ウーヴェの家に姉が泊まりに来るようになってからあっという間に一週間が過ぎたが、その間に連日のニュースでも取り上げられる事件が起こり、幸か不幸かは分からないが、己の恋人と姉がその後直接顔を合わせるような事態は避けられていた-と彼は信じ切っていた。
事件の一報の後、どうしても声が聞きたかったと苦笑するリオンに対し、これから忙しくなりそうだなと告げる事しか出来ないもどかしさにウーヴェも歯噛みしそうになったが、いつも以上にしっかりと食べるものを食べて仕事に励めと告げた。
ウーヴェの励ましを素直に受け止めたらしいリオンだったが、沈黙の後に小さな小さな声で最後に顔を見た翌日の電話と同じ言葉を告げたため、ウーヴェも自分もそうだと返し、事件が終わるまではとにかくしっかりと怪我の無いようにしろと、早期解決を願っているとも告げると、ご声援、感謝すると鯱張った声で礼を言われ、彼もつられて尊大に頷いたものだった。
その事件はどうなっていると心の何処かで気に留めながら今日も診察を終えた彼は、頃合いを見計らったようにドアをノックして姿を見せた姉に内心で苦笑する。
「今日もお仕事お疲れ様、フェリクス」
姉を邪険にするつもりはないが、彼女が突然押しかけるようにやってきた事から今まで目を逸らしていた-と言われても仕方のない事に向き合わなければならず、その結果恋人と口論する事にもなったのだ。
恨み言の一つも言いたくなったとしてもおかしくはないだろうと胸の深い場所で苦笑した彼は、少し疲れたと肩を竦めてデスクの上の小物類を引き出しに戻しながら溜息を零す。
「今日はどうするの?」
「家でゆっくりしたいな」
「それも良いわね」
リオンがここにも家にも来ないために仕事が終わった後などはきっと退屈になると覚悟していたウーヴェだったが、そんな時に限って恩師が久しぶりに地元に戻ってきたと連絡が入り、大学の頃に恩師の元で学んだ友人達との食事会があったり、学生の頃からも親しくしていて今でも付き合いのある友人達と飲みに行ったりと、何故かウーヴェ自身も公私にわたって忙しい日々を過ごしていた。
本音が思わず出てしまったのだが、姉はそんな弟の疲れを解消する為のリンゴのタルトを買ってきてあるわとにこやかに告げ、今日はゆっくりとお茶でもしながらお話ししましょうと笑みを浮かべる。
リンゴのタルトは何よりも疲れを吹き飛ばしてくれるほどの好物だったが、話の内容の事を考えるだけで気分が重くなりそうだった。
この一週間、キッチンやリビングなどに残り香よりも明確に存在するリオンの影。姉がそれに気付いている事は間違いなく、きっとその話だろうと予測を立てるが表情には一切それを出さずに頷いたウーヴェは、車を駐車場に置いてきたと教えられて苦笑しか出来なかった。
「もう少しで帰れるから待って欲しい」
「ええ、大丈夫よ。今日は何を食べようかしら。ね、フェル」
姉が家にいる間、彼女自身が宣言したとおりに食事の用意はすべてしてくれていた為、ウーヴェはリオンがいる時のように食事の用意に追われたりすることは無かった。
それだからではないだろうが久しぶりに作っても良いと告げると、姉の緑に近い青い目が大きく見開かれ、学生の頃と変わらない愛らしさで細められる。
「何を食べさせてくれるのかしら?」
早く仕事を終わらせなさいと浮かれた声で告げる姉に苦笑し、手早く明日の準備を確認すると帰り支度を整えたのだが、デスクに置いた携帯が軽快な映画音楽を流したことに目を瞠り、診察室のドアの外で振り返る姉に手で合図を送ってそれを耳に宛がう。
「Ja」
『・・・・・・オーヴェ』
耳に飛び込んできた声に滲む疲労をその一言で見抜き、有りっ丈の思いを込めてお疲れ様と囁くと、辛うじて発することが出来た声が疲れを訴えてくる。
その疲れが肉体的なものであれば家に戻って寝ろと言えるが、精神的なものであれば、こうして電話を通じて言葉を与えることしか出来ないのが現状だった。
いつものように家に帰って来いとも言えず、また散らかっていても何故か居心地の良いあの雑然とした温もりを持つ部屋に行こうかとも言えなかった。
そのもどかしさに軽く唇を噛み締めた時、お姉さんはと問われて家で食事をする事になったと告げると、意味の分からない微かな笑い声が電話越しに伝わってくる。
「リオン・・・?」
『何でもねぇ・・・お姉さん・・・かぁ・・・・・・』
「・・・・・・・・・」
リオンが肩を揺らして自嘲している、そんな場面を思い起こさせる声に眉を寄せ眼鏡の下で目を細めたウーヴェの耳に出来れば聞きたくないと思う言葉が流れ込み、眉間の皺を深めてしまう。
『くそったれ』
「・・・・・・リオン」
その言葉は聞きたくないとの思いを込めて名を呼ぶが、どうやら疲労はピークに達しているらしく、先程とは比べられない大きな声でシャイセと吐き捨てられた後、言葉尻に激しい金属音が重なる。
「リオン!?」
今どこにいて何をしているんだと口早に問いかけた彼の耳が雑踏をとらえ、何気なく窓際に寄って遠くに見える広場を見渡すが、背後でドアが静かに開いたことに気付いて顔だけを振り向けると姉に素っ気ない顔で一つだけ頷く。
「もう家に帰るんだろう?」
姉の前で友人を気遣う声音で恋人を気遣わなければならない現実に苛立ちを感じるが、ぐっとそれを堪えるように拳を握り、今はどこにいるんだともう一度、内心の焦燥感など一切感じさせない声で問いかけると、どこかで飯を食ってから帰ると小さな声が返してくる。
「そうか・・・・・・お疲れさま、リーオ」
『・・・・・・うん。ごめん、オーヴェ』
何故謝るんだと返したいのを堪えて一つ頷き、そろそろ切るぞと告げると小さな小さなキスが耳に届けられ、いつものように出来ない歯痒さにきつく眉根を寄せた彼は、通話を終えた携帯を鞄に投げ入れると、何かを言いたげにしている姉に肩を竦める。
「待たせた」
「気にしないで良いわよ」
お友達とのお話が終わったのなら帰りましょうと誘われて一つ深呼吸をした彼は、踵を返した姉の背中に呼びかける。
「エリー」
「何かしら?」
「・・・・・・帰ったら話がある」
眼鏡の下で微かに緊張を帯びた碧の目を細め、その表情から重要な話であることを察した彼女は、そう、お話はおいしいタルトと一緒でも良いでしょうと笑顔で弟の緊張を僅かに解きほぐさせると、早く帰りましょうと何度目かの声を掛けてもう一度踵を返す。
真っ直ぐに伸びた見事なブロンドが背中で揺れるのを見つめ、不意に沸き起こった諸々の感情-主に疲労困憊の恋人を堂々と気遣えない己に対する苛立ちと不甲斐なさ、そして少しだけの姉に対する苛立ちを何とか薄い胸の裡に収めたウーヴェは、軽く深呼吸をした後、ドアの前で待つ姉の元へと大股に歩いて行くのだった。
話があると帰宅前に切り出した彼だったが、家に戻って結局は姉が朝に下準備をしてくれていた料理を食べる事になり、食後にウーヴェの好物であるリンゴのタルトとコーヒーを前にした時、リビングの一人がけのソファにゆったりと足を組んで控えめに流していたテレビを見ながらアリーセ・エリザベスがぽつりと呟いた。
「フェリクス、あなたの今の恋人の趣味って随分と子供っぽいのね」
「・・・・・・恋人?」
「あなたの好みはバウハウスでしょう?」
現代にも通じるモダンなデザインのインテリアや家具と言った、ドイツを代表するデザインとも言えるバウハウスと、旧東ドイツで日頃から馴染んでいた信号機のキャラクターをデザインしたマグカップやコースターなどはどう考えても相容れない。もう一人誰かがこの部屋に頻繁に出入りしている事を考える方が自然だし、その人物はあなたの恋人だと考えるのがごく当たり前だろうとテレビを見たまま独り言のように告げる姉に咄嗟に何も言えなかったウーヴェだったが、今の機会を逃せば自ら言い出す機会は中々訪れないかも知れない事に気付き、一つ咳払いをして脳裏に描いた満面の笑みから力を分け与えて貰う。
「・・・・・・どちらかと言えば・・・子供っぽい性格をしているな」
脳裏に描く笑みを持つ恋人は、己の前では凡そ年相応とは思えない子供っぽい表情で二人だけなのに騒々しさにも通じる快活さを持っていた。
彼は恋人のそんな性格に対して若干の呆れを混ぜながらも、それでも遙かにそれを上回る愛情を持っているし、そんな性格に救われている所も多分にあった。
だから好意的に子供っぽいと伝えたが、その言葉通りに姉が受け取ってくれたのかどうかはまだテレビを見ているために横顔からしか伺うことは出来なかった。
「そうなの?年はいくつなの?」
「4つ下だな。・・・・・・今はこの街の警察署に勤務をしている」
性格は子供っぽいが、仕事に関しては上司にも同僚にも信頼されていると密かな自慢を込めてアンペルマンのカップを手に取ると、アリーセ・エリザベスがゆっくりと振り返り、テレビ側の高い背もたれに背中を預けるように身体を動かす。
「・・・・・・優秀な刑事なのね」
「ああ」
リアがうちのクリニックで働くことになった事件があったが、その時に知り合った事を告げ、何だか随分と昔の出来事の様に感じてつい苦笑するが、何気なく聞き過ごしたアリーセ・エリザベスの言葉が脳裏にこびり付いて違和感を生み出してくる。
警察署に勤務していると言っただけなのに、何故刑事だと、しかも優秀だと分かったのか。
今瞬間的に抱いた違和感を表に出さないように最大限の注意を払いコーヒーを飲んだウーヴェは、ちらりと姉の顔を見つめて僅かに目を細める。
自分と何処か似通った面持ちの姉の顔に浮かんでいたのは、まるで何かを思い詰めたかのような表情だった。
彼女にそんな顔をさせる理由がウーヴェには思い当たらずに微苦笑混じりに優秀だと告げると、青に近い緑の目に一瞬だけ憎悪にも似た光が過ぎるが、ウーヴェがそのことに気付いて顔を上げるよりも早くにその光は溶けて瞳の中に消えていた。
「エリー?」
「・・・・・・何かしら?」
弟の言葉に姉はややぎこちない笑みを浮かべて小首を傾げた為、その一言に込められた諸々の感情を読み取ろうとウーヴェが脳味噌をフル回転させるが、伝わってきたのはただの疑問の意志だけだった。
無意識に緊張していたのか、ウーヴェが口の中の乾きを無くすためにもう一度コーヒーを飲んで小さな吐息を己の膝に落とした後、静かに顔を上げて重い口を開く。
恋人がいる事は伝えたが、その恋人が男だと知れば姉は一体どんな反応をするのか。
己の姉ながらどんな態度に出るのかをさすがに見通すことなど出来ず、知らず知らずのうちに溜息を零すが、姉にはどうか理解して欲しい、たとえ理解することは無理だとしても、己が心底愛する彼を拒絶しないで欲しいと不意に感じてしまう。
父と兄とは不仲で一年に一度顔を見るか見ないかだったとしても、この姉だけは別だった。
事件の後も前も変わらぬ愛情と笑顔で己に接し、甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたアリーセ・エリザベスは、ウーヴェにとっては無くてはならない存在でもあった。
家族の間に入ってどちらの意見にも耳を傾け、そしていつか蟠りが解消し、幼い頃のように仲良く無邪気に笑いあえる兄弟に戻って欲しいと切に願っている。
そんな姉の願望が手に取るように分かる弟だが、残念ながら姉の思うとおりに父と特に兄とは和解しようと考えたことなど無かった。
兄と己の間で板挟みになる姉には申し訳ないと思うが、歩み寄るつもりも無かった為、数えることも馬鹿馬鹿しくなるほど繰り返した葛藤を胸の裡に収め、深呼吸をして脳裏にただ一つの笑顔を思い浮かべる。
今頃疲れた身体で食事を済ませてあの部屋に帰ったのだろうか。
いつもならば-最早彼の中では恋人がここの家にやってきて夜を越えて賑やかに始まる朝を迎える事は当然の事だった-、疲れた身体を抱き寄せ、それだけでは満足しない身体を寄せ合って夜を越えているが、それが出来ない事へ内心で深く詫びると、一度瞼を下ろす。
「フェリクス?」
名を呼んだきり何も言ってこない彼に姉苦笑し、どうしたのと小さく問いかけてきた為にゆっくりと瞼を上げて姉の顔を真正面から見つめる。
「今回、突然やってきた本当の理由は何なんだ?」
「理由?前に話したでしょう?今度お食事会があって────」
今更何を聞くんだと言いたげな姉に緩く首を振り、そうじゃないと否定をするが、あなたが車を売ろうとしていると母さんから聞かされて驚いたのよとも告げられて一瞬だけ呆気にとられてしまう。
「ここのところ忙しくてあなたに会えなかった。だから久しぶりに顔を見に来たのよ」
本当の理由と言われたところでそれ以外に理由など存在しないと断言し、カップの中で冷えていくコーヒーを飲むためにソーサーごと手に取ると、形の良い唇をカップの縁に押し当てる。
「・・・・・・この間リアと食事に行った時、何の話しをしたんだ?」
「あら、久しぶりだったから学生の頃の話で盛り上がったと言ったでしょう?」
ソーサーを戻して意外そうに目を瞠る姉にもう一度緩く首を振ったウーヴェは、仕方がないと腹を括ると姉の微妙な色に混ざり合う双眸を真っ直ぐに見つめ、膝に肘をついて上体を屈めるような姿勢になる。
「・・・エリー。本当のことを話して欲しい」
ウーヴェの穏やかな中にも強さが秘められた声にアリーセ・エリザベスが軽く息を飲むが、程なくして流れてきたのは、何度も言うが本当の理由は食事会よという少しだけ固さを帯びた声だった。
「本当にそうなのか?」
「ええ」
姉が突然クリニックにやってきた時に抱いた違和感は未だに燻っていたが、断言されてしまえば勘違いだったのだろうかとの思いが頭を擡げてくる。
両親の躾の賜物かどうなのか、姉が連絡もなしに人を訪ねる事など見聞きしたことはなく、その違和感が消えないうちに、この姉にはやはり自分は強く出る事は出来ないのだと再確認してしまう。
事件の後、最も辛く苦しい時期を乗り越える為の手助けをしてくれたのは両親よりも姉だったのだ。
そんな事を思い出してしまえば強く出る事に躊躇いを覚えてしまい、その戸惑いを見抜いたような彼女にどうしてそんなにも同じ事を聞くのかしらと問われて肩を竦める。
「突然やってきたのが不思議だったからな」
「そうかしら?私があなたの所に行く事は別に不思議でも何でもないでしょう?」
姉弟なんだからそんなに不思議なことでもないだろうと苦笑し、小さく肩を竦めたアリーセは、一体何が気になるのと声を険しくしながら問いかけて口を閉ざすが、ウーヴェが答えないことに気付くと小さな溜息を落として前髪を掻き上げ、再度ソファの背もたれに背中を埋める。
「私も聞きたい事があるわ」
「・・・・・・何だ・・・?」
「この間、クリニックに飛び込んできたあの子、あなたとはどういう関係なの?」
あの時の様子では仕事の関係かとは思ったが、それにしては随分と気安く語りかけていたわねと目を細め、学生時代の異名にふさわしい目で見つめられたウーヴェは、不思議なことに穏やかな気持ちのままで恋人だと告げる。
ついさっきまでいつどんな形で切り出そうか思案していたのに、問われた瞬間には用意していた回答などはすべて吹き飛んでしまい、真っ白になった脳味噌の中に浮かんでいたのはウーヴェにだけ見せる最高の笑顔を浮かべたリオンの顔だったのだ。
それにつられるように穏やかにもう一度恋人だと告げると、姉の形の良い唇がオウム返しに問いかけてくる。
「恋人・・・?」
「ああ」
「あの子はどこからどう見ても男でしょう?お友達の事を恋人なんて呼んでるの?」
「エリー、そうじゃない」
顎の下で手を組み、まるでクリニックのデスクに肘をついている時のような姿で腿に肘をついたウーヴェは、姉の大きく丸くなった目をじっと見つめながら緩く首を振って姉の言葉を否定する。
「そうじゃないんだ、エリー」
あの青年がこのマグカップを置いていったと微かに笑みを浮かべる。
「もう一度言ってちょうだい、フェリクス」
「何度でも言う。俺が付き合っているのは、あの時診察室に飛び込んできた彼・・・・・・リオンだ」
だからあの青年とどんな関係なんだと言われれば、恋人と言うことになる。
ここ数日間の悩みを纏めて吐息と共に吐き出したウーヴェは、心底安堵した顔でソファに身体を沈め、高い天井を仰いで姉の言葉を待つ。
「あなた・・・・・・今までお付き合いしてきたのはみんな女性ばかりだったわね・・・?」
「・・・ああ。よく知ってるな」
自分からは家族に恋人を紹介したことなど無かったウーヴェの女性関係をいくつか並べ立てたアリーセ・エリザベスについ苦笑し、本当によく知っているなと感心したウーヴェは、リオンと付き合いだしてから誕生日を二回過ごした事を告白し、ソファから起き上がって姉を見るが、目の前にあるアリーセ・エリザベスの白皙の顔がまるで蝋人形か何かのように固まっている事に気付いて眉間に皺を刻む。
「エリー・・・」
「フェル・・・フェリクス、あなた昔からそうだったの・・・!?」
昔から本当は男性が好きだったが、今までそれを隠していたのかと、白くて綺麗な手で口を覆いながら小さく叫ぶアリーセ・エリザベスに首を振って否定をしたウーヴェは、同性の恋人を持つことになるとは思わなかったと、今でも不思議に感じていることを素直に告白すると、姉が真っ直ぐに伸びたブロンドを左右に振りながら両手で顔を覆い隠す。
「どうして・・・!?」
あなたには素敵な女性とお付き合いをし、いずれはあなたの家族を作ってもらえると思っていたのにと、己の描く未来予想図の一端を口走ったアリーセ・エリザベスだったが、その言葉にはどうしてだろうなとしか答えられなかった。
アリーセの激しい息づかいとウーヴェの穏やかな、だが重さを含んだ呼気が広いリビングを満たそうとしていた時、今ばかりは場違いに聞こえる映画音楽が小さく流れ出し、ソファに投げ出してあった携帯を掴んだウーヴェは、もう黙っている必要もない安堵からいつものように携帯を耳に宛がう。
「Ja」
『・・・・・・ハロ、オーヴェ』
何度もごめんなと謝罪をされて苦笑し、俯いたままの姉の頭をちらりと見たウーヴェは、気にするなと優しく告げてもう家に帰ってきたのかとも問いかけ、意外な言葉を聞かされて眼鏡の下で目を瞠る。
『ごめん・・・・・・やっぱガマン出来なかった』
「リオン?」
ぼそぼそと聞こえる声に名を呼んでどうしたと先を促したウーヴェの前、アリーセ・エリザベスが勢いよく顔を上げて青に近い緑の目を限界まで見開いて見つめてくる。
『なぁ、オーヴェ・・・お姉さんに俺のことを話したか・・・?』
「・・・・・・ああ。今話していた所だ」
友人という言葉でお前という存在を覆い隠したり、また恋人という言葉だけでお前の存在を示すのではなく、リオン・フーベルトという男と付き合っていると伝えたと、姉の前であっても堂々と告げると、小さな悲鳴のような声が近くから上がる。
「やめて!」
『横にお姉さんいるのか?』
「・・・それよりもどうしたんだ?何がガマン出来ないんだ?」
さっきの問いに答えてくれと僅かに早急に告げたウーヴェの耳に流れ込んだのは沈黙と外の世界の空気だったが、本当はお姉さんが帰るまで家に来るつもりはなかったが、来てしまったと小さく返されてソファから立ち上がり、雪交じりの雨を半分上げた窓で遮りながら上半身を乗り出し、眼下に見える人影に目をこらす。
ウーヴェの自宅がある高級アパートの壁にもたれ掛かり空を見ながら携帯を耳に宛がっている青年の姿を発見したウーヴェは、携帯にではなく眼下の人物に届くように声を張り上げる。
「リオン!!」
そんなところにいないで今すぐ上がってこいと叫び、夜目にはいつも以上にくすんで見える金髪が振り仰いできた事に気付くと再度携帯を耳に宛がい、今すぐ上がってこいと語気を強めてリオンを呼び寄せるが、何やら随分と激しい躊躇いの気配を感じ、珍しく苛立ちを隠さないでウーヴェが舌打ちをする。
「リオン?聞いているか?」
『聞いてる。でも・・・お姉さんがいるのなら、俺は行かない方が良いかも知れない』
「どういう意味だ?」
そういえば先日もアリーセ・エリザベスが自分について何か言っていなかったかと問われた事を思い出し、この間もそんな事を言っていたが何かあったのかと低く問いかければ電話の向こうで息を飲む気配が伝わり、すぐ傍では姉が一瞬のうちに顔を赤くして小刻みに震え出す。
その様から自分の知らない間に何かがあった事を確信し、一体何があったともう一度問いかけたウーヴェは、意味の分からない謝罪の言葉を聞かされて歯を噛み締める。
「理由も知らされずに謝罪をされるのは好きじゃない。謝罪をするのならばそれなりの理由があるはずだ。それを言え、リオン」
強い口調でリオンに伝えつつ姉の様子を窺うウーヴェだったが、アリーセ・エリザベスの顔色と小刻みに身体に伝わる震えから、きっと彼女は今怒りかもしくはそれに似た感情に囚われているのだろうと気付いてリオンが姉を怒らせるようなことをしたと察するが、何が原因なのかは全く予想もつかなかった。
その苛立ちからリオンの名を呼び、躊躇うような気配を感じていてもそれをねじ伏せるように早く上がってこいと告げてもう一度その名を呼ぶ。
「────リーオ。早く上がってこい」
『行きてぇけど・・・どうしたいのか・・・わかんねぇ・・・っ』
「リオン!?」
携帯の向こうから伝わる悲痛な声にただ驚いたウーヴェは、何があったんだ、頼むから答えてくれないかと促せば、本当は今すぐお前の傍に行きたいと叫ばれてしまい、ならば何も遠慮することなく帰ってこいと根気よく告げるが、聞こえるのは何かを堪えるような息づかいだけだった。
このままでは埒があかないと判断をしたウーヴェは、複雑な表情で見つめてくるアリーセ・エリザベスを一瞥すると窓を開け放したままリビングを飛び出したかと思うと、念のためにキーボックスに引っかけてあった家の鍵を掴んでドアを開け放ち、矩形に切り抜かれた光から外れた場所に佇むリオンを見つけて安堵の溜息を零す。
「・・・ハロ、オーヴェ」
いつもの挨拶をいつもとは違う悲しい声で告げる冷え切った手から携帯を抜き取ると、雨と雪に濡れて冷たくなった頭を抱き寄せる。
「何があったんだ?エリーに何かを言われたのか?」
己の姉の性格はしっかりと把握しているが、彼女に何か手厳しいことでも言われたのかと問いかけたウーヴェは、肩に額を押しつけるように抱きついてくるリオンの背中を撫で髪を撫でてどうしたと苦笑し、壁に背中をぶつけてしまいそうになるのを咄嗟に堪える。
「オーヴェ・・・オーヴェっ!!」
「ああ。どうした?」
根気強く、それこそ己の患者に接する時以上の根気強さでもってリオンの口から流れ出す言葉を待ったウーヴェは、ぼそぼそと聞き取りにくい声が告げた言葉の意味が理解出来ずに思わず聞き返してしまう。
「・・・・・・何だって・・・?もう一度言ってくれないか、リオン?」
自分の聞き間違いでなければ、お前の身辺調査をされていたと聞こえたと苦笑しかけたウーヴェは、不意に真正面から見つめられて言葉を無くし、青い目に悲しみややるせなさが入り交じった色が浮かんでいる事に気付いて呼吸を止めそうになる。
「・・・・・・平気だと思ったんだけどなぁ。でも・・・意外とショックだったみたいだな。俺の事を調べていたらしい」
「嘘・・・・・・だろう・・・!?」
弟の恋人についての身辺調査などをあの姉がするはずがないと否定したウーヴェだったが、リオンの目に浮かぶ光の暗さからそれが本当だと確信した瞬間、震える拳を握ってきつくきつく目を閉じる。
幼い頃から良くも悪くも家名によって翻弄されてきたウーヴェだが、この家に一人で越してきた頃から完全に己は独立し、バルツァーという名を受け継いだとしてもそれはあくまでも戸籍上の事だけであり、心理的にはとうの昔に、物理的には徐々に離れていた。
だからどんな人と付き合ったとしても家族に知らせることも無かったし、また家族も知らないものだとばかり思い込んでいた為、まさか自分の家族に恋人について調査をされていたという現実など、俄には信じられなかった。
己の甘さに自嘲することしか出来なかったウーヴェだが、今最も傷ついているのは己などではない事を思い出し、じっと見つめてくるリオンと視線を重ねた後、そっとっそっとその頬を両手で包んで額を触れあわせる。
「リオン・・・・・・リーオ・・・許してくれ」
お前の心を抉るような姉の行為をどうか許してくれときつく目を閉じて謝罪をしたウーヴェは、のろのろと上がった手が背中に回ったかと思うと、今までにない強さで抱きしめられて思わず息が詰まってしまう。
「────ウーヴェ・・・っ!!」
伝えられた事実を受け入れなければならない心と疑う心が鬩ぎ合うが、リオンが何度も何度もウーヴェの名を呼び続け、その度に無意識の行為のようにリオンの背中をウーヴェは撫で続けるのだった。
何処か遠くで激しく雨が降る音が響いたような気がした。
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