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喫茶 桜の空気は
夕暮れと共に
落ち着きを取り戻していた。
最後の客が席を立ち
店内に残るのはスタッフと
硝子張りの特設席で
紅茶を飲むアリアだけとなっていた。
照明がほんのりと落とされ
テーブルのキャンドルの火が揺れる。
そんな静寂の中
ソーレンは
洗ったカップを拭く手を
ふと止めた。
その視線の先——
特設席に腰掛けるアリア。
誰も声をかけない空間の中
彼女は一人
静かに紅茶を口に運んでいる。
その白い指先
その長い睫毛の陰
その瞳に映る炎の揺らめき。
ソーレンの瞳が
ほんの僅かに揺れた。
無意識に
いや⋯⋯
まるで引き寄せられるように。
彼の琥珀色の瞳は
アリアの横顔に留まったままだった。
静謐に染まるその瞳は
まるで祈るように穏やかで
それでいて——
どこか懐かしさに満ちていた。
(⋯⋯前にも、こんなふうに
見ていた気がするな)
思い出そうとしても
頭に霞がかかる。
けれど
確かに胸が軋むように疼いた。
言葉にもできない
形にもならない〝何か〟が
胸の奥で燻っていた。
そんなソーレンを
レイチェルは黙って見つめていた。
カウンター越しに
黙々とグラスを磨いていたはずの彼が
ふと立ち止まり
アリアを見つめていることに
気付いてしまったのだ。
それは
いつものソーレンとは違っていた。
冷めた目でもなく
苛立ちを纏った表情でもない。
「⋯⋯⋯アリア〝様〟⋯」
潰えるように微かなその声に
レイチェルの目が見開かれる。
その声は
ただひたすらに 穏やかで
そして——あまりに優しかった。
(⋯⋯もしかして⋯⋯)
レイチェルの胸が
きゅ、と小さく痛んだ。
(⋯⋯前世の記憶が⋯出てきてる?)
口にしたくなかった言葉が
心の奥に落ちていく。
ふと、思い切って近寄り声をかける。
「⋯⋯ソーレン?」
その声に、彼は一瞬
びくりと肩を揺らした。
「⋯⋯あ、ああ⋯⋯なんだよ?」
目を瞬かせ
レイチェルの方を見た
ソーレンの目には
先程までの気配はもうなかった。
記憶のどこかに置いてきたまま
彼はいつもの不器用な顔に戻っていた。
「⋯⋯さっき
アリアさん見てたでしょ?」
「は?あんな仏頂面を?
見てても面白くねぇだろ」
ソーレンは
眉をひそめて首を傾げた。
本当に覚えていないようだった。
レイチェルは少しだけ目を伏せて
カウンター上に並べられた
拭かれたグラスをしまい始める。
(⋯⋯多分
本人も気付いてないんだ。
前世の想いが⋯⋯
無意識に引っ張ってるんだわ)
胸が⋯⋯軋んで苦しい。
(前世の記憶のせいで⋯⋯
想っても無い感情に振り回されるなんて
辛いよね⋯⋯)
不意に
彼の視線の先に
自分が映ってほしいと思ってしまった。
アリアではなく
自分を見てほしいと
初めて強く思った。
「ねぇ、ソーレン
今度の休み⋯どっか一緒に行かない?」
少しだけ震える声で
勇気を振り絞って
レイチェルはそう言った。
「⋯⋯は?なんだよ、急に」
「いいじゃない、たまにはさ!
スタッフ同士の、親睦ってことで」
そう笑うレイチェルの瞳に
淡く
けれど確かに揺れる光が宿っていた。
それは
まだ〝恋〟と呼ぶには頼りない
けれど確かな想いの欠片だった。
気付かぬまま
それでも——
ソーレンの頬が
ほんの少しだけ赤く染まった。
「⋯⋯別にいいが
お前⋯⋯俺となんか出掛けて
楽しいのかよ?」
グラスをぎこちなく拭きながら
ソーレンがぼそりと呟く。
視線は
レイチェルに向いているものの
どこか居心地悪そうに
頭を掻く仕草が
不器用な彼らしかった。
レイチェルは、くすりと笑った。
「そんなの
出掛けてみなきゃ
わからないじゃない!」
明るく言い切る彼女の笑顔に
ソーレンは一瞬だけ目を細める。
レイチェルの
その〝前向きさ〟が
苦手でもあり——
けれど、少し羨ましくもあった。
「⋯⋯ったく。
そういうとこだよ、お前は」
ソーレンは肩を竦めて
再びグラスを拭く手を動かす。
しかしその動作には
さっきまでの無言とは違う
どこか柔らかな空気があった。
「で?
ソーレンは普段
遊ぶとしたら何するの?」
「遊ぶっつーか⋯⋯
ぶらっと、服を買いに行くとか
夜に飲みに行くか⋯⋯だな」
「ふーん?なら、映画行かない?」
レイチェルは一歩
カウンターに身を乗り出した。
その声は
思ったよりも軽やかで
期待を込めた響きが混じっていた。
「気になってるのあったんだけど⋯⋯
一人で行きにくくて」
「女って⋯⋯
一人で行けねぇとこ、多いよな?
此処で働いてると、よくそう思うわ」
ソーレンは
グラスを拭く手を止めずに言ったが
その目は少しだけ
レイチェルの方へ向いた。
何気ない一言だったが
彼なりに気遣っているようでもあった。
「で?何の映画だよ?」
「めーーーーっちゃ!
怖そうなホラー映画よ!」
レイチェルはスマホを取り出し
画面を彼の前に突き出す。
そこには
今公開中のホラー映画の広告。
暗闇に浮かび上がる
血まみれのドールの瞳
背筋を這うようなコピー文。
「⋯⋯確かに。一人は嫌だな、これ」
ソーレンは眉を顰めたまま
画面をじっと見つめた。
その視線の奥に
微かに震えるような
表情を浮かべたのを
レイチェルは見逃さなかった。
「⋯⋯ったく、しゃあねぇな」
ソーレンはグラスを布で包んだまま
ようやく口元に笑みを浮かべた。
「行ってやるよ。予約しとけよ?」
その一言に、レイチェルの胸が跳ねた。
(⋯⋯あ。今、ちゃんと約束できた)
言葉の端に滲んだ
彼なりの〝優しさ〟が
ふと心に染み込んでくる。
「うんっ、絶対よ!
ドタキャン禁止なんだから!」
「わぁってるよ、うるせぇな」
そう言いながらも
ソーレンの声はどこか穏やかだった。
それは
アリアを見る時とはまた違う
彼自身の〝今〟が
ほんの少し顔を覗かせた瞬間だった。
レイチェルは
何気ないこのやり取りの中に
自分だけの意味を見出していた。
アリアでも
前世でもない——
〝今のソーレン〟と向き合える時間。
それを手に入れたような
ちょっとだけ誇らしい気持ちだった。