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アパートの壁を通じても聞こえる雨音に二人が気付いた頃、ウーヴェにしがみつくように腕を回していたリオンがようやく落ち着きを取り戻したらしく、視線を重ねることはなかったがそれでも己の無様な姿を見せた事に自嘲しつつも謝罪もしてくる。
「気にするな」
お前が言う無様な姿などは見ていない、逆に俺の方がもっと無様な姿を見せていると真剣に返し、やっと温もりを取り戻したような耳朶に大人しく光っている青い石のピアスに口づけた後、家に入ろうと囁きかけて漸く同意の頷きを返される。
「・・・お姉さん、怒ってないか?」
あの日、苛立ち紛れに随分と酷いことを言ってしまったと反省するリオンの手の甲に口を寄せたウーヴェは、怒っていようがなかろうが知ったことじゃないと、胸の裡に溢れかえる青く冷たい炎の一端をひけらかすが、目の前でどうすればいいのか分からないと顔に出すリオンを見る目は限りなく暖かで優しかった。
「お前が会いたくないのなら、このままベッドルームに行けばいい」
額に張り付く前髪を指で掻き上げてやったウーヴェは、逡巡するように青い目が左右に泳いだ後、謝りたいから一緒に行くと返されて無意識に安堵の溜息を零す。
「・・・分かった」
ならば早く暖かなリビングに行こうと顔だけを振り向けたその時、真後ろに立っていたリオンが顔を寄せてきた為、疑問も不安も感じることなくそっと目を閉じると触れるだけのキスをされ、そのもどかしさにドアノブから手を離して身体ごと振り返ってリオンの頭を抱き寄せながら深いキスへと変化させる。
久しぶりに交わすキスにどちらも瞬時に熱が頭に上がりそうになるが、聞こえる雨音に意識を向けてその熱を腹の奥底へと蓄えていく。
名残惜しさを押し隠して身を引き、ウーヴェがいつもの穏やかな顔付きながらも、眼鏡の下の双眸にだけは冷たい炎を浮かべながらドアを開け、リオンが中に入ったことを確認すると同時に、胸の奥で燃えている怒りの炎の大きさを声に出して表してしまう。
「エリー!!」
玄関先でいつも呼んでいる愛称ではない姉の名前を長い廊下に響き渡る大声で呼び、呆気にとられるリオンの頬を一つ撫でると踵を返して廊下を進んでいく。
「フェリクス?どうしたの・・・!?」
「どうしたのじゃない・・・!」
弟の剣幕にさすがに驚きを隠せない姉だったが、足音高く寄ってきたウーヴェをじっと見つめたアリーセ・エリザベスは、事情を説明しろと言い放たれて目を丸くする。
「何の事?」
「リオンの事を調べていたらしいな。どういうことだ?」
ウーヴェのいつにない厳しい表情と声に潜む怒気に当然ながらアリーセ・エリザベスは気付いていたが、ウーヴェの背後にいて申し訳なさそうな、だが自分も傷ついていると言いたげな顔で立ち尽くすリオンを見つめたかと思うと、白くて長い指をきつく握る。
「リオンの事を調べたんだな・・・?」
「何の事かしら?」
ウーヴェの低い冷気を帯びたような声に負けず劣らずの冷え切った声が何の事だと返すと、二人の間に目には見えない冷気の塊が産み落とされてしまう。
「・・・廊下で立ったまま話すことじゃないな」
「何の話なのかは分からないけれど、ここで立ったままお話することは確かに歓迎しない事だわ」
背中に流れるブロンドをさらりと掻き上げて冷たい表情のままリビングのドアを開けたアリーセ・エリザベスの後に続いたウーヴェは、遠慮がちに入ろうとするリオンを少しだけ振り返ったかと思うと、眼鏡の下で目を細めて小さく頷いて安心させる。
先程のように一人掛けのソファに足を組んで腰を下ろした彼女と膝を突きつける様にソファに座ったウーヴェは、少しだけ間を空けてリオンが同じように座ったことを確認すると、顎の下で手を組み、膝で肘を支える姿勢で姉をただ無言で見つめる。
音に出されることのない疑問や憤りなどをリオンが感じ取ったのか、青い目を細めて二人の姉弟を見つめた時、アリーセ・エリザベスの形の良い唇が少し開いて吐息を零す。
「そんなに怖い顔をしないでちょうだい、フェリクス」
「・・・これでもまだ抑えているつもりだ」
アリーセ・エリザベスの言葉にウーヴェが怒りの沸点を超えた時にだけ響かせる冷たさを滲ませ、顎の下で組み合わせた手を微かに震えさせる。
そのことから自分がどれだけ怒りを堪えているのかに気付けと伝えれば、さすがは付き合いの長い姉だからか、一瞬にして顔色を変えてソファの中で仰け反るように背もたれにもたれ掛かる。
「どうして調査などをした?」
「だから、何の事か分からないと言ってるでしょう?」
ウーヴェの問いにあくまでもシラを切り通そうとするのか、アリーセ・エリザベスが顔を背けて言い放ち、そんな事ばかり言うのなら私は今すぐ家に帰るわとまで言い切るが、そんな姉の言動にも全く動じることはなく、ウーヴェはじっと姉の心の在処を探るように目を覗き込む。
数多くの患者を診察し、彼らの心の病を見抜いてきたウーヴェのその視線からはさすがに姉といえども逃れられないのかして、居心地悪そうに尻をもぞもぞとさせて視線から逃れようとする。
「エリー」
頼むから事実を教えてくれと、感情の籠もらない淡々とした声で語りかけたウーヴェは、胸の奥に渦巻く怒りを何とか抑えている現状がいつまで保つかが分からず、どうか己が爆発する前に自ら語ってくれと願い、もう一度姉の名を呼ぶ。
「・・・リオンの何を調べた?」
己の恋人の過去を調査の対象にされた憤りを抑え込もうとするが、声に嫌悪感がにじみ出ることは抑えられなかった。
「────少し待ちなさい、フェリクス」
ウーヴェの静かな剣幕にアリーセ・エリザベスもどうやら腹を括ったようで、ふぅと吐息を零して前髪を掻き上げたかと思うと、思わず男二人が見惚れるような挙動でソファから立ち上がり、何を待てと言うんだと尻を浮かせようとするウーヴェを一瞥し、だから待っていなさいと言っているでしょうと言い放つとリビングから出て行ってしまう。
「オーヴェ・・・」
「・・・言い訳に聞こえるかも知れないが・・・信じてくれ、リオン」
アリーセ・エリザベスの背中を呆然と見送った二人だが、我に返ったようにリオンが声を掛ければ、ウーヴェが心底申し訳なさそうな顔で目を伏せる。
「彼女が調べさせていた事を知っていれば、ここには泊めなかった」
「・・・うん、分かってる」
お前は絶対に反対すると信じていたと、伏せていた顔を上げたウーヴェが一瞬驚くような笑みを浮かべたリオンは、さっきまでの不安も寂寥感も焦燥感もすべてを一つに丸めて腹の底に納められる強い男の顔でもう一度笑い、ウーヴェの髪を大きな掌で撫で付ける。
「俺、ベッドルームに行ってるから」
堪えきれずにここまで来て話してしまったが、後は家族同士の話し合いになる。その席にまでいるつもりはないから話し合いが終われば教えてくれと告げると、今度はリオンが困惑するほどの強い光を眼鏡の下に湛えたウーヴェがそっと首を振り、ここにいろとの思いを言葉ではなく腕に添えた手から伝えてくる。
「・・・うん」
「・・・ダンケ、リーオ」
愛してると口の中だけで呟いたウーヴェは、姉が茶封筒を片手に戻ってきた事に気付いて視線で追いかける。
「調べたのは・・・その子が何処でどんな事をしているのか、ただそれだけよ」
封筒をウーヴェの膝にぽんと投げ出し、さっきと同じだが腹の据わったことを示すように足を組んで頬杖をつくアリーセ・エリザベスの顔を見つめつつ封筒に手を伸ばしたウーヴェは、中身を膝の上に広げて眼鏡の下でターコイズを細める。
そこにあったのは大判サイズの写真だったが、そのどれもがリオンの顔を捉えていて、そのうちの半数近くはまるで間近で写真を撮ったかのようにリオンが真正面を向いているものだった。
その横にウーヴェの姿もあるのだが、写真を撮られている事に気付いていたのはリオンだけで、ウーヴェは二人での食事や買い物といった穏やかな休日の様子をまさか写真に納められているとは夢にも思っていない表情をしていた。
見せつけられた己の甘さや間抜けぶりにただ自嘲する事しか出来なかったが、ステープラーで留められている書類をぱらぱらと捲っていき、最後まで読み終えると同時にソファに深く身を沈める。
「・・・・・・良くもここまで調べたものだな」
その言葉にリオンがそっと遠慮がちに手を伸ばしてウーヴェの膝の上からその書類を取り上げ、彼よりはゆっくりと目を通していくが、読み終わった時には何やら納得できないような表情を浮かべてそれを見下ろしていた。
「何故・・・調べたんだ・・・?」
「大切な家族に恋人らしき存在があって、それが男だというのなら当たり前じゃないの?」
アリーセ・エリザベスの高飛車にすら聞こえる物言いにウーヴェが瞬間的に怒りを爆発させてしまったようで、ソファに沈めていた身体を起こしたかと思うと、握りしめた拳で座面を殴りつける。
「当たり前・・・だと!?」
「そうよ」
ウーヴェの怒気に触れてもアリーセ・エリザベスの顔色は一切変わらず、己のしたことに間違いはないと断言するが、腿の上で軽く組み合わされている白くて綺麗な手が小刻みに震えていた。
リオンはウーヴェの背後からそれに気付いていたのだが、ウーヴェはと言えば怒りの為かそれとも別の理由からか、姉のその変化には気付いていないようだった。
「弟の恋人の身辺調査をするのが当たり前なのか!?リオンが傷付くとは考えなかったのか!?」
日頃冷静で物静かとすら評される事のあるウーヴェの怒りは熾烈なもので、例えそれが姉であっても怒りを静めることなど出来るはずもなかった。
心のままに姉を睨み付け、己が愛してやまない男の過去を洗い浚い調べられる不愉快さを教えるように握った拳で再度座面を殴りつけるが、姉の仮面のような顔に一切の表情が浮かばないどころか、思わず耳を疑うような言葉が煩わしそうに投げかけられる。
「どうして考えなければならないの?私が心配しているのはあなただけよ、フェリクス」
「────っ!!」
己の背後で息を飲む気配を感じ取ったウーヴェは、無意識に背後に手を伸ばして触れたシャツをきつく握りしめて爆発しそうな感情を堪えようとするが、次いで聞かされた言葉のせいで肩を落としてシャツを手放してしまう。
「あなたが幸せになってくれるのならそれで良いのよ」
私達の、私の願いはただそれだけだと俯いてしまった弟の白い髪を痛ましそうに見つめ、その背中越しにリオンと視線をぶつけたアリーセ・エリザベスは、ウーヴェが幸せになる為の最大の障害物はリオンだというように、クリニックで見せた時よりももっとはっきりとした憎悪を込めてリオンを睨む。
その目を条件反射のように睨み返したリオンだったが、自分たちの間で俯いたままのウーヴェの様子がおかしいことに気付き、彼女と睨み合っている場合ではないと頭を振ってその肩に手を乗せるが、何かに気付いて眉間に皺を刻む。
「オーヴェ・・・!?」
「・・・・・・じ、なんだな・・・っ・・・」
「フェル?」
ウーヴェの低くて暗い声にリオンが息を飲み、アリーセ・エリザベスが身を乗り出したその時、俯いていたウーヴェが己のシャツの胸元を拳の色が変わるほど握りしめる。
「自分が良ければ・・・人が傷付こうが関係ないのか!?・・・良く、そんな事が・・・っ・・・!」
言えたなと、誰を笑っているのかも分からない調子の外れた笑い声を上げ、目尻に涙すら浮かべたウーヴェがアリーセ・エリザベスを睨み付け、ぎりぎりと歯を噛み締める。
「同じ・・・だ・・・っ・・・!は、はは・・・っ!」
「フェリクス!?」
ウーヴェが聞くに堪えない笑い声を上げて仰け反った反動で倒れ込みそうになるのをリオンが咄嗟に伸ばした腕で支えれば、身体が痙攣したように震えたかと思うと、がばっと起き上がってソファに拳を叩き付ける。
精神のたがが外れたとしか言い表せないウーヴェの様子にただ息を飲んでいたリオンだが、アリーセ・エリザベスの顔が苦痛と恐怖にゆがみ、苦労などしたことがないような白くて綺麗な手が激しく震えながら口元を覆った事に目を瞠る。
「アリーセ・・・?」
この後何が起こるのかが全く理解出来ていないリオンが思わず彼女の名を呼んだ刹那、一度たりとも聞いた事のないようなウーヴェの嗤い声が響き渡る。
「みんな同じだ・・・っ!!自分が良ければ・・・人が傷付こうが・・・関係な・・・っ!」
「止めなさい!フェリクス!!」
感情の波に邪魔をされて途切れ途切れに叫ぶウーヴェにアリーセ・エリザベスが激しく頭を振って止めてと叫ぶが、それでもウーヴェは口を閉ざすことはなかった。
「────金の為に・・・俺を誘拐した・・・あいつらと・・・同じだ・・・」
己の快楽や欲求を満たす為だけに誘拐し、まんまと金を手に入れた後は自分を金を生む卵か何かのように扱い、決して人として扱わなかったあいつらと同じだと、活火山が一気に死火山になったような不気味な静けさで呟くウーヴェにアリーセ・エリザベスが悲鳴じみた声をあげ、止めなさいと再び叫ぶ。
「あんな人たちと一緒にしないで・・・!」
大切な家族を誘拐し生死の境をさまよわせるような事件に巻き込み、挙げ句に心を殺すような事をした非道な人たちと一緒にしないでと悲痛な声を上げたアリーセ・エリザベスの前、ウーヴェが信じられないような事を聞いたと驚きに目を見開いたかと思うと、首に手を宛がいながら呻き声に似た声を流し始める。
それが危険な兆候である事を知っているリオンが慌ててソファから半ば滑り落ちて膝立ちになって顔を覗き込むと、ウーヴェの口がもどかしそうに開閉を繰り返していた。
「オーヴェ!思ってることを口に出せ!」
いつかの夜の様に涙など流させないと決めていたリオンが呼びかけ、ガマンするなと白い髪を抱き寄せてきつく目を閉じるが、腕の中からまるで狂ったような嗤い声が響いて背筋を震わせてしまう。
「・・・ぅ・・・あ、・・・ぁあ・・・っ!!」
「────ガマンするなよ、オーヴェ。お前の荷物は引き受けたって言っただろ?」
あの教会や戻ってきた夜に交わした約束を忘れたのかと諭すように告げ、まるで自らの手で首を絞めるように喉に宛がっている手をそっと剥がし、代わりにリオンは自分の手を重ね合わせる。
「そんな言葉、信じるなよ。お前は金を生む卵なんかじゃねぇ」
震える身体から呻き声とも悲鳴ともつかない掠れた声が流れ出すが、事件の時に言われたことなど何一つとして信じるなと告げ、喉をぐるりと取り巻くように浮かんでいる痣とそれを縦に引き裂こうとする赤い筋に目を細めると、お前のリザードは何か言っていないかと囁きかける。
「な、オーヴェ。リザードがこんな事をして自分を傷つけると許さないって言ってねぇか?」
お前の左足の薬指を定宿に決めたリザードが怒れば、きっと薬指が締め上げられて痛くて歩けなくなるぞと笑いかけれる。
その様をただ真っ白な顔で見つめていたアリーセ・エリザベスだったが、彼女の目の前で目に見えてウーヴェの様子が変わっていくことに気付き、驚きに目を瞠って二人を見つめてしまう。
事件の後遺症の一つとして弟の身体に残された痣と、その痣を掻き消すように爪を立てて新たな傷を生み出そうとする行為は今まで何度も繰り返されていたのだが、それを抑えるには主治医が処方する薬に頼るしかなかったのだ。
だがその薬も主治医もいない今、陽気な声に真摯な色を滲ませた青年が傍目にはふざけているような声で語りかけるだけで狂気にも似た気配が徐々に弱まっていくが、そんな様子を彼女は今まで一度も見たことは無かった。
「リザードがいる。俺もいる。今ここにはいないけどレオナルドもいる。だから、過去のそんな言葉に耳を貸すな。信じるな」
お前はもう誰にも何にも囚われていない、戒めのない世界で生きているんだと、ある思いを込めて囁けば、身体から徐々に震えが消えていく。
信じられないものを見た様に驚くアリーセ・エリザベスをちらりと見たリオンだったが、彼が落ち着けるように何度も肩や腕を撫で続けると、ゆっくりと身体から力が抜けていくのが伝わってくる。
「・・・おっと」
慌てることなくしっかりと受け止めたリオンの腕の中できつくきつく目を閉じたウーヴェが、程なくして震える呼気と共に堪えていた何かをも吐き出したらしく、ぐったりとリオンにもたれ掛かってくる。
「落ち着いたか?」
「・・・・・・リオ・・・っ、ごめ・・・っ・・・」
「俺もさ、訳もなく謝られるのって好きじゃねぇんだ、オーヴェ」
だからごめんというのならばここにいてくれてありがとうと言ってくれと、ウーヴェの負担を軽くするように小さく笑いながら告げたリオンは、己の言葉通りに小さな声で礼を言われて目を細め、汗がびっしりと浮く額にそっと口付ける。
「水で良いか?」
「・・・うん」
「取ってくるからなー。ちょっとだけ待っててくれよ」
安心させる為にもう一度額にキスをしたリオンは、ウーヴェの身体をソファに横たえさせると素早く立ち上がるが、アリーセ・エリザベスを見る事無く出て行き、戻ってきた時にはミネラルウォーターのボトルとグラスを何故か二つ持ってきていた。
「はい、お姉さんの分」
「・・・・・・ありがとう」
彼女のことを見向きもしなかった癖に水を用意する気配りは出来るようで、彼女に水を注いだグラスを差し出すが、アリーセ・エリザベスの手が小刻みに震えてまともにグラスに触れることも出来なかった。
仕方がないと溜息混じりにグラスを持つ彼女の手を支えたリオンは、何とか零すことなく水を飲んだ事に苦笑し、残りをもう一つのグラスに注いでウーヴェの傍に膝立ちになると、上体を起こさせてそっと水を飲ませれば安堵に震える呼気がこぼれ落ちる。
「頭痛くねぇか?」
「・・・・・・リオン・・・首・・・、首輪が・・・っ・・・!!」
喉仏を中心として左右が酷く熱くて痛くて息苦しいと、喉元を引っ掻くように爪を立てるウーヴェに慌ててリオンが手を伸ばしてその手を止めさせる。
「もう首には何もついていない。ほら、ゆっくりと深呼吸してみな」
その言葉に大人しく従って深呼吸を繰り返すウーヴェの様子に目元を弛めたリオンは、ふと何かに気付いた顔を振り向けて視線の主に目を細める。
驚愕と安堵が入り交じった不思議な視線の意味を知りたくなるが、今はアリーセ・エリザベスの心情を酌むよりも腕の中で苦しそうな呼吸を繰り返すウーヴェを気遣うのが先だった。
もうあの悪夢のような場所にはいないと心と体のどちらにも染み渡るように何度も囁きかけ、震える肩や腕を大きな掌で撫で続ければ、漸く身体の緊張が完全に解れたのか、ウーヴェの口から安堵の吐息が流れ出す。
「オーヴェ」
もう大丈夫だなと笑みを浮かべてウーヴェを見れば白い髪が微かに上下し、知らず知らずに大きく溜息を吐いたリオンは、彼の身体を抱き起こしながら己も隣に腰掛け、痩躯を凭れかけさせるように腕を回す。
「あ、お姉さんと話の途中だったな」
自分たちの足下にバサバサと落ちている写真と書類を見ながら苦笑したリオンの腕の中、項垂れるように座っていたウーヴェが顔を上げて前髪を掻き上げ、頭痛を堪えるような表情でアリーセ・エリザベスをじっと見つめる。
「・・・・・・エリーは・・・あの人達とは違う・・・そう、思っていた」
いくら弟の幸せの為とは言え、誰かを傷付けるような行為をしても平然としていられるとは思いたくなかった。だから今回の事にも事情がある筈だと、姉の気性をよく知るウーヴェが眉を寄せて悲しげな顔で告げると、彼女が天井を見上げて白い手で目元を覆い隠す。
「今回の事はエリーが言い出した訳じゃないだろう?」
「どうして・・・そう思うの」
「私たちの、と言っただろう?エリーが言い出したことなら、私がと言うはずだ」
私の願いはあなたの幸せだと言い切った時、彼女は私達はと言う言葉の後に言い直しをしている。それがウーヴェの脳裏で違和感を覚えさせていた事を伝えると、彼女の口から諦めにも似た吐息が小さくこぼれ落ちる。
「父さんか?」
「・・・そうよ」
姉の心的負担を思いやりながら己の予想を口に出したウーヴェは、それが間違っていない事を教えられて溜息を零し、背中を覆うように腕を回しているリオンにもたれ掛かると目を閉じる。
「あなたが・・・ハンナの家にお友達を連れてきたと聞いたわ」
「!!」
今回のこの騒動のそもそもの発端は、去年の秋に世話になったヘクター夫妻が久しぶりにウーヴェの両親の元を訪れた時、友人らしき青年が一緒だったと伝えた事だった。
ウーヴェにとっても彼の家族にとっても忌まわしい記憶しかない教会に例年通り向かう背中を見送ったが、戻ってきた時には驚くべき事に見知らぬ青年に背負われていたのだ。
ただただ驚く夫妻の前でその青年が見惚れるような笑みを浮かべ、ウーヴェが完全に眠ってしまっているのでこのままベッドに運んでやりたいと告げた為、慌てて用意していた部屋に案内したのだが、その時の事をハンナから聞いた両親がその青年について疑問を抱くのは当然で、結局人を雇って調べることになった。
その事情を教えられたウーヴェは呆気にとられたような顔になっていたが、何度か瞬きをするうちに理性の光が双眸に浮かび上がる。
「あなたがただのお友達をあの教会に連れて行くはずがないわ。もしも連れて行くのならベルトランを連れて行くでしょう?」
ほぼ生まれた頃からの付き合いのある気の良いベルトランにも同行させることのない、彼にとって辛い過去と向き合う旅。
その幼馴染みを差し置いて旅の同伴に選ぶ友人とはどんな人間なのか、ハンナから聞いた子供のような屈託のない笑みを浮かべながらも、底知れない何かを内包するような青年の姿を明確にするためには調べるしかなかった事を感情に震える声で教えられ、ウーヴェがリオンの身体に再度もたれ掛かった為、広い室内には沈黙が落ちてくる。
「この報告書を見て思ったんだけどな、詳しく調べてるのは学生の頃からなんだよ」
「・・・・・・ああ」
リビングに訪れた沈黙を破ったのはリオンの控え目な声だった。
その言葉に素っ気ない態度で頷いたウーヴェだが、それでも調べたことに代わりはないだろうと言い放つと、アリーセ・エリザベスの肩がぴくりと揺れる。
「まあそうなんだけど、でもさ・・・俺やお前が思ってる事は・・・調べてない」
報告書の始まりは当然ながら名前や現住所、外見的特徴などの羅列だったが、まるで履歴書のように何処の学校を卒業して今の職業にいつ就いたのかなどが続き、最も枚数を割いているものは二人がいつから付き合い、どんなことをしてきたのか、そしてリオンがひとりきりの時にはどんな暮らしをしているのかという事だった。
身辺調査という言葉からイメージする悪い内容はほとんど書かれていないと、ウーヴェの身体を軽く抱き直したリオンがやっと納得がいったと頷いた時、天井を見上げていた彼女が誇りを傷つけられた怒りを浮かべてリオンを睨む。
「あなたが子どもの頃に色々したからそれでフェルを不幸にする、だから別れろと言うとでも思っているの?私がもし別れろと言うのなら、あなたが男だという理由だけよ」
冷たく笑ったアリーセ・エリザベスは、あなたが孤児でアジア出身であろうとアフリカ出身であろうと気にすることでもないと、誰に対しても真っ直ぐに背筋を伸ばして断言できる、そんな雰囲気を身に纏ったまま気負うでもなくきっぱりと告げると、みるみるうちにリオンの青い目が見開かれていく。
「あなたが何処で生まれ育ってどの神を信じているのかを知らないのと同じで、あなたも私のことを知らないでしょう。そんな人に馬鹿にされる謂われはないわ」
極低温の声にリオンが息を飲み、先日の路上での会話について非難されている事だと気付くと、ウーヴェを抱いたままアリーセ・エリザベスの目を真正面から見つめた後、悪かったと口先だけではない謝罪をする。
「あの時は言いすぎた。許してくれ」
自分の過去を、痛くもない腹を探られる不愉快さからついキツイ言葉を言ってしまったと反省の意味を込めてもう一度謝罪をしたリオンは、振り仰ぐように見てくるウーヴェに目を細めてごめんなと小さく詫びる。
「リオン・・・?」
「お前のお姉さんなんだからさ、人の生まれ育ちで差別するような人じゃないって・・・冷静になれば分かる筈なのにな」
ウーヴェの大切な家族を傷つける言葉を吐いてしまったと、苦い笑みを浮かべて謝罪をしたリオンに姉弟が顔を見合わせる。
アリーセ・エリザベスにしてみれば、こんなにも容易く己の非を詫びる男だとは思わなかったようで、ただただそのギャップに驚いてしまい、ウーヴェにしてみれば先日のリオンの不可解な言動が何に由来するものかを知って驚きと同時に納得もしてしまう。
「・・・エリー、許してくれないだろうか」
「フェリクス・・・」
リオンの身体から起き上がって姉を見つめ、恋人を思う心からどうか彼の言動を許してくれないだろうかと告げたウーヴェは、アリーセ・エリザベスが複雑な表情で見つめてくる事に無言で頷き、どうか許してくれともう一度声に出す。
リオンについて調べた事実だけで姉を一方的に非難したが、内容を良く見ればその報告書の内容でリオンが傷付くことは少ない、そんなものだった。
感情の爆発の後の鈍い痛みが頭の芯にまだ残っているが、それでも落ち着いて考えたウーヴェは、先程の言葉も取り消すと告げて目を伏せる。
「・・・・・・今日は疲れたからもう寝るわ」
弟のそんな顔を直視できずに顔を背けた姉は、幼い頃と全く変わらないその目に唇を噛み締めるが、小さく吐息を零してソファから立ち上がり、後を追うように見つめてくる二対の瞳に苦笑する。
「お休みなさい、フェリクス」
「・・・ああ」
「お休みなさい・・・リオン」
「あ、あぁ、うん、お休み」
二人纏めてではなく、一人一人にお休みを告げたアリーセ・エリザベスは、長い髪をさらりと掻き上げた後、ウーヴェの頬にキスを残してリビングから出て行く。
その後ろ姿を無言で見送った二人は呆然としたまま彼女が出て行ったドアを見つめていたが、どのくらい経った頃だろうか、ウーヴェが小さな溜息を零した後、肩越しに視線を重ねて苦笑する。
「・・・・・・ベッドに行くか?」
「あー、うん、そうだな・・・」
何だか気が抜けたと頭をかくリオンに苦笑を深め、テーブルの上のマグカップなどをひとまずはキッチンに下げてくれと告げ、自らは床に落ちていた書類と写真を茶封筒に戻して一人掛けのソファにぽんと投げ出す。
今回の騒動の元ともなったリオンの身辺調査の報告書だが、書かれていたのはリオンが言ったとおりのものだった。
リオンが実は最もコンプレックスを抱いている、生後間もない頃に教会に捨てられていた過去と、その過去から現在に至る道程についてはさらりと流されているだけで、重点的に報告されている事は、リオンの警察署での仲間内の評判や交友関係、そして二人が付き合ってからの日常の様子などだった。
確かにアリーセ・エリザベスが言ったとおり、この調査を命じた父はリオンの出自など気にも留めていないようで、彼らが気に留めているのはウーヴェが幸せであるかどうかという事だけなのだろう。
茶封筒の表面を一撫でしたウーヴェはキッチンからリオンが戻ってくると、逢えなかった日々を取り戻すようにその腰に腕を回して頭を寄せて目を閉じる。
「オーヴェ?」
「・・・なんだ?」
「うん、何でもねぇ」
廊下を通ってベッドルームに向かい、静かにドアを開けて中に入った二人はベッドではなく壁際のソファに向かうと、リオンがウーヴェの腰に両手を回したまま背中から倒れ込み、その結果ウーヴェがリオンの上に腹ばいになってしまう。
「こら」
リオンを軽く睨んだウーヴェだが、久しぶりにこうして身を寄せ合っている現実を認識した脳味噌が目眩を感じてしまい、その苦しさに頭を振るとそのまま肩口に額をぶつける。
「────リーオ」
低い声で逢いたかったと思いを告げたウーヴェの背中にリオンが腕を回し、自分もそうだと言葉ではなく態度で伝えると、白い髪に口を寄せて何度もウーヴェの名を呼ぶ。
「・・・お姉さん、許してくれるかな・・・」
ウーヴェの背中を撫で髪を撫でて口を寄せたリオンが気に掛かっていた事を呟けば、ウーヴェも溜息混じりだがそれでも確信を込めて大丈夫だと囁いてリオンの髪に手を差し入れる。
「リオン・・・許してくれ」
「もうイイ。だからオーヴェも気にするなよ」
本当は今回の件は自分の胸に潜めたままアリーセ・エリザベスが帰るのを待ち、その後いつものように穏やかな時間を過ごしている時にでもさり気なく話そうと思っていたが、ここ数日間の疲労からか堪えきれなかったと己の弱さに自嘲したリオンが告げると、ウーヴェがゆっくりと首を振って目を閉じる。
「・・・気にするな」
今回の事は本当にもう気にするなと告げてソファから起き上がったウーヴェがクローゼットのドアを開けて自らのパジャマを片手に出てくると、いつの間にか下着一枚になったリオンがコンフォーターを捲り上げているところだった。
相変わらず下着一枚で寝るつもりかと苦笑しつつ着替えを済ませるが、ふと喉に浮かんでいるであろう痣が気になってしまい、クローゼットのドアを再度開けて首を覆う為のものを取り出そうとするが、そんな背中に欠伸を堪えているような声が投げかけられる。
「オーヴェ。早く来いよ」
痣など気にするなと言外に告げられて一度深く息を吸い込んだウーヴェは、クローゼットから何も取り出さずにドアを閉めて自らの為に捲り上げられているコンフォーターに滑り込む。
「うー。寒いっ」
「寒いのならパジャマを着ればどうだ?」
「ヤダね。このままの方がお前にくっつける」
不気味な嗤い声を上げるリオンにくっきりと眉を寄せた彼は寝返りを打って背中を向けるが、リオンがその腰に腕を回して肩に顎を乗せたかと思うと、痣がくっきりと浮いている首筋に口を寄せてくる。
「─────っ!」
背後からのそれに身体が過敏な反応を示すが、早く消えちまえよなぁと囁かれて苦笑し、平気だと囁き返しながら一週間ぶりに背中に熱を感じて目を伏せる。
リオンの存在を隠したくないと告げた夜、本当に住んでいるのかと疑いたくなるような部屋の空気を思い出してぞっとしてしまったが、背中を温められる事でその時感じた恐怖が心の中で溢れかえる。
それをなるべく冷静に見つめていた時、その恐怖の奥底にひっそりと息を潜めていた思いが突如脳内に跳躍し、脳味噌の中で乱反射した後、一つの言葉となってぽつりと心の中に落ちてくる。
その思いを言葉で伝える術をウーヴェは持っていたが、今はまだ言葉で伝えることは出来ず、言葉の代わりではないが、腹の前に垂らされている腕を撫でて手を取りそっと掌を重ね合わせれば軽く指が曲げられてしっかりと手を組んでくる。
「・・・お休み、リオン」
「ん。・・・お休み、オーヴェ」
荒れていた水面が再び穏やかさを取り戻したが、その水面に向けて一滴の思いが吸い込まれるように落ちていき、綺麗なクラウンを描いて波紋へと変化する。
水の動きを脳内に描きつつ、己の脳味噌が産み落とした一つの想いを重ね合わせたウーヴェは、唐突に見えたそれに対する安堵の思いを眠りに落ちる寸前に零す吐息に混ぜ込んで目を閉じるが、肩を掴まれて寝返りを促された事に気付き、薄く目を開けて無言の強請りを受け容れてやれば心底満足した様な吐息が額に降りかかる。
お休みの言葉を直接吐息が触れあう距離で交わしたのも一週間ぶりだとぼんやりと考え、その後額にキスをされたように感じたが、夢と現の間にいたウーヴェにはどちらのものか区別が付かないのだった。
雨交じりの雪はやがて雨から雪へと変化し、久しぶりに同じベッドで眠りに落ちた二人を包むようにただ静かに降り続くのだった。