ルネは、まだ外が薄暗い時間に目が覚めてしまった。目が冴えてしまって中々寝付くことができず、せっかくなので芸術解剖院を少し探索してみることにした。
まず初めにルネが入った部屋は、普段セルジュが解剖をしている部屋だった。部屋の中にさらに扉があるのが見え、その扉を恐る恐る入ってみると中には、白い義肢が飾られているガラス棚や、細工途中の石膏マスク、刻印された名前入りの首輪、傷がついた白衣、小瓶に保存された血液などが置いてあった。その小物たちは、かつての助手たちの名残や、セルジュの執着の深さが感じられた。
少し進むと何かが足に当たったので、視線をやるとそこには、繭のように布に包まれた死体のような物体が置いてあった。その物体を見た瞬間、ルネは少し不気味に思ったが、雰囲気に呑まれて、恐怖も次第に感じなくなっていった。
しばらくこの部屋を探索していると、壁にはスケッチ帳が掛けられており、ルネは何気なく手に取った。開いた紙には――自分が描かれていた。
裸身の線画。 痛みの記憶を忠実になぞるように、あちこちに傷跡の印。 けれど、それらの描線は恐ろしく丁寧で、愛おしむような手つきだった。
(……作品。やっぱり僕は、作品……なんだ)
ページをめくるごとに、少しずつ傷が増えていく。 日を追うごとに“美しさ”が完成へ近づいていくのがわかる。
しかしその途中に、一枚だけ――何も描かれていない白紙があった。
その白さが、ルネの胸をしめつけた。
(描けなかったのか……それとも、描きたくなかったのか)
「――それは、見せるつもりじゃなかった」
背後から、静かな声。 ルネはゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、いつものように無表情のセルジュ。 けれどその灰銀の瞳は、少しだけ戸惑って揺れていた。
「……描くたびに、手が止まった。完成形に近づいているのに、なぜか、描けなくなる。 “このまま手をつけなければ、壊れずに済む”――そう思ってしまうんだ」
セルジュの声は、感情を抑えていた。 それでもルネには、わかった。 この男が、何に苦しんでいるのか。
(この人は――僕を“作品”として愛している。でも、もうそれじゃ、足りないんだ)
そう気づいてしまったとき、ルネの中の何かが、はっきりと形を持った。 それは恐怖ではなかった。むしろ――甘い高揚だった。
*
夜、ルネがベッドに横たわると、扉の向こうに気配を感じた。 そっと開く音。 セルジュが、ゆっくりと近づいてくる。
「……君を、傷つけたくないと思ってしまう。だが、君の傷が、あまりに美しくて……」
呟きながら、セルジュはルネの額に触れた。 その手は震えていた。
「どうして……そんなふうに苦しまれるんですか」
ルネが問うと、セルジュは苦笑したように目を伏せた。
「僕はきっと、君を壊さずに愛したいと思っている。だがそれは、僕にとって――最も不自然な感情だ」
「なら……壊していいですよ」
ルネは、震える声で言った。 瞳に涙を浮かべながら、笑った。
「壊されるたびに、あなたに近づけるなら……それでも、僕は……」
その瞬間、セルジュの中の何かが、ぷつりと切れた。
*
「……ルネ」
名前を呼ぶ声が、いつもよりずっと低く、熱を帯びていた。 セルジュはルネの腕を引き寄せ、彼の胸元に手を滑らせる。
「君のこの傷、もう何度も見たが――」
彼の指が、過去に刻まれた十字の痕をなぞった。
「……今夜、ここを“完成”させる」
ルネが頷いた。 それは、甘い合意。破滅への同意。
そして、銀の刃が再び肌に触れたとき―― セルジュの瞳には涙が浮かんでいた。 喜びでも、悲しみでもない。 それは、愛しさに耐えられなくなった人間の涙だった。
「愛してる。だから、壊させてくれ」
その囁きに、ルネは微笑んだ。 静かに、血が流れた。
それはまるで――赤いアリアの旋律のように、静かで、美しかった。