第四話 潰される希望の声
地下室の空気は、朝よりさらに重たく感じた。
明が出勤してから、どれだけ時間が経ったのか――
最初の頃は数えていたはずなのに、もう数字が曖昧だ。
薄暗い照明がじりじりと揺れて、
その光だけが唯一の“時間の手がかり”みたいに見えた。
晴明は膝を抱え、壁にもたれかかる。
布団の端をつまんだ指が、わずかに震えていた。
「……今日で……何日目なんだろ……」
この数日の生活は、明の気配とともに始まり、
明の声とともに終わる。
それ以外は、息をひそめたような静寂だけが続いていた。
晴明は、ふっと息を吐いた。
「……誰か……気づいてくれないかな……」
声に出すと、余計に胸がきゅうっと締めつけられる。
職場の机、置きっぱなしの荷物、授業のプリント。
自分の突然の不在に、同僚の誰かが気づいてくれるはずだ。
職員室で「晴明どこ行った?」と誰かが言ってくれるかもしれない。
そんな小さな希望を、晴明はまだ捨てられずにいた。
「明くん……こういうの、すぐバレちゃうよ……
僕、突然いなくなったんだよ……?」
自分に言い聞かせるように呟いた、その瞬間だった。
――ガ、……ザァ……。
スピーカーから微かなノイズが走る。
心臓が跳ねた。
「……明……くん……?」
薄暗い天井のスピーカーから落ちてくる声は、
優しくて、それでいて底のないものだった。
――ちゃんと聞こえてるよ、お兄さん。
晴明の背筋が強張る。
「どうして……急に……」
――ずっと聞いてたよ。
お兄さん、誰かに気づいてほしいんだって思ったから。
「……っ」
言葉が喉でつかえる。
明は、ずっと見ていた。
声も、息も、独り言さえも――
全部ひとつ残らず。
――安心していいよ。
お兄さんが“消えた理由”、ちゃんと説明しておいたから。
「……説明……?」
――“療養で休暇に入った”ってね。
診断書も僕が書いたよ♡
医者だから、書類なんて簡単だよ?
ぽたり、と手から布が落ちた。
「……そんなの……勝手に……」
――勝手じゃないよ。
お兄さんが必要としてるからしたの。
「僕は……言ってない……そんなの……
明くん、それ……僕の……生活……」
――奪ったよ。
だって、お兄さんは僕のものでしょ。
明の声は、いつも通り穏やかだった。
その穏やかさが、なにより恐ろしい。
晴明は目を伏せ、吐息だけが震えた。
「……じゃあ……みんな……僕がここに……」
――誰も疑ってないよ。
“家で休んでる”って思ってる。
探しに来る人なんていない。
その言葉は、静かに、しかし確実に
晴明の中の最後の灯りを踏み潰した。
胸がぎゅうっと痛む。
涙がひとつ、頬を伝って落ちた。
気づいてほしい。
声をあげたい。
でも、誰にも届かない。
ここにいるのは自分だけ。
世界からちぎられたみたいだ。
――ねぇ、お兄さん。
“誰にも見つけてもらえない”ってどんな気分?
スピーカー越しの声が優しく問いかける。
――静かでしょ?
世界で一番、お兄さんの音がよく聞こえるよ。
「……やだ……こんなの……やだよ……誰か……」
――大丈夫。
僕だけは、絶対に見つけてる。
お兄さんが泣く音、息の震え、全部。
全部、僕がいちばんよく知ってるんだから。
「……っ……明く……やめて……そんな言い方……」
――やめないよ♡
夜になったら帰るからね。
泣き顔、全部見せてよ……お兄さん。
その声を最後に、スピーカーは沈黙した。
残ったのは、晴明の息だけ。
自分がここにいる証拠のように、
小さく、ちいさく響き続けた。
コメント
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部屋にスピーカーがついていたなんてしかも晴明君の事をずっと視てたのか…これなら確かに名前を呼ばれたら気がつく! 明くんしごできだな…これは晴明君どうなる?続き楽しみにしてます!