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助手室と呼ばれる小さな部屋は、ただの収容スペースだった。 寝台と洗面台、そして窓のない灰色の壁。 けれどルネは、そこに押し込められたことに安堵していた。 少なくとも、今夜は解体されない――それが、救いだった。それから数日、彼は“助手”として過ごすことになった。
といっても、特別な技術や知識を求められるわけではない。 セルジュの手元に器具を渡すこと、使用後の道具を丁寧に磨くこと、 そして彼の“作品”の記録用スケッチを手伝うこと―― それだけだった。
ルネは、まだよく理解していなかった。 なぜこの男は、自分を“作品”にしないのか。 なぜ、こうしてそばに置くのか。 そしてなにより――なぜ、あのとき、触れる指先があんなにも優しかったのか。
「……傷、痛まないか」
作業の合間、セルジュは唐突にそう問いかけた。 ルネが驚いて彼を見上げると、セルジュは石像のような無表情のまま、 彼の手首に巻かれた包帯に視線を落としていた。
「あ……はい。あの、もう大丈夫です……」
「ならいい」
それだけ告げると、セルジュは再び解剖台へ向き直った。
ルネは、何もない空間を見つめながら、自分の胸にそっと手を当てた。 鼓動はまだ早かった。あの問いかけが、ただの確認だったとしても―― たったそれだけで、胸がこんなに熱くなる自分が怖かった。
*
夜、作業が終わると、セルジュは助手室までルネを送り届けた。 言葉はほとんどない。けれど、何も言わなくてもいい気がした。 扉の前、ふいにルネが振り返る。
「……あの、セルジュ様」
セルジュが足を止める。 ルネは、迷いながらも言葉を選んだ。
「僕は……まだ“作品”にしないでくださって、ありがとうございます」
「……」
「その……もし、価値があると思ってくださったのなら……僕、あなたのそばにいたいです。少しでも長く」
沈黙。 返事はない。けれど――
セルジュの視線がわずかに柔らいだ。 夜の薄明かりの中で、その表情はまるで夢のように儚く見えた。
「……お前が壊れてしまう前に、完成させられるか……確かめてみたくなった」
それだけを呟いて、セルジュは背を向けた。
扉が閉まったあと、ルネは頬を赤らめながら、胸に手を当てる。 それが“愛”ではないことくらい、わかっている。 だけど――それでもいいと思えた。
あの灰銀の瞳に映る自分が、少しでも“美しい”なら。 壊されるその日まで、彼のそばで微笑んでいたい。
そう思ったのだった。
セルジュはルネの包帯をほどいていた。 静かな夜。 灯りは落とされ、ランプの淡い明かりが二人を照らしている。
掌に触れたルネの腕は、細く、繊細で、柔らかかった。 傷口の様子を確かめるふりをして、彼はゆっくりと、その白い皮膚をなぞっていた。 触れるたびに思い出す。 かつて、自分が最初に“美”を見つけた日のことを――
*
死は、静かだった。
あの日、雨が降っていた。 冷たく、細い雨だった。 父の馬車が崖から落ちたと知らされたのは、夜明け前。 屋敷の使用人たちがざわめく中で、ただ一人、セルジュだけが黙っていた。
葬儀は数日後、地下の霊安室で行われた。 母の棺の中に眠る彼女は、まるで人形のようだった。 目を閉じ、髪を整えられ、冷たい肌の上に白百合が置かれていた。
誰もいないその部屋で、少年だったセルジュは、ふと棺の傍に膝をついた。
彼女の手にそっと指を重ねる。
「……綺麗だ」
それが、初めての感情だった。 母が生きていたときよりも、美しいと思った。 血が抜けた肌。閉じられた唇。微動だにしない静寂。 “生”が抜けた瞬間に、人はようやく完成する。 そう思った。
その夜からだ。 セルジュは夜な夜な霊安室に通い、死体に触れ、描き、記録し、壊れたものに宿る美に心を奪われていった。
そのたびに、息ができた。 それが“快楽”だと気づいたのは、もっと後のことだった。
*
「……セルジュ様?」
ふいにルネの声が響き、セルジュは現実へ引き戻された。 手の中にあるのは、生きている肉体。 けれど、その傷は、かつての亡骸よりも美しかった。
「……すまない。少し、昔のことを思い出していた」
「悲しいこと、ですか?」
セルジュは首を振った。
「いいや。綺麗な思い出だ。最初に“美”を見つけた日だ」
「美……?」
「死んだ母を見たとき、こう思った。……ああ、これが完成形だと。 生きているものは不完全だ。だが、死は……絶対的な静謐だ」
ルネは言葉を失ったまま、そっと目を伏せた。
けれどその横顔を見たセルジュの指先が、ふと頬に触れる。
「君も、いずれ……その美しさを、完成させてみせる」
その囁きは、祝福だったのか、呪いだったのか。 ルネはわからなかった。
けれど、その声が優しかったことだけは、確かだった。