好きな人の運命なんてものに、自分はなれないのだと最初からわかっていた。
それでも、惹かれてしまう気持ちを抑えることができず手を伸ばしてしまって、火傷みたいなじくじくとした痛みを抱えたのは自業自得と言っていいかもしれない。
「…………噛み痕残すなよ」
「なに?文句でもあるの?w」
昨夜の名残がまだ残っている。そんなセックスをした後の気怠い朝の時間。もうそろそろちゃんと起きて、地元に帰らなくてはいけない。今日は日曜日で、明日は月曜日。高校三年生なのだ。まだ学校がある。
眠気が身体を重くしていて、なかなか動けなかった。ゾンビみたいに眠気に唸りながら歩き回り、顔を洗おうと洗面所に行き鏡の前に立つ。瞬間、目に入ってきた光景にぺいんとは顔を顰めてしまった。首の周りに無数の噛み跡がある。白い肌に鮮やかな赤。内出血をしたのだろう。手を首の後ろにやると、ひりついた感触がした。もしかして、うなじもか。ため息をつきながら顔を洗い、床に落ちていた服を拾いながら着ていき、ベッドの前に戻った。
そうして、端的に述べた文句は、対して相手に響いている様子はなかった。
「文句っていうか、こういうのはデリケートな場所なんだから無断で噛むのはマナー違反だろ」
ベッドの端に座りながら、ボソボソと言い募る。しかしそんな正論も、無駄だった。いまだに上半身は服を着ないまま横たわっている相手――らっだぁは、ぺいんとの言葉を鼻で笑った。馬鹿にしたような、わかってない人を見下すような嫌な笑い方だった。
「べつにいいだろ。お前、Ωじゃないんだからw」
そう言われた時の冷たいものが身体にまとわりついたような感覚を、どう伝えたらよいだろうか。指先が氷みたいに冷えているのを誤魔化すように握り拳を作った。表情には動揺を出さない。それだけは意識する。落ちついた声が出るように一度だけ息を吐く。なるべく、ため息みたいに見えるように。
「そうだけど、マナーは守れよ」
「あー、はいはい」
ぺいんとの努力は意味があったようで、らっだぁには小言のように聞こえたようだ。苦労して吐いた言葉が雑に流されていく。それでいい。なにを思ったのか悟られたら、きっと、もうこんな朝を迎えることができなくなるから。
「…………そろそろ、帰る」
「うん。じゃあな」
「また来る時連絡する」
「そう。わかったよ」
「ああ…………その、またな」
「あー、うん、またね」
名残惜しい気持ちが滲まないように、なるべく、淡々と別れを述べる。らっだぁはこちらを向いていなかった。スマホの明かりが背中越しに見えて、その背中のそっけなさに安堵を覚えながらも、どうしたって解消できない苦しさに息が詰まりそうになってしまう。
帰ろう。この部屋から出なければ。らっだぁから離れたい。そんなことを思いながららっだぁに背を向け、部屋を去る。それ以上別れの挨拶は不要だった。最後にキスでもするような、そんな仲ではないのだ。悲しいことに。
仕方ない。玄関の扉を閉めながら、胸の中で呟く。そうやって何度自分に言い聞かせてきたかわからない。この関係が始まってから、呪文みたいに繰り返し唱えた。仕方ない。仕方ないのだ。
だって自分は、好きな人の運命にはなれないのだから。
*****
この世界には男女以外にも性別がある。第二の性別と言われるそれは全部で三種類ある。それぞれα、Ω、βだ。
αはいわゆるエリートである。希少な存在で、ごく僅かしかいないが、なにかしらの才に秀でていることが多い。強者の象徴的な性別である。そんなαと対になるような存在がΩだ。Ω性を持つ人は、男であろうと孕むことができる。そのフェロモンはαを惹きつけ惑わし、時々陰惨な事件が起こることがある。発情期と呼ばれる期間があり、その期間は動くこともままならないらしい。酷な話だが、産むことに特化したような性別とも言えるかもしれない。こちらもα同様に希少な存在で、人生のうちに出会うことはほとんどない。
αとΩはフェロモンによって惹かれあう。そうして番という特別な関係になるのだ。方法は簡単で、αがΩのうなじを噛む。それだけで夫婦や恋人を超える、もっと深くて本能的な関係になるのだ。αがΩを孕ませる。それは常識みたいなもので、つまり、その二つの性別は切っても切れない関係なのだ。中には「運命」と呼ばれる相手と出会うこともあるらしい。出会ったが最後、離れることができないほど惹かれて、たとえ別の恋人がいたとしても別れてその「運命」の人を選んでしまうと聞いたことがある。
それをロマンチックだと言う人もいれば、理性的ではないと眉を顰める人もいる。まあ、そこは人それぞれだ。価値観の違いというやつ。
そして最後にβについてだが、これに関しては説明することがない。「普通」の人がβなのだ。αやΩではない人。「運命」なんてものの外側にいる性がβである。Ωの強烈なフェロモンも感じにくく、αのような天才性もない。
大多数の人たちがβである。だからβであるからと言って卑下することはない。だいたいの人が、中学生の時にする検査で自分は特別なんじゃないかとドキドキしながら結果を待ち、最終的にβでしたと明かされて肩透かしをくらったような気分になりながら少し安堵する。厳しい発情期のあるΩでなくてよかった。周りからの期待が重いαではなくて安心した。そんなふうに。
だからぺいんとも、βであることをとくに悪いことだとは思っていなかった。誇ることもないが、いずれ好きな人と普通に惹かれあって、普通に結ばれて、理性的な恋愛をするのだろうと思っていたのだ。だって「運命」なんて自分にはいないのだから。
だけど違った。
自分に「運命」がいなくても、好きな人に「運命」がいることだって、あるのだから。
「絶対、らっだぁはαだよな……」
その呟きに、死神は眉間に皺を作った。ビックバンバーガーのコーラのMサイズをずずっと啜る音がする。ちらりと周りを見渡してから、「その話、ここでするんですか?」と小さな声で確認してくる。ぺいんとは力なく首を横に振ってみせた。
「いや、思わずこぼれた。ごめん」
「気をつけてくださいよ。他人のバース性の話なんて、昼間から話す内容じゃないですし……」
「だよな。それこそ、マナー違反だ……」
バース性の話はセンシティブな問題を孕んでいる。だから基本的に、他人のバース性について尋ねることはご法度だ。探ることもマナー違反だと言われている。そんなことをしなくても、大多数がβなので、探らなくてもだいたいβだと予想がつくのでほとんど探る意味がないのだが、それでも、探られたくないΩがいるのだろうことはわかる。倫理的なマナー。法律で縛られてはいないが、他人が嫌がることはしてはいけません。そういうものだった。
「…………気になったら、どうしようもなくて。わかっても、どうしようもない話なんだけどな」ため息混じりに弱音じみた気持ちを吐露する。死神はかわいそうな子どもを見るような目で見てきて、小さく「あのですね」と呼びかけてきた。
「ぺいんとさん、なんでよりにもよってあの人なんですか?もっといい人いるでしょ…男女諸共モテるのにもったいないですね」
その質問に対する答えは、ぺいんともよくわからない。
ぺいんとはらっだぁが好きだった。いつからかは正直わからない。だけど高校二年生の時に出会い、投稿活動とプライベート、それからスランプといった一連の騒動が片付いた頃には既に恋に落ちていた。そうして夢のように消えてしまった三学期を過ごし、紆余曲折を経て今に至るわけだが、らっだぁといい雰囲気になるのは意外と早くに訪れて、逃したくないという気持ちから、セックスをしてしまい、そのままずるずるとよくわからない関係になってしまった。
もしかするとらっだぁはぺいんとの思いに気づいていたのかもしれない。だから、手を出してきた。文句を言わない性欲処理の相手にするために。つまりはセフレというやつだ。セックスをするフレンド。友情なんてもの、一欠片もない気がするのに馬鹿だなあと思う。らっだぁも、俺も。
「好きだから……。理由とか、他にない」
掠れた声で答える。死神が「好きなら、余計に苦しいですよね?」と正論を言ってきた。この親友にはすべてを包み隠さず話していたので当然の言葉だ。だけど、そんな正論をわかった上で抱かれているのだ。理屈ではない。
ちっとも理性的な恋なんて、できていなかった。
「あー……僕が言うことじゃないけど、そんな気になるならもう本人に聞いちゃえばいいじゃないですか?」
「いや、いい……。だって聞かなくてもわかるだろ?」
「まあ、否定はしないですけど」
帰りの新幹線までの時間潰し。朝早くの微妙な空き時間に付き合ってくれる死神はいい奴だ。そんな奴に、こんなマナー違反ギリギリの話をさせること自体が忍びなかった。反省する。やめよう。ぺいんとは「ごめん」と再び謝る。死神はわかってますと言うように苦笑した。
「いいですって。話くらいならいくらでも聞きますし。あ、でも、場所は選んでくださいね」
死神の後ろにある窓からは、早朝の清潔感の漂う日の光が差し込んでいる。眩しくて目を細めてしまった。
「うん。今度は死神の家にでも行った時にする」
「はい。その時はクロノアさんばりの聞き役になってあげますよ!」
「うーん、死神、自分で自分のハードル上げたな?」
「いや、たしかにクロノアさん級は言い過ぎだかもしれないですけど、貴方聞いてもらう側のくせにそれ言っちゃう?」
「贔屓とかしないタイプだから」
「さすが数々の女子の猛アタックにも屈せず平等にフッてきた魔性の男ですね」
「そんな魔性の男にも落とせないやつがいるけど」
「自虐ネタやめてください、反応に困るでしょ」
結局、振り出しに戻った話題に、いかに自分がそれを気にしているかわかった気がした。
「次こっちに来るまでには頭冷やすよ」
嘘くさい言葉だ。自分でもそう思う。死神も同じように感じたのか、呆れたようにため息をつかれた。
「趣味悪いですよね、ぺいんとさん」
反論できなかった。たしかに、付き合ってない人間に、「Ωじゃないから」なんて理由で手を出してくるような男は、そんなに性格が良くないとは思う。
だけど、手遅れなくらい好きだった。