第五話 逃げ場のない午後
昼下がりの地下室は、昼でも薄暗い。
照明の光が揺れ、壁に長い影を落とす。
晴明はベッドの上でじっと座っていた。手首の拘束は解けない。
でも、心のどこかで――ほんの少し――逃げたい衝動が芽生えていた。
「……ここから……出られないかな……?」
誰にも聞かれないはずの呟きが、空気に溶けて消える。
でもその小さな声は、自分の心を奮い立たせた。
ベッドをそっと降りる。
拘束具は痛むけれど、手首をぐっと引き寄せて、わずかな隙間を探す。
明の注意が及ばない間に、扉の鍵穴に目をやった。
「……いける……かも……」
地下室の隅に積んである段ボールを踏み台にして、鉄製の扉に手を伸ばす。
身体中の神経が緊張していた。
汗が背中を伝う。胸が早鐘のように打つ。
――ギィ。
扉に指をかけた瞬間、扉の外から明の声が響いた。
「お兄さん……何してるの?♡」
心臓が凍る。
呼吸を止め、身体を縮める。
明の声は甘く、怒りはない。
でも、逃げられないことを確信させる力があった。
「……っ……明くん……見て……
僕、ただ……歩こうと……しただけ……」
「うん、わかるよ♡
でもね、僕が許さなきゃダメなんだよ」
ゆっくり、扉の鍵が外される音もなく、明は地下に降りてきた。
服は白衣のまま、手には何も持っていない。
その姿が、晴明には最も恐ろしい光景に見えた。
「……お兄さん、今日は少し反抗したね……」
明の目が、じっと晴明を見据える。
怒鳴らない。叩かない。
ただ、目だけで全てを制する。
その無言の圧力に、晴明の身体が硬直した。
「……ご、ごめん……もうしない……」
「うん♡ でも、お仕置きは必要だね」
明は手のひらを広げて、晴明の肩に触れた。
優しいけど冷たい感触。
その瞬間、晴明はご飯が出ないことを思い出す。
昼食が抜かれていたことを理解した。
水だけが置かれ、食べ物は与えられていない。
明は、食事を制限することで
「自分の許可なしには満たされない」という
心理を教えていたのだ。
「……っ……ひ、ひどいよ……明くん……
ご、ご飯……」
「我慢して。
お兄さんが僕の言うことをちゃんと守れるか、確認したいの♡
ねぇ、ちゃんと僕の許可なしには動かないよね?」
首を横に振ることしかできない。
拒否する力は残っているのに、身体は従うしかない。
そのジレンマが胸を押し潰す。
「ふふ……よし、じゃあもう少し“静かに反省”しててね♡」
明は満足そうに笑い、地下室をゆっくりと歩き回る。
そのたびに、晴明の胸は冷たく締め付けられた。
数時間後、明が再び鉄の扉の前に立つ。
夕方の光が少しだけ差し込む頃だった。
「お兄さん、今日の反抗はどうだった?」
「…明くん……もう……何もしたくない……」
「そう? でもね、僕が帰ってくるまでの間、ちゃんと反省してたでしょう♡
僕は全部見てたよ」
その言葉に、晴明は泣いた。
悔しくて、情けなくて、どうしようもなく泣いた。
明はそっと、肩に手を置き、髪を撫でる。
「大丈夫だよ、お兄さん♡
少しずつ、僕のものになっていくんだから」
その言葉に、晴明の心がわずかに折れた音がした。
でも身体はまだ、逃げたいという本能を残している。
次はいつ、どのくらい折れるのか――
それを、明は楽しむかのように微笑んだ。
地下室に、静かな夜が訪れる。
ご飯抜きで、身体も心もじわじわと締め付けられる。
逃げることも、許されない。
明の全てが支配する世界に、晴明はゆっくり、確実に飲み込まれていった。
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