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◆◆◆
記念すべき一日目を終えたアラカは、その後珍しく実家に帰宅してその日を終えようとしていた。
「……」
「あれ、お嬢様……?」
アリヤが物音に瞳を開けると、窓の外でアラカが歩いていく姿が見えた。
純白のネグリジュの上に、数少なく残っていた男の頃の灰コートを羽織る。
「(何処いくんだろ……)」
ふと気になり、アリヤは起きて上着を羽織る。
「(どんどん街を歩いてく……治安が悪い方に)」
幸い、夜の街は怪異の影響で人出少ない。
「おい、あの子」
「あん? ぁ……」
加えて夜の街にいる人も大半がアラカに対して罪悪感を覚えてる。
ゆえに特に絡まれる危険性はなさそうだった。
「(街の……ここは、廃墟?)」
アラカはもう文明から置き去りにされた街の側面へと足を踏み入れる。
廃墟の一つを目指して、もしくは何処でもよかったのか。
アラカは廃墟の一つに足を踏み入れた。
「(……ここは)」
アリヤもそれを追うように廃墟へ恐る恐る足を踏み入れる。
「……?」
荒廃した世界がそこにあった。廃墟は錆び付いた天井の穴から差し込む月の光に照らされて幻想的な世界が生み出されていた。
現代のようで、幻想のような
荒廃を思わせ、神秘を孕んでいる。
————陰鬱な美しさ。
「やあ、アリヤ」
そこでアリヤは、己の主の疲れ切った声を聞いた。
顔珍しくまともに綴られた言葉は、何処かやつれていて、何処か艶やかさを覚える。
「こんばんはだよ」
錆びれたコンテナの上で、髪を弄る白銀の少女。
廃墟には無相応な美しさを、それでいてこれ以上なく似合っている組み合わせだ。
「愛の神様に免じてペンを貸してはくれないか」
右の瞳が真紅に染まっている、そんな中でアリヤを見下ろしていた。
————これ、誰だ…?————
「あはは、ごめんね。
あまりにも月の光が綺麗なものだから少しだけふざけてみた」
しかしふふっ、と笑んで手をふらり、と妖艶に振った。
幼いのに妖艶で、疲れていて、瞳が壊れ切っている。
まさに陽と隠、それがひどく魅力的に見えた。
「フランス民謡……月の光に、ですか?」
「嗚呼、そうだよ」
月の光に導かれるように男女が一つの家の戸に消える。そんな歌だ。
「青年リュバンが消えた家と呼ぶには、少しばかり廃れ過ぎかな」
疲れたように穴の空いた天井を眺めて、そうぽつりと呟く。
そしてそれは彼女なりの誘い文句なのだろう。
それに応えるようにアリヤは笑んだ。
「ふふ、ありがとう」
アラカは首元へ手を掛け、一つの首飾りを服の中から取り出した。
「これ、わかるかな。
毎朝、僕が飲んでいる薬が中に入っているんだ」
アラカは身体を後ろに倒して、首飾りを月へ掲げるように照らす。
ガラス造りの首飾りは、月を背にある錠剤を透かして見せる。
「毒だよ」
アリヤは息を飲む。
知らなかった事実は、当たり前に人の心を突き刺すのだから。
「僕の身体では死ぬことはあまりないけどさ。
飲んでいると、少しだけ休めるんだ」
————何を、とは続けなかった。
その答えを、共に知っているから。
ふわり、と妖精のようにコンテナから舞い降りる。
男性の頃のコートが羽もように柔らかくはためく。
「……ーー」
とん……と、妖精を降りたかのように小さく地を叩く音が聞こえる。
アリヤは見惚れたようにその姿を眺める。
「自分の心は自分が一番分かる、と世の人は言うけれど僕には皆目分からないよ」
純白のネグリジュに、男性用のコートを羽織る姿はただただ不整合な魅力を醸し出す。
袖が余っており、指の先のみしか外に出ない。それは俗に萌え袖、と呼ばれるものだがある種の神聖さを持つアラカにはその表現は外れていると思わずにはいられない。
「元から一人だった一人が元の一人になった程度で、なぜ悔やむのか。
何故、この心は傷付くのか。人の心とはよく分からないや」
それはアラカの声。当たり前に嫌なことで心が傷付いたと、それだけのこと。
「今日の事件は……聞いた?」
「それは、はい……」
微笑みを前に固まるも、どうにかアリヤは声を絞る。
「君はどう思う?」
素直に感想を聞かれ、アリヤは脳裏で昼間の男を見た時のことを思い出す。
「……ッ」
歯を強く噛み締める。拳を強く握る。
「下心と悪意に満ちたそのニヤケ面を殺したくなりました。
あの顔、本当に不快で、気持ち悪い……お嬢様を殴った癖して善人ずらして、っ…!
〝アラカのためを思って〟だとか、その透けた悪意を殺したくてたまりませんでした」
正しく怒り。その発露を前にアラカは少しだけ笑んだ。
「悪意、悪意……か」
瞳を閉じて、少しだけ夢想気味にアラカは呟く。
背を向けて、穏やかに、精錬に歩を踏み。おかしそうにつぶやいた。
「悪意と善意に、どれほどの違いがあるのだろうね」
「お嬢様が苦しいと思えば、それは悪意じゃないですか」
怒りを覚えながらか、アリヤは少しだけ強い言い方をする。
それに対してハッ、と自覚するもアラカは特に気にせず言葉を続ける。
「ならばこの世の全てが悪意になってしまうね。
君の気遣いさえ悪意にしてしまうのは少しばかり悲しいな」
戯けたようにそう呟いて、
「だが、それまた悲しいことにそれは正解だよ」
その上で肯定した。悲しそうに、諦めたように。
「————善意は悪意だよ、アリヤ」
「————」
とても穏やかな表情で、とても優しげな瞳で、この世の全てが悪意で構築されているのだと嘲笑うように告げた。
「この世の善意は、全て平等に悪意なんだよ。
僕から見て、なんかじゃない。全てが悪意であり善意なんだよ」
その異質な魅力を秘めた少女を前に、アリヤは固まる。ただ固まるしかなかった。
「人の意思は全て欲望に帰結する。
そして欲望とは、当たり前に汚いものだ」
誰でも知っている当たり前。とても当然な世の残酷な真理を解くアラカ。
そう、これは当たり前のことだ。だと言うのに。
「相手を奪いたい、攫いたい、汚したい。
だから相手の心に忍び寄ろう、善人の皮を被ろうとする。
————僕も、そして君でさえも」
こんなにも、目の前の菊池アラカという少女が言うだけで重みが違ってくる。
そんな穏やかに話すことではない、荒んだ子供が荒んだ様子で言うようなことだ。
「なん、で」
それをこの少女は、心底穏やかに。あり得ないだろうが〝愉しそう〟とすら思わせる様子で。
「どうして……そんなことを、そんな風に」
ただただ不気味で、その奥に眠る闇の断片が垣間見えるような気がして……アリヤは気分が悪くなった。
「……」
等しく悪意の塊でしかないのだ、と。
全てに奉仕し、一人で世界を支えたような英雄が言うのだ。
その不整合さに気分が悪くなるのだ。
「その悪意を、善意と取るか。悪意と取るか。
その答えはアリヤが言ってくれた通りなのだろう。
————だから僕には、全てが平等に悪意なんだよ」
その上で変わらない様子で疑心暗鬼だと言う。
「————」
「全ては単なる人の営み。
それを悪意とするか、善意とするかは各々が秤を持てばいい」
ニッコリ微笑むアラカ。
————ぽた。
それに応えたのは雫の音だった。
「お願い、します」
全員が敵にしか見えない。
殺してしまうしか、安堵できる方法がない。
「お願い……します……っ」
ポタポタ、と無慈悲なほど冷たい床を滴が濡らす。
「私を救ってくれた英雄を……これ以上、傷付けないで…ください。
お願い、します……っ」
そして、アリヤは膝を着き。静かに涙を零した。
それは決壊、心の堤防がついに壊れたことを意味する。
それは涙、何処まで行っても自分本位の善意。
それは痛み、18歳の…まだ幼い少女が抱えてしまった大きな痛み。
「っ……す、みません…」
すぐにハンカチを取り出し、自分の頬を伝う雫を必死に吸い取る。
アラカに背を向け、アリヤは涙を堪えた。
「(ダメだ、泣いてはダメだ…っ)」
それはアラカには悪意でしかないから。
これ以上、アラカを自分の〝癒されてほしい〟という自分勝手な善意で傷付けるのは最低の行いだから。
だから背を向け、必死に、気丈な自分で上書きしようとアリヤはハンカチを強く握り締め
「————アリヤ」
その手は、幼く…けれども同時に酷く大きな手で簡単に解された。