目は、まっすぐなのに少しだけ怯えていた。
僕は自然と口にしていた。
「……別に。白石さんが、楽しそうならいいと思いますよ」
彼女の表情が、ふっとほどけた。
それは、今までのどの笑顔よりも無防備で、破壊的なまでに愛らしかった。もう後戻りできない。
そう直感した時には、僕は完全に心を持っていかれていた。
***
忘年会が終わる頃には、彼女は完全に出来上がっていた。
「俺が送ってあげるよ~」
まともに歩くことさえままならない彼女に下卑た笑みで近づく木島を、部長が遮った。
「待て。お前はダメだ。……春川、お前、白石さんと家の方面一緒だよな?」
部長が言って、周囲が一斉にこちらを見た。
「春川なら安心だ。タクシーで送ってやってくれ」
「え……? ぼ、僕ですか?」
周囲の「枯れたこいつなら手を出さない(出せない)」という失礼極まりない、だが絶対的な信頼を察した。
***
タクシーの座席で、彼女はすぐに僕の肩にもたれかかってきた。距離が近い。近すぎる。無意識に、いちばん心臓に悪い距離を選んでいるのだろうか。
「大丈夫ですか?」
「だいじょーぶ……たぶん……」
車内の揺れに合わせて、彼女の髪が僕の頬を撫でた。窓の外から差し込む明かりが、彼女の横顔の美しさを一層際立たせていた。
「白石さん、着きましたよ。……白石さん?」
声をかけると、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……ふわぁ。あ、もう着いちゃったんですね」
マンションの前で降りると、冬の深夜の風が頬を叩く。ようやく酔いが覚めるだろうと思ったのに、その期待はあっけなく裏切られた。隣の彼女は、その場にふにゃっと座り込んでしまった。
「 歩けますか?」
「むり……」
この寒空の下、道端に放っておくわけにもいかず、僕は腹を括った。
「……すみません、失礼します」
抱き上げると、彼女は驚くほど軽くて温かかった。鼻先をかすめるアルコールの匂いと、彼女からふわりと漂う甘い香りに、心臓がどきりと跳ねる。
エレベーターで昇る数十秒が、永遠のように長く感じられた。腕の中の温もりと甘い匂いに、平常心を保つだけで精一杯だった。
「着きましたよ。鍵、開けますね」
「んん〜……ありがと……」
「あったかい……。ずっと、こうしてたい」
彼女をベッドまで運び、壊れ物を扱うようにそっと下ろした。
「じゃあ、僕はこれで」
役目は終わった。さっさと帰ってイベントの周回を……。そう自分に言い聞かせ、身を引こうとした時。
むくっと起き上がった白石さんにシャツの裾をぎゅっと掴まれた。
「え、あの、白石さん? 手を離して……」
「……ぎゅーしたい」
甘えるような声と共に、彼女の細い腕が僕に回される。
不意に柔らかな重みを預けられ、僕はなす術もなく床へと転がった。
——そして、現在へと繋がるわけだ。
潤んだ瞳で見つめられ、吐息が触れそうなほど近い距離だった。
もはや2の累乗の計算は完全に停止している。
「春川さん……好きかも」
鼓膜を揺らす甘い囁きだった。