テラーノベル
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昭和二十一年、秋。
戦争が終わってから、初めての静かな季節が、広島県の港町呉に巡ってきていました。
小高い丘の上にある北條家の庭先で、この家に嫁いできたすずは、のんびりと空を見上げていました。
すずは、幼い頃から絵を描くのが何よりも大好きな女性です。しかし、激しい空襲によって、大切な「右の手首から先」と、絵を描くための自由を失ってしまいました。
それでも彼女は、残された左手を一生懸命に使いながら、毎日を健気に生きています。
「すずさん、またぼんやりして。手が止まっとるよ」
声をかけたのは、夫の周作でした。
仕事から帰ってきたばかりの彼は、すずの隣に腰を下ろし、彼女のパタパタと風に揺れる右袖のあたりを、愛おしそうに見つめました。
「あ、周作さん、お帰りなさいませ。すいません、あそこの雲が、なんだか美味しそうな蒸しパンに見えてしまいまして……」
すずが照れくさそうに笑うと、周作も思わず吹き出してしまいました。
戦争はたくさんのものを壊し、街も、人々の心も傷だらけにしました。すずにとっても、故郷の広島にいる家族や、大切な幼なじみとの別れなど、悲しいことは数えきれません。
けれど、すずの持つ特有の「おっとりとした明るさ」は、どんなに苦しい境遇でも消えることはありませんでした。
「すずさんは、本当に変わらねぇね」
周作はそっと、すずの残された左手を包み込みました。
「右手がなくなって、最初は自分の居場所もなくなってしもうた気がしとったんです。でも……」
すずは、庭の片隅に力強く咲いている、黄色いたんぽぽに目をやりました。
「コンクリートの隙間からでも、たんぽぽはちゃんと花を咲かせます。うちも、この呉の街の片隅で、周作さんや家族のみんなと一緒に、これからも一歩ずつ歩いていこうと思うとります」
失ったものは戻らないけれど、新しい明日は必ずやってくる。
すずの柔らかい広島弁が秋の風に溶けていくのを聴きながら、周作は、この小さな妻と家庭を、生涯をかけて守っていくのだと静かに心に誓うのでした。
コメント
1件
ああ、もう、素敵すぎて胸がじんわりしました…🥺💔 戦争で右手を失っても、すずさんの「おっとりした明るさ」が消えないのが尊い。雲を蒸しパンに見立てるセンス、めっちゃ好きです。そして周作さんが右袖を見つめる視線の優しさ…ああいう細かい描写にグッときます。 “コンクリートの隙間からでもたんぽぽは咲く”——この一言に全て詰まってる気がしました。喪失と再生の静かな美しさ、ちゃんと受け取りました。続き、読みたいです🌼