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あの大騒動の夜会から、季節がひとつ巡った。
私たちは九条の本家を離れ、帝都の端にある小さな
けれど陽当たりの良い平屋で暮らし始めている。
伊織様は家名を捨てたわけではないけれど、一族の援助を一切断ち切り
今は大学での講義や古書の修復依頼を受けて、自らの腕一本で私を養ってくれている。
「……紬。またそんな、重いものを持って。俺がやると言っただろう」
庭先で洗濯物を干していた私の手から、伊織様がひょいと籠を奪い取った。
今の伊織様は、かつての軍服や夜会服ではなく
柔らかな木綿の着物に、修復作業で汚れた襷をかけている。
「ふふ、ありがとうございます。……でも、伊織様もお忙しいでしょう? 論文の締め切りが近いと言っていたのに」
「そんなものより、君が指先を荒らすことの方が一大事だ……こっちへこい」
伊織様は籠を置くと、私の手をそっと取り、縁側に座らせた。
そして、彼自身の大きな手で、私の指先を包み込むようにマッサージし始めた。
「……あ、あの、伊織様。……誰かに見られたら、恥ずかしいです」
「誰も見ていないだろ…それに、俺は今、猛烈に君『不足』なんだ。昨夜も修復作業に没頭して、君を抱きしめる時間が足りなかったからな」
「っ……!」
さらりと言うその言葉に、私の顔が火照る。
遊び人だった頃の「口説き文句」ではなく、本気で、余裕なく、私を求めてくれるその熱量。
伊織様は私の指先にそっと唇を寄せ、切なげに目を細めた。
「……紬。俺は今、世界で一番幸せな男だ。……地位も名誉も失ったが、代わりに、君という真実を手に入れた。……君の瞳に映る俺が、あの日よりも少しは『男』に見えているなら、それでいい」
伊織様は、私の膝に頭を預け、甘えるように見上げてきた。
かつての「帝都の蝶」が、今では私の膝の上で、羽を休める一羽の鳥のようだ。
「……ふふっ、男らしいです」
「…また褒めてくれるのか?」
伊織様は苦笑いしながらも、私の言葉を待つように耳をそばだてた。
その耳は、相変わらず私の視線を感じるだけで、ほんのりと赤く染まっている。
「はい。……だって、あんなに華やかな世界にいらした方が、こんなに質素な生活を、慈しむように楽しんでいらっしゃる」
「……私の作ったお味噌汁一杯を、宝石よりも大切だと言ってくださる。こんな旦那様…愛しても愛しきれません…」
「…………っ!!」
伊織様は、弾かれたように顔を上げた。
そして、あの日と同じように、顔を真っ赤にして私を抱き寄せ、そのまま押し倒すように縁側に横たわらせた。
「……紬。君は本当に、最後まで俺を『立派な男』に仕立て上げようとするんだな…」
「でもな、これは『清らかな心』なんかじゃない。……君を、この小さな家の中に閉じ込めて、俺だけのものにしたいという、最低で強欲な愛執なんだぞ」
伊織様の唇が、今度は逃がさないと言わんばかりに、深く、熱く重なった。
「尊敬」と言われるたびに、彼の理性が溶けて、甘い独占欲へと変わっていく。
彼は唇を話すと、私の顎を持ち上げ、目線を合わさせてくる。
「……尊敬なんて、もう言わせない。……愛していると言え、紬。……俺だけを、愛していると……」
「……ふふっ…言われなくても、始めから愛していますよ、伊織様」
私がそう囁くと、伊織様は泣きそうなほど幸せそうな顔をして、私の首筋に顔を埋めた。
「フィロソフィア」を極めた男が、最後に辿り着いた真理。
それは、一人の女性を、余裕をなくすほどに愛し抜くことだった。
庭先の勿忘草が揺れる中、私たちの新しい物語は、まだ始まったばかり。
伊織様の耳は、今日も私の「尊敬」と「愛」の言葉で、世界で一番幸せな色に染まっているのだった。
#シリアス