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夢汰🌩️

1,931
それから、季節がいくつも過ぎた。
小柳ロウは、森の近くの小さな村で暮らしていた。
特別なことは何もない。
朝起きて。
仕事をして。
夜になれば眠る。
平凡な毎日。
それなのに。
時々、胸の奥が痛んだ。
理由は分からない。
悲しい出来事があったわけでもない。
なのに赤い林檎を見るとどうしようもなく寂しくなる。
「……また買うの?」
村の店主が呆れたように言った。
小柳は籠の中の林檎を見る。
「食べたいわけじゃない」
「じゃあ何で」
小柳は答えられなかった。
ただこの赤い色を見ると。
誰かを探さなければいけない気がする。
大切な誰かを。
でもその誰かが誰なのかもう思い出せなかった。
ある日。
小柳は森の中で一人の少年に出会った。
赤い籠を抱えて。
林檎を売っている少年。
「おいしい林檎はいりませんかー?」
明るい声。
懐かしい声。
小柳の足が止まる。
「……」
少年も、小柳を見る。
そして。
少し驚いた顔をした。
「え」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは少年だった。
「もしかして」
「初めまして?」
小柳は眉を寄せる。
「変なこと聞くな」
「ごめんね」
少年は笑った。
「なんとなく知ってる気がしたから」
「名前は」
小柳が聞く。
少年は少しだけ目を細めた。
「伊波ライ」
その瞬間。
胸の奥が強く痛んだ。
知らない名前。
初めて聞く名前。
なのにどうしてか涙が出そうになる。
「……」
「どうしたのロウ?」
小柳は顔を上げる。
「今」
「俺の名前」
「呼んだ?」
伊波は不思議そうに首を傾げた。
「え?」
「俺名乗ったっけ」
初対面だ。
出会った記憶はない。
「……いや気のせいだよ、言ってたじゃん小柳ロウだって」
伊波は笑った。
「そっか。じゃあ改めて」
林檎が一つ差し出される。
「よろしくね、小柳」
小柳は林檎を受け取った。
赤い果実。
昔から知っているような。
知らないような。
「なあ」
「何?」
「俺たち」
「前に会ったことある?」
「さあ?でも。初めましてって感じがしないね」
風が吹く。
森の葉が揺れる。
どこか遠くで。
林檎が落ちる音がした。
小柳は空を見る。
胸の奥に残る、不思議な感覚。
名前も。
声も。
思い出も。
何一つ残っていない。
それなのに。
確かに。
誰かがいた。
自分の人生の中に。
大切な誰かがいた、そんな気がした。
「ロウ」
呼ばれて振り向く。
「何」
「……いや」
伊波は少し笑う。
「呼んでみたかっただけ」
小柳は目を伏せた。
理由もなくまた少し寂しくなる。
でも今度は。
その寂しさを嫌だとは思わなかった。
忘れることは。
なくなることではない。
記憶から消えても。
言葉にならなくても。
誰かを大切に思った時間は。
確かに、その人の中に残っている。
泡のように消えるものでも。
夢のように薄れるものでも。
そこにあったことだけは誰にも奪えない。
「林檎買ってく?」
小柳は少し迷った。
そして。
赤い林檎を一つ手に取る。
「……一つ」
「ありがとう」
「大事に食べる」
「うん」
「それがいいと思う」
その日から。
二人はまた歩き始めた。
名前を知るところから。
言葉を交わすところから。
何度でも初めましてを繰り返しながら。
赤い林檎は今日も誰かの手の中で小さく輝いている。
まるで忘れられた約束の続きを。
静かに待つように。
END.
コメント
1件
読み終えました……。林檎の色がずっと寂しくて、でも最後にほっとする終わり方でした。「忘れることは、なくなることではない」という一文が胸に残りました。名前も思い出もなくても、確かにあった時間を信じられるロウとライの関係が、とても優しくて切なかったです。素敵な物語をありがとうございました。