金沢市片町は、東京都や大阪市、札幌のすすきのとは比べ物にならない小規模な繁華街だ。
朝はサラリーマンが生真面目な表情で勤務先へと急ぎ、昼の時間帯は品の良いご婦人やご高齢の方々が地元有名百貨店で買い物を楽しむ。
夕方になれば中学生や高校生が街に繰り出してゲームセンターやマクドナルドハンバーガーで戯けて笑うといった至って健全な街だ。
主だった観光地である金沢城や兼六園、21世紀美術館のすぐ隣にある為、外国人観光客の姿も多く見られる。
暮れなずむ街。金沢城にカラスの群れが帰り始めると車道には車の白いヘッドライトが点る。赤いテールランプ。満員のバスが昼間の景色を郊外へ連れ去りその雰囲気は一変する。
勤務を終えた会社員や大学生で溢れかえる居酒屋では乾杯が繰り返され実に賑やかしい。やがて暖簾が片付けられ閉店の時間を迎えると、バス停に並ぶ人の姿は無く、金沢駅のホームに北陸新幹線最終列車のアナウンスが流れると、大通りには空車のタクシーが列を成す。
すっかり酔いが回った片町スクランブル交差点の四つ角では、黒いスーツを着た男性が客引きを始め、脱色した髪を鼻先まで垂らした軽薄そうな男たちが下品な話題で盛り上がり、街灯の下で悪酔いをして嘔吐するオフィスレディをからかい乍ら下衆に笑う。
また、時計が午前0時を過ぎるとホテルのエントランスに黒いミニバンが横付けされ、ごくごく普通の装いで幼い面立ちの女性が手に籠を持ち、次のホテルへと向かう。
やがて白白と朝が明け、店の前に出されたゴミ袋をカラスたちが突く。始発のバスが動き出し、沿道からタクシーの行列が消える。
それが金沢市片町。
大野和恵が経営していた大野牧場に、五年から六年前、突然現れた遠縁の少女、氏名年齢不詳、住民基本台帳に記載なし、無免許、現在分かっている事は芽来という名前だけだ。
身元が判明すれば任意同行も可能だが、芽来の消息は不明。彼女の画像が一枚も無いので聞き込みは難航した。唯一、ガールズバーの集合写真で後ろ姿を確認する事は出来たが、それ以来、この店に顔を出す事は無かった。
「芽来ちゃん?ここのスタッフじゃ無いよ」
「たまたま居ただけだよね」
「うん」
『何処の店で働いているか分かる?』
「えーーーーー、あの子、天然っていうか」
「不思議ちゃんだよね」
『不思議ちゃん?』
「なんか良く分かんない」
「この辺りはフラッと現れるって感じ」
「どこ住みかも知らなーーーい」
「彼氏がいるとか聞いたけど」
『彼?』
「うん。名前は知んない、金持ってるって」
「だよね。いつも新しいドレス着てるよね」
『ドレス?』
「ゴシックロリータ、おじさん、知ってる?」
「知らないんだ、調べなよ」
「調書、調書ーーーーー!」
調書も何も、目の前で話している相手とは言葉が通じているのか居ないのか、酔いどればかりで的を得ない。似顔絵を描いてもらったが女性の化粧は七変化、芽来の印象は会うたびに違うと言った。ただ、交際相手がいる事は大きな前進だった。
「うーーーーーーーん」
源次郎に肩を揉まれながら井浦は腕を組むと渋い顔をした。渋い顔をしたが、その指先が肩甲骨と鎖骨あたりをキュと押すと、微妙な笑みを浮かべた。
「井浦、あんたその顔、気持ち悪いからやめな」
「ウルセェ、チワワ黙ってろ」
「井浦さん、気持ちいいですか?」
「あ、あ、最高だ」
「きっも!きも!」
リビングテーブルの上には片町での聞き取り調査結果が書き記されたA5版の白いコピー用紙があった。
「ふーーーん、芽来ちゃんってイタチね」
「どういう意味だ」
「イタチごっこ」
「スルスルっと」
「うるせえブワーーーーーカ」
「イタチって白いと可愛いよね」
「あいつら茶色じゃねぇか」
「知らないの!?夏と冬じゃ色が違うのよ!」
「そうかよ!」
「そうなの!」
「あ」
「なんだしまじろー」
「源氏名」
「は?」
「水商売なら本名ではなく源氏名を使います、よね」
「源氏名、偽名か」
「偽名というよりお仕事の時のお名前ですけれど」
「なーーる、名前を変えてるかもね!」
と、ここで急に佐々木咲がつつつつと源次郎に寄り添い、頭を肩に乗せて甘える素振りを見せた。それを見た井浦は手で佐々木咲をしっしっと追い払ったが、逆に払い除けられてしまい不満げな顔で源次郎から離れた。
「なにやってんだ、テメェ」
「咲さんの名前は(美希ちゃん)でしたね」
「うん♡」
「美希ちゃん」
「源次郎」
「なんだそれ」
「僕たち、片町のガールズバーで知り合ったんです」
「初耳だぞ」
「聞かれていませんから」
「チワワもガールズバーって歳じゃねぇだろ!」
「片町は夢と希望の街なんですーーーう」
「クソっ!」
「あんたが片町なんてガサ入れの時くらいでしょ!かっわいそー!出会いが無くてかっわいそー!」
「俺は事故現場で出会いはあったわ!」
「誰と」
「こいつだ!」
源次郎の左手の薬指には輝く二本のエンゲージリング。今夜も人気者の源次郎であった。
源次郎が思いついた芽来の 源氏名 説はなかなか鋭かったが、確かな面差しが分からない事にはお手上げ状態だった。芽来の後ろ姿が写り込んだ集合写真を撮影したガールズバー常連客の証言に基づいてモンタージュを作成し、刑事たちはそれを手に片町の飲食、風俗店で片っ端から聞き込みを行ったが該当者は見つからなかった。
イタチごっこどころかその輪郭すら掴めない、そんな時、井浦はある場所に呼び出された。
検死台の上には見覚えのある、蓮根畑からニョッキリと脚を生やした男が大の字で横たわり、その傍らに置かれたホワイトボードには数枚の写真、断面図、ホワイトボードマーカーで大きく赤い丸と黒い矢印が描き込まれていた。
白いヘアキャップと忌々しい色合いのエプロンと手袋、マスクをしていてもその臭気が鼻腔に吸い込まれそうで井浦は額を壁に擦り付けた。
「井浦警部補、ご覧にならなくて宜しいのですか」
「宜しいんだよ」
「はぁ」
「お前がジーーーーーーーーっくり見れば問題ない」
「はぁ」
井浦の顔は真っ青で、眉間には深い皺が刻まれている。耳の中が水の中にいるようにボワボワと居心地が悪い。蓮根畑男や大野和恵もこんな状態だったのだろうかと考えていると、「今からこの写真の説明がありますから」と、気分が悪そうな井浦に気を遣った巡査長がその手に数枚の写真を手渡した。井浦は霞む目でその写真を見た。
「このご遺体の陰茎から下腹部に付けられた殺傷痕は、下から斜め上に向かって付けられた傷と断定されました」
「斜め上とは?」
「肉の抉れ方や刃先の形状から見て、傷は床面から斜め45度の角度で上に向かって付けられています。真上や真横からの刺し傷、切り傷とは角度がやや異なります」
「真上」
「床などに寝かせた状態で、真上から刺す、切り付ける」
「真横」
「立ち上がった状態で、刺す、切り付ける」
井浦が壁に頭を付けながら右手を挙げた。
「先生や」
「はい」
「新興宗教の儀式かなんかで、意図的に斜め下から刺したとかそんな感じじゃねぇのか」
「その可能性も考えられますが、そうとも言い切れません」
「そりゃそうだ」
「どの刺し傷もその殆どが同じ角度で付けられています」
「傷は結構深いのか」
「それ程深くはありません」
「そうか」
「ちょっと、俺、用事思い出したから行くわ」
「け、警部補」
「後は先生に聞いとけ」
「良いんですか」
「良い・・・・・・んっぷ!」
屍蝋化死体と目が合った(ような気がした)井浦は激しい吐き気に襲われて思わずしゃがみ込んでしまった。マスクとエプロンを剥ぎ取りゴミ箱に勢いよく捨て革靴の音を鳴らして逃げるように立ち去ろうとする井浦に巡査長が声を掛けた。
「警部補!頭!頭!」
指摘されて気が付き、白いヘアキャップを掴むと蛍光灯の明かりが映るビニールの廊下に叩きつけた。グレージュの髪はボサボサに逆立っていた。
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