帝王の学問の師を勤めていた哲学者は、反マケドニア勢力からでっち上げの罪を着せられ(それは、ソクラテスが着せられたものと同じ「神への不敬罪」だった)、告訴された。反マケドニアブームが絶頂に達した当時のアテナイでは、とても公平な裁判が行なわれることは期待できない、そう判断した哲学者は、すでに崩していた体を引きずり町を出て、行き着いた先で六十余年の地球生涯を終えた。帝王の死の翌年のことだった。
ところで哲学者は、計画の全容を帝王に伝えていた。それは分解のあとの世界についてで、帝王がアジアの雄・ペルシャ帝国を倒したのは、その計画に基づいてのことだった。帝王は新しい領土を確定したあとも、祖国の都に戻らず、バビロンに留まった。そこはアジア・アフリカ・ヨーロッパの間を取った場所である。そこでメソポタミアの占星術者とイオニアの天文学者の共同研究の場を作ったり、エジプトの建築士とアテナイの芸術家のコラボ作品を奨励したりと、オリエントとギリシャの文化交流を促進する企画をあまた打ち出した。これには、後にヘレニズム文明という名前がつく。
しかし帝王の死のあと、部下が争って領土を奪い合い、統一しかかった帝国は分解に分解を重ねていった。
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