コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
太陽と月みたいに恋をした。待てども追えども重ならず、夢の中にぼやけた輪郭をなぞるだけ。想いを馳せるのが精一杯で、生まれてから何も生み出していないこの手からは、当然のように、触れる程の気概は生まれない。烏が飛び立つ空に溜息をひとつ、醜い兎は恋を手放した。
春を惜しむ事も無く、浅い夏が道に染み渡る。散歩が日課になった日から、世界は変わらず変わるのに、私は変われないままで、花冷えには遅すぎる冷たさが私を覆う。表面は暖かくて、内側は凍えている。汗が頬を伝う度、震える身体は心地悪さを残して消える。揮発性の高さは痛みの余白で、フェルマーも文章を区切りつつ、驚くべき発見を書き終える程も長く、波を作った。街路樹を優しく撫でるそよ風が、責めるように私の肌には痛く、またも不快な震えが私を抱く。
身体の調子に引かれてか、心も徐々に沈んできた。鯉が滝を越えた後、龍になったというのは李膺だったか。現実は滝を越えることすら許さなかった。こうやって陰翳を塗り重ね、終わったものと知りながら、何度も反芻する。
暗い過去は明るい未来に繋がっていると、どこかで聞いたことがある。それは逆も然りだと。ではあの恋は、あの、私の中で燦然と輝いている時間は、やはり今のこの気持ちに証明されたのだろうか。
狭い部屋の中を何周もする内に、いつもの公園に着いた。いつも通り人は居ない。一番近い電柱には隣町の住所が書いてある。表示板から上に追えば、もう点かなくなった街灯。同じくらい約立たずのくせに私を見下して嗤う。そんないつものことがどうしようもなく哀しく思えて、「いつものこと」じゃなくなったのだと思い出す。
身体に染み付く春の残り香も薄れてきた、五月のこと。
若い夏はその若さのせいか街に世界に、活気を与える。それはそれは眩しくて、煌びやか、あと憎たらしい。偶然この季節なだけで意味を持たないその勢いは、例によって私を飲み込んで、右も左も見失わせる。アスファルトの反射熱で日本とフィンランドのコラボサウナのように暑い。
ぽつり、ぽつりと夏の雨は降り始める。小粒は大粒になり、一粒の後は三粒、と増えて、増えて、増えて。瞬きの間に豪雨に変わった。この胸にどうやってかしがみつく僅かな哀しみも一緒に洗い流そうと、私は雨に打たれながら踊る。指先にまで意識を行き渡らせて、思うままに身体を使う。雨に屈したグラジオラスに笑いかけて、冷えきったアスファルトの上で歌った。大きめのTシャツが肌にぺったりとくっついて気持ち悪い。それすら楽しく思えた。
どれくらいそうしていただろうか。雨足も遠のき、それに気付いた時には初老の男性が離れたところから訝しがっていた。このままじゃ通報される、と早歩きで立ち去らざるを得なかった。恥ずかしい。
薄く広がる雲に晴れ間が顔を出すのを見上げながら、ここまで来れば、と立ち止まる。何故あんなことをしたのか分からないが、やっぱり笑えてきた。この高揚は夏のせいにしたくなくて、理由を探す。道の上で眠る乾燥ミミズはきっと知らない。それどころか、この世界で私以外に知るはずもない。私自身もよく分からないのだから。
若い夏がその若すぎる寿命を終えた八月。
木々が粧う通りをぬけて、そろそろ枯れるな、なんて歪んだ考えが浮かぶ。私はもうすぐ死ぬのかもしれない。その証拠に鼓動は一年前より遅くて弱くて、血が巡っている身体が端から冷たくなるのだ。残暑では私を温めるには力不足だった。なんとなく勝ち誇れる気がして、冷たい身体は内側から温まる。そのままいつもの公園まで、重力は無いらしかった。
上がりきったテンションは下がらずに、ふとした瞬間に消えるものだ。今回は公園に着いた時だった。相変わらず誰も居ない公園を見て、なんだか怒りが込み上げてきた。私はこれだけ嬉しいのに、何故誰も居ないのか。世界の中心を勝手に自称して勝手に不貞腐れる私を無視して、世界は今日も構築される。五分前にあったかすら定かじゃない。乱数表で指名されて、フローチャートを組まれ、コマンドを自分の意思と勘違いしながら生きることに、意味は無いだろう。死にたい。
浮かんでは沈んで、不安定な心を、私はどうすれば良い。深く沈む心に刺さるように、どこからかするススキの香りは、すぐに醤油の香りに塗り潰された。美味しそう。次は石焼き芋。肌寒いこの時期に、あんなに美味しそうな匂いを漂わせるのは反則だ。芋の皮が少し焦げて、小学校の実験を思い出す匂い。誰かと分け合って、熱いね、なんて言って笑う匂い。私には居ないけれど。
すがれ虫に自分を重ねた十一月。
銀箔が舞い落ちる雪明りに頬を紅く染めて、白い吐息に見惚れる。隣を歩いてくれる人は今年も居ないが、新雪に足を取られるのも悪くない気分だ。以前誰かが、束縛が激しい人は一緒に居て辛いと言っているのを聞いたが、辛くないどころか、むしろ嬉しい。嘘つき。誰にも聞いてもらえない声で呟く。ここには言葉をぶつける相手も居ない。いや、そういえば、初めからそんな相手は居なかった。
六花にはひとつとして同じ形は無いそうだが、その孤独は私よりも小さいに違いない。結局、落ちたら仲間と手を繋げるのだ。私は落ちても登っても一人。なんて言うのは、少し気取りすぎか。自分の咳を聞いて笑えるほど、私は悟っていない。悟る気も無い。
ざくざくと雪を踏み下ろす音は段々楽しく聞こえる。身体の凍える身体を動かして、そのリズムに言葉を乗せてみる。デビューするなら自社レーベルを立ち上げよう。今まで考えたことも無かった道に、胸が弾む。弾む程は無いが。とにかく新しく夢ができた。雪も町も歓迎しているように見える。 歩いていると、身体は温まった。
身体の内側に一本、芯があることを、油断したら凍りつく寒さで自覚する。この町の雪景色は、白いクレヨンで描いたみたくまばらに土とアスファルトの色が見えて、一貫性が無い。まるで私自身。「死にたい」と「生きたい」は類似形なのに、たまに「生きていたくない」し、それをまた、「死にたい」に込める。虚しい。
―パラパラとページをめくるが、そこからも似たような言葉を繰り返し綴っている。「日記」と銘打って始めたわりに、日付は無く、主観と客観が混じり、例えはどれもひねくれていて、最初の詩も含めてうざい。それで読んでいると、ついつい笑ってしまうのも。こんなにも身近に感じられる「彼女」はいったい、いつ死んだのだろうか。
目が覚めて、つり目の女医が語ったのは、私の病気についてだった。どうやら記憶障害を伴うものらしい。心底どうでもよかった。それよりも私には、覚醒時から頭に浮かび続ける感情を定義付けることの方がよっぽど重大だ。
後ろ姿と、なんとなくの香り。私じゃない誰かに語りかける、優しい声。一つ浮かべばまた一つ、いくらでも出てくるシャボン玉に、私の感情はいちいち反応する。閾値はめっぽう低く、医師の言葉にも、知らない人との二、三回の会話を思い出した。
気にはなる。気にはなるが、その人をきっと思い出すことは無いだろう。それは「彼女」の記憶で、私には何の関係も無いのだ。知りたがるのは野暮だ。そうやって自分を納得させるが、この時点で感情には名前をつけてしまっている。これは「恋」だ。
私は、記憶を失っても未だ、叶わないと知りながら、ぼやけた輪郭しか捉えられないその人を無性に慕っている。横恋慕と揶揄されようが、あるいは「彼女」と同じだからと許されようが、私は私だ。誰にも、「彼女」にも渡さない。この「恋」は終わらない。勝手に終わらせない。そう決めたのだ。