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「千代、あまり根を詰めるなと言っただろう」
背後から伸びてきた逞しい腕に、すとんと身体を預ける形になった。
祝言から数ヶ月。
帝都の風も初夏の気配を孕み始めた、ある穏やかな午後のことだ。
私は久遠様の執務室の一角に設えられた自分の机で
軍に提出する「異能浄化記録」の書類を整理していた。
かつては文字を読むことすらままならなかった蔵の中の私に
久遠様が根気強く読み書きを教えてくださったおかげで、今ではこうして秘書官としての役目を果たせている。
「申し訳ありません、久遠様。ですが、この報告書を早く仕上げてしまわないと、明日の視察に障りますから」
私が振り返って微笑むと、久遠様は形の良い眉を僅かに寄せ、困ったように溜息をついた。
「お前は真面目すぎる。……少しは俺に甘えたらどうだ。仕事など、羽鳥に押し付けておけばいいものを」
「まあ、羽鳥様が泣いてしまいますわ」
くすくすと笑う私を、久遠様は逃がさないと言わんばかりに腕の力を強める。
彼の胸板から伝わる規則正しい鼓動が、私の心を芯から落ち着かせてくれる。
かつての「人斬り伯爵」の面影は、今や身内や信頼できる部下の前では影を潜めていた。
私の浄化の力が、彼の魂にこびりついていた戦場の澱みを完全に取り去ったおかげか
最近の彼は驚くほど穏やかな表情を見せることが増えている。
もちろん、私に向ける独占欲だけは、日々純度を増しているような気がするけれど。
「……千代、明日の午後は空けておけ。お前に見せたいものがある」
「見せたいもの?なんですか?」
「内緒だ。……期待して待っていろ」
その翌日
久遠様に連れられて向かったのは、帝都の郊外にある小高い丘の上だった。
そこには、見渡す限りの白い花々が風に揺れていた。
「ここは……」
「鈴蘭の群生地だ。以前、お前が本を読みながら『実物を見てみたい』と零していただろう」
驚いて隣を見ると、久遠様は少しだけ照れたように視線を逸らした。
忙しい軍務の合間に、私が何気なく呟いた一言を、彼は片時も忘れずに覚えていてくれたのだ。
私は溢れそうになる涙を堪え、一面に広がる純白の鈴蘭の中へと歩みを進めた。
清らかな香りが鼻をくすぐる。
「綺麗……っ」
「お前にふさわしい花だ。……五條の家では、お前はただの代用品として扱われてきた。だが、俺にとっては、この花のようにお前自身が、何物にも代えがたい尊い光なんだ」
久遠様は私の手を取り、その甲に誓いを立てるように唇を寄せた。
「千代。これからの人生、お前が蔵の中で失った十年間を、俺が百倍にして返してやる。お前が望む景色を、お前が望む幸せを、すべて俺が形にしてみせよう」
「久遠様……。私はもう、十分に幸せなんですよ。あなたがいるだけで、私の世界はこんなにも輝いているのですから」
私は彼の胸に顔を埋め、その温もりに浸った。
かつては「死」だけを待っていた孤独な私は今
愛する人の腕の中で「明日」を夢見ている。
丘の上、風に揺れる鈴蘭の鈴の音が、私たちの門出を祝う鐘のように優しく響いていた。
不憫な身代わり花嫁の物語は、ここで一旦幕を閉じる。
けれど、愛を知った二人の幸福な日常は
この先もずっと、一歩ずつ刻まれていくのだ。
#独占欲
#溺愛