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心臓が裂けそうなほど早鐘を打つ。無理だ、もう限界だ。理性が焼き切れる——そう覚悟した、その時。
とん、と。僕の胸板に、彼女の頭が預けられた。
「え……今?」
数秒、経った。
聞こえてきたのは、すう、すう、という規則正しい寝息だった。
「ここで寝た、のか……?」
全身から力が抜けた。
もう安心だ。
安心したはずなのに、心臓だけはまったく落ち着いてくれない。
僕は慎重に身体を起こし、白石さんをベッドへ寝かせ直した。首元まで布団をかけると、彼女は子どものように無防備な顔で眠っていた。
さっきまで僕を社会的にデリートしかけていた人と、とても同一人物とは思えない。
「……おやすみなさい」
小さく呟いて、僕は部屋の隅にあるソファへ移動した。
本当は帰るべきなのかもしれない。でももうとっくに終電はないし、こんな泥酔状態の彼女を残して部屋から出て行くのも気が引けた。
僕は狭いソファで身体を丸めた。結局、朝まで一睡もできずに天井を仰ぐことになった。
血管を駆け巡るアドレナリンと、さっきまでの近すぎる距離感が、僕の思考回路を朝までジャックし続けていたからだ。
***
「……ん……ここ、どこ……?」
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、白石さんの顔を照らしていた。
ゆっくりと目を開けた彼女は、ソファに座る僕の姿を認めるなり、悲鳴を上げて飛び起きた。
「なっ、なんで春川さんがここに!?!? ……私……まさか……っ」
みるみるうちに、彼女の顔が耳まで林檎のように真っ赤に染まっていく。
彼女は布団を胸元まで引き上げ、震える声で尋ねた。
「……なにか取り返しのつかないことを……?」
「し、してません!!」
つられて僕の声も裏返った。
(むしろこっちの方が、社会的に死ぬかと思ったんだぞ!)
「僕は……ちゃんとお付き合いした人としか、そういうことはしませんから!」
勢いで言い切ってから、ハッとした。
(……いや、何を朝から堂々と宣言しているんだか……)
しかし、それを聞いた白石さんは、ほっと安堵の息を吐いた。
「……よかった」
数秒の沈黙の後。布団の端をぎゅっと握りしめたまま、彼女は探るような上目遣いで僕を見つめた。
「あの……春川さん」
「はい?」
「じゃあ、私と、付き合いませんか?」
「…………え?」
思考が停止した。
(社内一の高嶺の花と言われている彼女だぞ? そんな人が、僕みたいな、ただの冴えないシステム屋と? ありえないだろ!)
「……僕で、本当にいいんですか?」
「春川さんが、いいんです」
白石さんは、少しだけ不安そうに首を傾げた。
「……ダメ、ですか?」
43
その一言で、完全に負けた。
——こうして僕は、予測不能な恋に、足を踏み入れた。
***
白石さんの家から戻り、シャワーを浴びて一時間だけ眠った。
枕元で鳴り響くアラームの電子音が、寝不足で重い頭を容赦なく叩き起こす。僕は瞼をこじ開け、ぼんやりと天井を見つめた。
──夢じゃないよな。
昨夜の記憶を頭の中で順番に再生してみる。
忘年会で酔っ払った白石さんを家に送り届けたこと。床に転がって……寝落ちされたこと。
そして、朝。
「……なにか取り返しのつかないことを……?」
「し、してません!!」
清純派の彼女には似合わないやりとりの末、まさかの流れで付き合うことに、なってしまった。
スマホを手に取ると、一件の通知が表示されていた。
『おはよー。春川さん、二日酔い大丈夫ですか?昨日はありがとう』
視界が一気に明るくなった。
彼女がいたのは、もう5年以上前だ。そんな僕に、他愛ないやり取りができる相手が出来るなんて。
『おはようございます。白石さんは体調大丈夫ですか?』
送信すると、数秒で既読がついた。
『うん、ありがとう!私は元気。春川さんはちゃんと寝れましたか?』
――ちゃんと。その四文字を見た途端、昨夜の記憶が鮮明にフラッシュバックする。
腕の中に残っていた彼女の温もり。そして、近すぎる距離感と無防備な寝顔。あれで「ちゃんと」寝られる男がいるだろうか。
『はい。問題ないです』
(……嘘だ)
ほとんど眠れていないし、頭は鉛のように重い。それでも、心は満たされていた。
***
会社に行くと、案の定の光景が待っていた。
「よお、春川ー」
デスクに着くや否や、システム部の同期・佐藤徹が、ニヤニヤとした笑みを浮かべて近づいてくる。
結婚後、10キロ以上の「余剰データ」を蓄えた彼の指には、今や外れそうにない指輪が無慈悲に食い込んでいた。
「昨日、白石さんを送り届けてやったんだろ? で、ぶっちゃけどうだったんだよ?」
「……何がですか」
僕はわざと視線を逸らし、モニターを凝視して仕事中のふりをする。そして無意味にマウスをカチカチと鳴らした。
「いいか、俺の目は誤魔化せねえぞ。絶対、何かあっただろ?」
(まったく。こういうところだけ無駄に鋭いんだよな……)
「別に……何もありませんよ」
「嘘つけ。で、実際、付き合ってんのか?」
「え?」
「イエスかノーか、バイナリで答えろよ」
「えっと、それは……」
言葉に詰まると、彼は満足そうな顔で頷き、ポンと僕の肩を叩いた。
「お前なかなかやるじゃん。あの堅物の春川がねえ……。はい、ごちそうさまー!」
「……だから、そういうんじゃないって」
遠ざかっていく背中に声をかけるが、佐藤は振り返りもせずにひらひらと手を振った。
「はいはい。朝から特大のノロケをどうも!」
違う。本当に、神に誓って手は出していない。何もしていない。
何もしていないからこそ、昨夜を思い出して頬が火照るなんて、誰にも言えるはずがなかった。
***
昼休み、ポケットの中でスマホが震えた。
『春川さん、今日のお昼なに食べたか写真送って?』
写真?
首をかしげながらも、社員食堂の定食を撮って送った。
焼き魚。鶏むね肉とブロッコリーのサラダ。ご飯と味噌汁。
即座に返信が来る。
『いいね!鶏むねとブロッコリー最高♡夜もタンパク質とミネラル意識してみてくださいね♡』
健康に気を遣ってくれるんだな。鈍感な僕は、それくらいにしか思わなかった。
その時の僕はまだ知らなかった。その一枚の写真が、彼女の“彼氏育成計画”の第一歩だったことを。