テラーノベル
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図書館は、薄い霧でもかかっているかのように静かだった。
その一角を占領するようにノートを広げた僕は、かれこれ数十分、ペンを握ったままでいる。
原詩の儚げな雰囲気を保ったまま、どう訳するか。
そう考えれば考えるほど、頭に浮かぶのは先日の翻訳会のことばかり。
そもそも日本語でもない文章を日本語でもない言語に訳せと言うのが、無茶な話なのだ。
深く息を吐き、ぺしゃりと机に体を預ける。
「よっ、日本。」
軽快な声が鼓膜を揺さぶった。
びくりと肩が震える。
「あ、アメリカさん……。」
「何してんだ?」
人懐っこい笑みが、荒んだ心にはひどく眩しい。
「課題です。詩の英訳で……提出自体は随分先なんですが……。」
「へぇ……ここから進んでねぇわけか?」
「はい。何か、日本語でも訳しきれなくて。」
たとえ名が風前に散ろうとも私は諦めない、と流れるような英語の呟き。
アメリカさんは目を細めながらページを捲っている。
そういえばイギリスさんも資料を読む時似たような癖があったなぁ、なんて。
遠い記憶を思い出した。
「ふふんっ……ネイティブの俺が助けてやろう!」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、スラスラと何やら英文が生成された。
迷いない手が紡いだ一節を読んでみる。
「……『Even if my name blows away with the wind, I’ll still stand tall』?」
「何かいいだろ?『stand tall』!」
『諦めない』が『立ち向かう』になるのが、なんだか彼らしい。
そんなことを思っていると、アメリカさんがおすすめだという詩関係の本を持ってきてくれた。
「あれっ…アメリカさん、詩の本なんて読まれるんですか?」
「……まぁ、たまたま?」
頬をかくと、彼はこの本確か英訳についてのやつだぜ、何冊かで小さな山を作ってくれる。
「わぁ……ありがとうございます!」
「いいっていいって。じゃ、俺行くわ。」
***
「ん゛〜〜………。」
改めて、彼との体格差を思い知らされている。
アメリカさんの持ってきてくれた本が、しまおうにも届かないのだ。
周りに司書さんの影も脚立の影もないので、仕方がなく本同士の隙間を目掛けて跳躍を続ける。
もうちょっとつま先で立ってみよう、と踵を高く持ち上げた時、手首に何か温もりを感じた。
「………転ぶぞ、お前。」
そんな低い声と共に、大きな手が腰に回される。
手からするりと本が抜け、本棚のくぼみにすぽりと収まる。
「ありがとうございます。」
振り返ると、胸板に顔が埋まってしまった。
「………。」
ぷるぷると何かを堪えるように、筋肉質な体が震える。
恐る恐る顔を挙げると、端正な唇がきゅっと真一文字に抑えられていた。
「………あ、…あの………。」
「気にすんな。悪ぃ、ちょっと笑わせてくれ。」
ふっ、と感情の一端を逃すように彼が笑う。
波が収まったのか、若干唇の端を震わせながら口が開かれた。
「法学部のロシアだ。……お前、何でぴょんぴょんやってたんだ?」
「……本を取ってくれた友人が、行ってしまって…僕じゃ届かなくて……。」
かなり高い位置にある頭を見上げながらそう言うと、ロシアさんはビードロのような瞳をきゅっと細めた。
ひとしきり笑い終えて思い出したのか、ようやく身を離される。
「お前、名前は?」
「日本です。……あ、国際人文です。」
「あぁ……あの変な教授の?」
納得したようにロシアさんが声を漏らす。
噂の割に怖くも変でもなかったが。
「……あっ。変で思い出した。……ここ、アホそうなサングラスの馬鹿が来なかったか?」
「……『アホそうな馬鹿』……?」
あまりの言われように衝撃を受けたが、僕の知人にサングラスは1人しかいない。
「えっと、アメリカさんですか?」
うん、と端正な顔が軽く沈む。
あいつ俺の辞書借りパクしてやがると呟く姿が、フランスさんについて話すイギリスさんと重なって見えた。
「もう逃げやがったってことか。」
「……別に逃げたわけではなさそうですが…。」
「そのお前の肩くらいにある本、面白かった。……アホリカのおすすめ読んだなら、俺のおすすめも読め。」
脚立はあっちだ、と残して足音が遠ざかっていく。
僕は小首を傾げながら、指を差された本を引き抜いた。
(続く)
コメント
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ロシアさんがぴょんぴょんって表現使ってるの可愛い…! 最近ずっとにわかさんの小説を読んでます!話の流れが伝わりやすいし、表現の仕方とか雰囲気とかもめっちゃ好きです!