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リアを乗せた救急車が後から駆けつけたパトカーの回転灯を反射させながら病院に向けて発車する。

 それをウーヴェがいつも座っていたお気に入りのチェアの背もたれに手をつきぼんやりと見送ったリオンは、皆と一緒に駆けつけてくれたヒンケルに感謝の言葉を告げ、初動捜査の為に制服警官や鑑識の刑事達がクリニックの内外に犯人の手がかりが残っていないかを探るために調べ始めるのを横目に、ヒンケルとブライデマンに詳細を話し始める。

「いつかのように強盗ではないな?」

「Ja.隣の小部屋の貴重品入れも受付にある金庫も全く手が付けられていませんでした」

 それらのことから今回の事件が強盗や営利目的の誘拐ではないと判断したリオンに頷いたヒンケルは、デスクに並べられているウーヴェの私物へと目をやり、財布と携帯がないのはコーヒーを買いに出かけたためかと腕を組む。

「Ja.今日は書類整理に時間を少し取るので気分転換を兼ねてカフェにコーヒーを買いに行くと出ていったそうです」

 その後三十分も経たないうちに経験した痛ましく恐ろしい事件を泣きながらリオンに告げたリアの言葉をなるべく感情を込めずにそのまま報告したリオンは、まだそれほど遠くに行っていないのではないかとブライデマンが周囲を見回すように顔を巡らせるが、それは午後の早い時間で、二時間以上は経過していることをリオンが付け足すと悔しそうに唇を噛む。

「今から緊急配備を敷いても間に合わないか」

「多分」

 二時間あればアウトバーンを利用すれば200キロ以上離れた場所にまで行ってしまえることを脳内の地図を頼りにヴェルナーが呟く。

「とにかく情報を集めろ。コニーがまだ署に残っているだろうから連絡を取れ。ドクの誘拐とフラウ・オルガへの暴行、殺人未遂で捜査を始める」

 ヒンケルが飲みに行くときとはまったく違う顔で部下達に命令を飛ばしブライデマンも携帯でどこかに連絡を取っているが、その様子をどこか遠い世界の様に感じていたリオンは、ヒンケルの何度目かの呼びかけに我に返り部屋の隅に呼ばれてついていく。

「ボス?」

「……今日はドクの友人達と飲み会だと言っていたな」

 その友人達はウーヴェと連絡がつかないのかと問いかけ先程までここにいたカスパルも午後からずっと電話をしているが連絡がつかない、クリニックの電話も出なかったから駆けつけたと言っていた事を伝え、その時間が即ちウーヴェが誘拐された時間だと頷き合うが、一人の制服警官が地下駐車場に降りる階段で発見したウーヴェの眼鏡を袋に入れて持ってくる。

「ドクの眼鏡だな」

「間違いありません」

 眼鏡は視力矯正のために掛けているわけではないが過去に向き合うためにウーヴェが必要としたそれを、いくら昨秋に過去に関する蟠りが全て解けたからといって手放せるはずがなかった。

 その眼鏡が階段に落ちていることから導き出されるのは強制的な身体の拘束を受けた事実で、ぐっと拳を握ったリオンが誘拐の目的と呟いたとき心配そうに目を伏せる一人の女性の顔が脳裏に浮かび、電流が流れたときのように身体を小さく跳ねさせてしまう。

「どうした?」

「……親父への報告はどうしますか、ボス」

「親父?……バルツァーの会長か」

「Ja.」

 もしかするとバルツァーの会社絡みの誘拐ではないかと最悪の事態をなるべく想像したくない思いからリオンが口にするが、ウーヴェは会社の株をいくらか保有しているだけで直接経営に関わっていないこと、会社とは距離を置いていることを誰よりもリオンは知っていたため、気休めから出た言葉を自ら否定する。

「そんな訳ねぇか」

「その線も念のため調べておいた方が良いな。リオン、コニーと一緒に会長の家に行ってこい」

「……でも」

 ウーヴェが誘拐されたことはこの街に暮らす一人の一般市民の命が危機にさらされていることでもある、それが刑事の家族であっても一市民であることに変わりは無いとリオンが危惧している悩みに思いを馳せてその顔を見上げると、だからコニーと一緒に行ってこいと繰り返す。

「……ありがとうございます、ボス」

「ああ」

 一礼したリオンがクリニックを飛び出して行く背中を見送ったヒンケルは、二年前のように最悪の状況を想定しそうならないようにするにはどうすれば良いのかを相談するためにブライデマンの傍に向かうと、事の次第によってはリオンを捜査から外すことを苦渋の思いで伝える。

「……家族が絡む事件の捜査には加わらせられないからな」

「ああ」

 あの時、姉を失ったショックからリオンを救い出したのはウーヴェだったが、そのウーヴェが今あの事件の犯人-なんと不愉快な言葉だろう-に連れ去られてしまったことから暴発したリオンを抑えられる人がいないことに気付き、苛立たしそうに髪をかき乱して舌打ちをする。

 ここにジルベルトが来た確たる証拠、特に物証を探せと制服警官や鑑識に命じたヒンケルの脳裏に今日の午後見たロスラーの検死報告書の写真が思い出され、身体を自然と震わせてしまう。

 態度は横柄だし上司を上司とも思っていない言動を平気で繰り広げるリオンだが、それでもヒンケルにとっては大切な部下だった。

 その部下が最も愛する人があのような無残な姿で発見されたとすればと恐ろしい想像を止めることが出来なかったヒンケルだが、何とかそれを押しとどめて大丈夫だと己に言い聞かせるように呟くとブライデマンの訝る視線に険しい顔で頷く。

「モーリッツ、BKAで得ている組織についての情報を全部教えろ」

「ああ」

 厳つい顔を更に険しくさせたヒンケルにブライデマンも頷き、ここは部下達に任せて一度署に戻ろうと歩き出す。

 その後を追うように足を踏み出したヒンケルは、リアの治療に当たっている病院へ誰か向かってくれと命じるが、既に制服警官を派遣していることをマクシミリアンが返した為に後を頼むと告げ、物々しい雰囲気に包まれたアパートを出て行くのだった。


 ヒンケルらよりも先に署に戻ったリオンはヴェルナーからの連絡を受けていたコニーが出かける準備をしていたために手短に事情を説明するが、黙って頷かれた後感情が邪魔をして言葉に出来ない思いを伝えるように肩に手を置かれたため、ヒンケルと同様掻き消すことの出来ない不安を一瞬だけ忘れる事に成功する。

「……一緒に行ってくれねぇか」

「もちろんだ」

 俺が運転するから助手席で警部やブライデマンと今後の事について話をしろと請け負ってくれたため、本当にこの同僚には様々な面で助けられてきたが大きな存在だと改めて気付かされる。

「……ダンケ、コニー」

「ほらほら、いくぞー」

 暢気さを装っていることを本能的に見抜いているからかリオンも一つ肩を竦めて夜のドライブだー、楽しくないなーと軽口を叩いてコニーの後についていく。

 ヒンケルと一緒に乗ることが多い覆面パトカーに乗り込んだ後すぐさま携帯を取りだしたリオンは突然の来訪で必要以上に驚かせたくないとの理由からレオポルドの携帯に電話をかけるが、すぐさまどうしたウーヴェと喧嘩でもして家を追い出されたのかとリオンをからかう声が聞こえてきて咄嗟に返事に詰まってしまう。

『リオン?』

「……親父、ちょっと聞きたいんですけど、オーヴェそっちに行ってないですよね」

『なんだ、家を出たのはお前じゃなくてウーヴェか』

 ケンカをして飛び出したウーヴェの行き先を今調べているのかと笑われるがさすがにそれに笑い返す余裕がなかったリオンの耳に沈黙が流れた後、何があった、ウーヴェがいなくなったのかと事態の核心を突く言葉が流れ込む。

「……詳しい話をしたいので今そちらに向かってます」

『お前一人か?』

「いえ。同僚と一緒です」

 その一言からレオポルドが何かを察したのか耳が痛くなるような沈黙を産んだ後分かったとだけ答え、とにかく気をつけて来いとリオンを気遣う言葉を残して通話を終えてしまう。

「大丈夫か、リオン」

「……さすがに親父は勘が鋭いよなぁ」

 いなくなったのかと言い当てられてしまったと肩を竦めたリオンはとにかくこれからヒンケルよりも厳つい男に会わなければならないのだからと気を引き締め、その緊張からどちらも口を開くことがなく小一時間も掛からずにバルツァーの屋敷に着くと、リオンの来訪を伝えられていたからかヘッドライトが門の中を照らして間もなく門扉が静かに開いていく。

 去年の秋に二週間ほどウーヴェが実家に滞在し、そのうちの半数をリオンも一緒に滞在したこの屋敷だが、ウーヴェがいない時に来るのは三回目だった。

 前にレオポルドの護衛をする事になり訪れたのだが仕事で来るのはそれ以来だと何となく考えていたとき、噴水を回り込んで玄関に上がる為の階段下にコニーが些か乱暴に車を止めると、背の高いドアが開いてナイトガウンを身に纏ったレオポルドが姿を見せる。

「どういうことだ、リオン」

 こちらに理解出来る様に説明をしろと低く告げるレオポルドにコニーが夜分遅くに申し訳ないと謝罪をしリオンの同僚だと自己紹介をすると、鷹揚に頷いたレオポルドが二人を中に招き入れる。

「レオ……」

「リッド、一緒に話を聞くか?」

 リオンからの電話に心なしか浮かれた声で対応していたレオポルドだったが声の調子が急変したことから良くないことが起きたと察したイングリッドは、一人では聞けないが夫とならばどんな話でも聞くと頷き二人と一緒にリビングに入っていく。

「親父……、オーヴェが……いなくなった」

 夕方に発覚した事件についてどう説明すれば良いのかを悩みながら何とか伝えようとしたリオンは、いなくなったとはどういうことだと問われその声に自然と背筋を伸ばしてしまうが、答えたのはリオンではなくコニーだった。

「今日の午後、ドク……ご子息が気分転換を兼ねてコーヒーを買いに行くとフラウ・オルガに伝えてクリニックを出ましたが、それから連絡がつかなくなりました」

「!!」

 コニーの言葉にイングリッドが一瞬で血の気を失い夫の肩に寄りかかるように身を寄せると、レオポルドも無意識に妻の身体を支えるように腕を回す。

「おそらくそれと同じ頃だと思いますが、フラウ・オルガが何者かに襲われ足を刺される事件があり、先程病院へ搬送されました」

「どういうことだ!」

「リオンとドクの同級生が偶然クリニックに出向いたときにフラウ・オルガの負傷とドクがいなくなったことに気付きました。それが、今から1時間前のことです」

 その後の初動捜査の結果、クリニックが入居するアパートの駐車場に止まっていたスパイダーの傍でタバコの吸い殻と上の階段でウーヴェの眼鏡を発見したことを伝え深呼吸をする。

「そのことからドクが誘拐されたと判断し、捜査本部を立ち上げることにしました」

「誘拐……おお、ウーヴェ、ウーヴェ!」

 リオンが淡々と告げる言葉にイングリッドの身体が小刻みに震え顔を両手で覆って悲嘆の声で息子の名を呼びレオポルドも呆然と目を瞠っているが、誘拐の目的はなんだ、犯人からの脅迫などはないと声を震わせる。

「おそらく誘拐の目的はドクへの復讐です」

「復讐だと? あの子が誘拐されるほど誰かに恨まれていたとでも言うのか!?」

 俄には信じられない、親の欲目を差し引いてもあの子は人との距離を大切にし恨まれるような行為を自ら取るはずがないと断言した時、リオンが顔を上げているのが限界だというように足の間に頭を押し込んで身体を丸めてしまう。

「リオン?」

「……俺のせいです」

「おい?」

 リオンが身体を小さくしながら自分のせいだと繰り返す様にさすがに尋常ではない何かを感じ取ったレオポルドがコニーに事情を説明してくれと目を細めるが、中々言い出さないことにじれて先を促すとコニーも腹を括ったように腿の上でぎゅっと拳を握る。

「ドクを、ご子息を誘拐したのは……私たちの元同僚の男だと思われます」

「元同僚? ……あの人身売買事件か!」

「はい。数日前にフランクフルトで同じく事件に関係していた元刑事が死体で発見されたこと、負傷したフラウ・オルガが二年前の恩返しだと男が話したと言っていることから人身売買組織の一員のジルベルトの犯行だと判断をしました」

「!!」

 その言葉からリオンの尋常ならざる様子もコニーが重い口を開いても歯切れの悪い調子で告げる理由も理解出来たレオポルドは大きな手で額を押さえて復讐と呟くが、イングリッドが何故ウーヴェが復讐されるのだという尤もな疑問を口にする。

「あの子が、その元同僚の方に直接恨まれるようなことをしたのですか?」

 警察関係者でもない一介の精神科医が何をしたのだと涙を堪えつつコニーをまっすぐに見据えながら問いかけるイングリッドに答えたのはリオンで、あの時、事件を解決へと導いた手帳があったがその手帳を持ってきたのがウーヴェだったと告げて掌で顔を拭う。

「その手帳にはフランクフルトの責任者だった刑事の連絡先も書かれていました。それをオーヴェに預けたのは……俺の、姉、です」

 あの時リオンを護りたい一心で彼女がウーヴェに手帳を送り事件を解決へと導いてくれたのだがまさかこんな形で報復されるとは思わなかったと、蒼白な顔色でイングリッドの目をまっすぐに見つめたリオンは、だから今回オーヴェがジルに誘拐されたのは俺のせいですと、握った拳を腿に押しつけつつ歯ぎしりの奥から伝えるが、覆い被さるように投げかけられた声に呆然と目を見張ってしまう。

「ふざけるな。お前の姉が預けたからと言って何故お前のせいになる。お前と姉は別の人間だろうが」

「……!!」

 家族が犯した罪が係累に及ぶというのならお前が育った児童福祉施設の子ども達も皆犯罪者になる、そんな愚かなことにも気付かないのかと怒鳴られてしまい驚きにただレオポルドを見たリオンは、あの事件ではお前も被害者だったはずだと打って変わった優しい声で労られてしまい、奥歯が砕けそうなほど歯を噛み締めこみ上げる感情を押し殺す。

「会長、ご子息……ドクの行方を全力で我々も追います。この後警察の発表があると思いますが、今回の誘拐は営利目的ではないので会社に脅迫状が届いたりはないと思います。ただ、マスコミが取材に来る可能性はあります」

「ああ、分かっている。その辺は顧問弁護士と話をしておく。……コニーと言ったな」

「はい」

「……あの子を、ウーヴェを、どうか一日も早く見つけてくれ」

 そしてリオンと一緒に二人で自分たちの前に顔を見せられるように全力で捜査に当たってくれ、こちらも協力は惜しまないと子どもを思う親の顔で頭を下げたレオポルドにコニーの背筋が再度伸び、全力を尽くしますとだけ答えるとリオンも気合いを入れるように己の頬を両手で叩く。

「……親父、ムッティ、心配を掛けさせるけど、俺たちも頑張るから」

 親父の言うように一日でも早くウーヴェを発見するからどうか待っていてくれと告げると、レオポルドの大きな手がリオンの頭に載せられる。

「……頼んだぞ、リオン」

 その一言に込められた膨大な思いがリオンの肩にのし掛かるが今まで何度もウーヴェに告げていた言葉を思い出して深呼吸を繰り返すと、レオポルドの言葉から力を分け与えられたと教えるような太い笑みを浮かべる。

「次にここに来るときはオーヴェと一緒にくる。約束する」

「ああ」

 その言葉を合図にリオンの中で何かが切り替わったのかコニーに合図を送ると、遅くに申し訳ないともう一度詫びつつコニーが立ち上がる。

「リオン」

 長い廊下を沈黙したまま歩くコニーとリオンだったが、後をついてきていたイングリッドに玄関先で呼び止められ振り返ると同時に柔らかな腕に包まれて目を見張る。

「ムッティ?」

「……神よ、どうかウーヴェを無事にリオンの元にお返し下さい」

 抱き寄せながら告げられる祈りの言葉にリオンが拳を握った後、そっとそれを開いてイングリッドの震える背中を抱きしめる。

「ダンケ、ムッティ。オーヴェと一緒に帰ってくるからさ、またムッティの料理食わせて」

「ええ、ええ。好きなだけ食べなさい。チーズケーキとリンゴのタルトを用意して待っているので二人で一緒に戻ってくるのですよ」

「うん」

 あなたの息子と一緒に必ず戻ってくると約束をし二人を見守るレオポルドにも頷いたリオンは、事件が動けば報告をすること、調べておいて欲しいことなどが出てくればまた連絡をすると残し、一足先に階段を降りていたコニーを追いかけるように一歩を踏み出す。

 走り去るシルバーの覆面パトカーを見送ったレオポルドは顔を覆うイングリッドの肩を抱き必ず二人で戻ってくるから大丈夫だと自らにも聞かせるように強い口調で妻を宥めるが、家人に命じて長年の友人であり顧問弁護士を務めるウルリッヒに連絡を取らせ、テレビを付けて事件に関するニュースがないかをチェックしつつギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスに事の事情を説明するために連絡を取る。

 レオポルドの予想は当たり、ニュース番組の中で速報の扱いとしてウーヴェが誘拐されたことと事務員が負傷した事を淡々と報じていたため、明日の朝は嘆き悲しんでいる余裕はないと腹を括るのだった。

 春を迎える直前の夜、ちらちらと降り始めた雪は事件に奔走する人達の身体だけではなく心までをも冷やすように世界を覆い始めるのだった。




Über das glückliche Leben.

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