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「部長の奥さんの代理って、もしかしてバレちゃった感じ?」
支店にいる愛人の口調は、困った感じよりも、どこか他人事のような様子だった。
「はい。津久野部長と不倫をしている証拠があがりまして、それで」
「悪いけど口頭でいろいろ言われても、私バカだから覚えられないんだよね。スマホの番号がわかってるってことは、私の住所だってわかってるってことでしょ?」
聞いてるだけで、こちらがたじろぐような物言いに変わり、岡本さんは無言のまま、目の前にいる私に視線を飛ばす。助けてあげたかったけれど、私自身も支店にいる愛人の態度にキョドってしまった。
「ねぇわかってんの、わかってないの、どっち?」
「わかってますが……」
やっとひとこと告げた岡本さんに、支店にいる愛人は小さな舌打ちをしてから。
「だったら、慰謝料を請求する書類みたいなのを送って。ちゃんと払うし、部長とは別れるから。お願いしまーす! それじゃ」
「遠藤さんちょっと待って、切る前に聞かせて」
岡本さんが慌ててスマホに話しかけた。彼女が夫と別れると宣言したので、私が頼んだ伝言を言う必要はない。いったい、なにを訊ねようとしているのだろう?
「なんなの、もう。お昼休みは永遠じゃないのに」
「津久野さんの奥様には、悪いとは思わないの?」
岡本さんは静かに訊ねたあと、恐るおそるといった感じで私を見つめた。これ以上、彼女との無謀なやり取りをしなくてもいいのにと思いつつ、私は首をもたげる。
「確かに部長とそういう関係になっちゃったのは、いけないことだし悪いと思ってる。だけどね、いきなり私を襲って、そういう関係に無理やりもちこんだ部長のほうが、もっと悪いんだから」
「えっ?」
信じられない事実に私だけじゃなく、岡本さんと斎藤さんも固まった。
「部署の飲み会で、隣にいる私を酔いつぶしちゃったからって、自宅まで送ってくれたのはよかったのに、自宅に勝手にあがり込んで私を襲い、『俺を誘っておいて今さらなんだよ』みたいなことを言って、関係を強要されたの。まぁ体の相性がよかったから、言われるままに不倫したのは事実だし、部長が転勤したからもう私は用済みなのかと思ったら、この間いきなりやって来るしで、ビックリしたんだから」
夫がやらかした事実に、両手を口元に押しつけて、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
「そうだったんですね。詳しい事情を知りませんでしたので、なんと言っていいのか」
「慰謝料の額のこともあるし、部長の奥さんにはそこんとこ、うまく伝えておいてほしいわ。よろしくね!」
慰謝料を払う側とは思えない、やけに明るい口調で言い放ち、プツリと通話が切られてしまった。
「彼女の言ったこと、本当なのかな……」
岡本さんは、疑問に思ったことを口にした。それに対して、私は首を横に振る。
「どっちにしろ夫は私以外の人と、関係を持った事実には変わりありません」
印刷された事実と耳で聞いた事実に、怒りと悲しみで体の震えが止まらない。
支店にいる愛人の横柄な態度に、私と斎藤さんが複雑な心境に陥っていると、岡本さんは怒気を含んだ声で告げる。
「許せない……」
私の代わりに告げてくれたことに感謝したかったものの、そこまでの余裕はまったくなかった。
「奥様、これからどうしますか? 遠藤さんに慰謝料を請求する書類など、これから作らなければならないですが」
(――そうか。これからのことを考えなきゃいけないんだわ)
「慰謝料を請求する気になんてなれません。すべては夫がしでかしたことで、本来ならこちらに非があるんですから、支払わなければいけないじゃないですか」
どうでもいいことじゃないのはわかっているのに、諦めに似た感じで返事をしてしまった。
「私には請求してください! 私は襲われたとかじゃなく、部長の誘いにまんまと乗ってしまったんです」
「でも――」
斎藤さんが必死な様相で告げても、それすらどうでもよくて、瞼を伏せて目の前の視線から逃げた。それでもめげずに、斎藤さんは私に語りかける。
「こんなことで、奥様の心のキズが埋まるわけじゃないことくらいわかってます。いつかはこんな関係、やめなきゃって思っていたのに、それでも続けていたのは私の罪です」
自暴自棄になっている私に、説得するように喋った斎藤さん。そして岡本さんは、さきほどよりも怒りを込めて、低い声で告げる。
「……だったら一番罪深い人に、なにか罰を与えないといけないよね」
「絵里?」
心を揺さぶる不穏なセリフがキッカケで、重たい瞼を開いて目の前を見つめたら、斎藤さんが心配そうな面持ちで、岡本さんの手を握りしめていた。
「だって一番悪いのは奥様がいるのに、ほかの女性にモーションをかけて落とし、騙しながら付き合う津久野さんじゃない」
「ごめんね、絵里。そんな部長を好きになった私だって、充分に悪い女だよ」
今にも泣き出しそうな顔で岡本さんを見つめる斎藤さんが、掴んでいる手の甲を優しく撫で擦る。それはまるで、岡本さんの中にある怒りを鎮めるように見えたのは、気のせいなんかじゃない。
「あーもう! 津久野さんを縛りあげて、鞭打ちの刑に処したい気分!」
なんとも言えない、悔しさが滲んだ言葉を聞いて、脳内でその様子を妄想した。鉄筋の大きな柱に、太縄でキツく締めあげた輝明さんに向かって、私が怒りに身を任せながら、鞭を打っている姿――。
「それ、いい考えですね……」
「やっあの、これはそんなことできたら、スカッとするかなぁと思っただけでして、けしてご主人を傷つけるわけにはいかないというか」
慌てふためいて否定した岡本さんに、私はにっこりほほ笑んで告げる。
「あの人に慰謝料を払ってもらったところで、正直なところ、虚しさが残るだけだと思うんです。私はなんだったのかなって」
怒りや悲しみ、空しさが手伝って、笑っているのに泣き出したくて堪らなくなる。
「輝明さんをどこかに縛りあげて、もうやめてくれって言うくらいの苦痛を与えてやりたいわ」
「私、それに協力します!」
斎藤さんが躊躇なく右手をあげて、名乗りをあげた。
「ちょっ、ハナ!?」
「奥様の手を汚さずに、私をうまく使ってください」
信じられないことを言い放った斎藤さんに、岡本さんは目を見開き、説得するように語りかける。
「ハナ、自分がなにを言ってるのかわかってるの? 下手したら、警察に捕まるかもしれないんだよ」
「いいよ、それでも。私が全部罪を被る」
愛人である斎藤さんが、そんなことを言うとは思わなかった。茫然としている私を尻目に、ふたりの言い合いが続く。
「罪を全部被るって、みずからそんなことをしてまで、津久野さんに一矢報いることをしても、ハナひとりが痛手を負うだけじゃない」
「そんなのかまわない。それに私自身も部長にいいように騙されていたことが、悔しくてならないんだよ」
斎藤さんは、切なげなまなざしを岡本さんに向けてから、目の前にいる私にも注ぐ。決意が固まっているその様子に、息をのんでしまった。
「暴走するハナを知っているからね。これをひとりでやらせるわけにはいかないよなぁ」
熱心に説得していたのに、なぜか小さく笑った岡本さんは、後頭部で腕を組み、のけぞるように椅子に座って見せる。それはまるで、イタズラに加担をする子どものような顔つきだった。
「絵里?」
「頭のいいハナだから、頭の中で計画が着々と練られているでしょ? わかってるんだからね」
「本当に絵里ってば、私のことを理解してる。呆れるくらいにね」
「理解している親友を、ここぞとばかりに使ってやってよ。力仕事なら、喜んでしてあげる」
「岡本さん、斎藤さん……」
罰を与えたいと言った岡本さんの呟きに、私が軽く同意しただけなのに、こんなに大事になるとは、夢にも思わなかった。
「あのぅ、すみません。その話に俺も参加したいんですけど」
「榊原さんっ⁉」
岡本さんが名字を告げた、背後からいきなり現れた人物は、私の知らない男性だった。
「あー、絵里のアレね……」
斎藤さんが意味ありげな表情で呟くと、岡本さんは困った様相で、現れた男性に訊ねる。
「榊原さん、いきなり参加したいと言ったということは、これまでの話をどこかで聞いていたんですね?」
「実は話し合いをしているのが、どうしても気になってしまって、岡本さんたちの真後ろの席で、ちゃっかり聞き耳を立てていました」
決まり悪そうに後頭部を掻いて告げる男性は、私たちの顔色を伺うように視線を飛ばす。
「奥様、こちらは先ほど紹介しようとした、探偵事務所の所員さんです」
「ああ、夫を調査した方だったんですね。はじめまして」
「あ、どうも、榊原と言います……」
慌てて立ち上がって頭を下げると、同じように榊原さんも深く頭を下げた。そのときなぜか席を立った斎藤さんが、私の隣に移動する。
「ほらほらみんな、挨拶も終わったことだし着席して。榊原さんは絵里の隣に座っちゃってくださいね」
(ちょっと待って。なんで本妻の横に、愛人がしれっと横並びで座ることができるのよ!)
榊原さんは斎藤さんの指示どおりに、岡本さんの隣に座った。どうにも落ち着けない私の横で、斎藤さんはカバンから手帳とペンを取り出し、榊原さんに話しかける。
「榊原さんが参加したいと言った計画は、あまりよろしくないことですけど、そのことわかってます?」
より一層声を小さくして訊ねた斎藤さんに、榊原さんは大きく首を縦に振った。