テラーノベル
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朝になっても、中継所は何も答えなかった。
昨夜見つけたソウの記録は、薄い朝日の中で見ると、さらに頼りなく見えた。
紙は黄ばみ、端は崩れ、文字の半分は消えている。
それでも。
『南から来た』
『17』
『道は残っている』
『北東に人の痕跡』
『31を確認する』
そして最後の『S』。
ハルは何度も読み返した。
「持って帰りたい」
「原本はだめ」
ミオは昨日と同じ答えをした。
「分かってる」
二人は写した紙を確認した。
日付らしい部分は読めない。
ただ、施設の古い記録と紙の劣化具合から、最近書かれたものではないことは確かだった。
「ゲンじい、信じるかな」
「信じたいと思う」
「それと、信じられるは別?」
「うん」
ミオは紙を丁寧に畳んだ。
外へ出てから、ハルはミオの「分からない」が好きになっていた。
前は面倒だった。
今は、その言葉があるから先へ進める気がする。
中継所を出る前に、二人はもう一度建物を調べた。
通信機は動かない。
電源もない。
けれど壁の路線図には、C-17、C-24、C-31が線でつながっている。
「昔はここから話せたんだよな」
ハルが言う。
「たぶん」
「31の人と」
「いたならね」
「いたでしょ。居住区なんだから」
「昔は」
「今もいるかもしれない」
「それはそう」
ミオが地図をたたむ。
「だから帰る」
「分かってる」
今日は村へ戻る約束だ。
ハルは北東へ続く道を一度だけ見た。
ソウは、この先へ行った。
帰らなかった。
でも、境界を越えてすぐ死んだわけではない。
それだけでも、村で五十年近く続いた物語は変わる。
帰り道は、昨日より早かった。
一度通った道だからだ。
崩れた橋。
倒木。
町の跡。
錆びた車。
知っている場所が増えると、外が少しだけ狭くなる。
昼前。
ミオが急に止まった。
「ハル」
「何?」
「これ」
地面。
昨日、自分たちが通った泥の上に足跡がある。
二人のものではない。
「大人?」
「靴が違う」
跡は一人分。
北東から来て、中継所の方へ向かっている。
ハルの背中が冷たくなった。
昨夜。
自分たちが中継所で眠っていた時、誰かが近くにいたのかもしれない。
「戻って確認する?」
ハルが聞く。
「しない」
ミオは即答した。
「でも」
「村へ戻る」
「誰かいるんだよ」
「だから戻る」
ハルは足跡を見る。
追いたい。
でも、約束がある。
「分かった」
二人は歩き出した。
しばらくして、ミオが言う。
「珍しい」
「何が」
「一回で言うこと聞いた」
「俺だって成長する」
「昨日から?」
「昨日から」
昼過ぎ。
第17居住区の境界が見えた。
ハルは走りそうになり、やめた。
門の前には人がいる。
トウマ。
ユイ。
サキ。
シン。
ゲンまでいた。
「遅い!」
トウマが叫ぶ。
「まだ日没前だよ!」
「そういう問題じゃない!」
門を越えた瞬間、ユイに抱きしめられた。
ミオもサキに強く抱かれている。
「約束通り帰った」
ハルが言う。
「帰ったから怒らないとは言ってない」
父の声は震えていた。
シンが前へ出る。
「中継所には着いたのか」
「はい」
ミオが答えた。
「記録がありました」
ゲンが顔を上げる。
二人は管理棟へ移動した。
机の上に、写した記録を広げる。
ハルが説明した。
中継所。
17の刻印。
S。
北東。
31。
ゲンは一言も口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、紙を手に取った。
指が震えている。
「兄貴の字だ」
誰も声を出さない。
「分かるの?」
ハルが聞く。
「下手なSだ。昔からこうだった」
ゲンは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「ここまで行ってたんだ」
「うん」
「外へ出て、ここまで」
「うん」
ゲンは目を閉じた。
「馬鹿野郎」
小さな声だった。
「帰ってこいって言ったのに」
ハルは何も言えなかった。
ソウが生きている証拠ではない。
五十年近く前、中継所まで生きて到達した証拠。
それだけ。
でもゲンにとっては、五十年間止まっていた時間が少しだけ動いた。
「村では、外へ出たから死んだって」
ハルが言う。
ゲンが目を開ける。
「そういうことになった」
「違った」
「全部が違ったわけじゃない」
老人は紙を置いた。
「その先で死んだかもしれん」
「でも」
「分かってる」
ゲンはハルを見る。
「帰らなかったことと、死んだことは同じじゃない」
以前と同じ言葉。
今度は、その言葉に紙一枚分の証拠が加わった。
シンは黙って記録を見る。
「これで外が安全だとは言えん」
「分かってます」
ミオが答えた。
「でも、ソウさんが境界を越えた直後に死んだわけではないことは分かります」
「そうだな」
シンも認めた。
トウマが聞く。
「他には?」
ハルとミオは顔を見合わせた。
足跡。
「帰り道で、知らない足跡を見つけた」
部屋の空気が変わった。
「どこだ」
「中継所の南側。昨日はなかった」
「確かか?」
「私たちの靴とは形が違いました」
サキがミオの肩を掴む。
「誰かに会った?」
「会ってない」
「追われた?」
「分からない」
シンが立ち上がった。
「門の監視を増やす」
「待って」
ハルが言う。
「誰かいるなら、話せるかもしれない」
「敵かもしれん」
「味方かもしれない」
「その判断を、お前がするのか?」
言い返せない。
シンは続けた。
「外に人がいる可能性が出た。それは、お前たちが望んでいた答えの一つだろう」
「はい」
「なら次は、その答えが都合のいいものだと決めつけるな」
ハルは黙った。
正しい。
人がいる。
だから安心。
そんな保証はない。
その夜。
ゲンが家へ来た。
ハルを外へ呼ぶ。
「これ」
小さな紙を渡された。
昔のソウの文字。
工具箱に残っていた古いメモらしい。
そこに書かれたSは、中継所のものとよく似ていた。
「本当に兄貴だった」
「うん」
「ありがとう」
初めてゲンに礼を言われた。
「でも、まだ終わってない」
ハルが言う。
「31」
「行く気か」
「今すぐじゃない」
「嘘が下手だな」
ゲンは空を見る。
「兄貴もそうだった」
「止める?」
「止めたい」
トウマと同じ言葉。
「でも、止めても行く顔してる」
「じゃあ」
「帰ってこい」
ゲンはそれだけ言って帰った。
ハルはポケットからナナの石を出す。
村の石。
外へ持っていき、戻ってきた石。
ソウは帰らなかった。
だから次は。
帰ることまで含めて、外を確かめる。
その時。
境界の監視鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
夜間の設備異常ではない。
人が境界付近にいる時の合図。
ハルは顔を上げた。
外にいた誰かが。
今度は、村の近くまで来ていた。
管理棟へ向かう途中、ハルは何度も後ろを振り返った。
境界の向こうは見えない。
それでも、足跡の主が今もどこかからこちらを見ている気がした。
「怖い?」
ミオが聞く。
「ちょっと」
「私も」
「でも、人がいるって分かった」
「まだ会ってない」
「足跡はある」
「だから、人が通った可能性が高い、まで」
ハルは笑った。
「そこまで言う?」
「言う」
中継所で見つけた五十年前の文字と、帰り道で見つけた新しい足跡。
同じ「人の痕跡」でも意味は違う。
ソウの記録は過去を変える。
新しい足跡は、今を変えるかもしれない。
管理棟では、シンが二つを別々の紙へ記録させた。
「混ぜるな」
「分かってる」
「本当に分かってる顔じゃない」
「ミオと同じこと言う」
シンは構わず続けた。
「ソウの記録が本物でも、今の外の安全を証明しない。今の足跡が人間でも、そいつが31の人間だとは限らない」
「でも調べる理由にはなる」
トウマが言った。
シンは父を見る。
「お前まで言うか」
「息子を外へ出したいわけじゃない。ただ、境界の近くまで誰かが来られるなら、知らないふりはできない」
ハルは父を見た。
以前なら「だから門を閉める」で終わったはずだ。
今は違う。
閉めるためにも、開けるためにも、何が外にあるか知る必要がある。
大人たちの話し合いは、少しずつそこへ近づいていた。
ゲンだけは会議の間、ほとんど口を開かなかった。
写しの紙と、自分が持ってきた古いメモを並べ、何度もSを見比べている。
「ゲンじい」
ハルが声をかける。
「何だ」
「ソウさんが31まで行ってたら、どうする?」
老人はしばらく答えなかった。
「今さら迎えには行けん」
「うん」
「生きてるとも思ってない」
「うん」
「でも、どこまで行ったかは知りたい」
それは静かな声だった。
「兄貴が何を見て、何を考えて帰らなかったのか。死んだなら、どこで死んだのか。別の場所で暮らしたなら、それもな」
「怖くない?」
「怖いさ」
ゲンは紙を畳んだ。
「五十年も分からなかった答えだ。いい答えだけが残ってるとは思わん」
ハルはその言葉を覚えておこうと思った。
知ることは、欲しい答えを手に入れることではない。
欲しくない答えまで受け取ることなのかもしれない。
コメント
1件
「ソウは帰らなかった」という事実に、紙一枚分の証拠が加わった重み、すごく伝わってきました。特にゲンじいが「馬鹿野郎」って呟くところ、胸が詰まりましたね…。帰り道の新しい足跡、夜の鐘の音、まだ見えない誰かの気配が不気味で。でもハルが「帰ることまで含めて外を確かめる」と言ったのが、前より確かな目をしてて、成長を感じます。次も楽しみです。