テラーノベル
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「⋯⋯⋯⋯はぁ。参ったね、ほんと」
ライエルがふと目を伏せ
ひとつ深く息を吐いた。
静かに背筋を伸ばし
その瞳がゆっくりと
先ほどまでの柔和さを脱ぎ捨てていく。
──刹那
空気が変わった。
その表情は、まるで別人のようだった。
目の奥に浮かぶのは
澄んだ水ではなく、底知れぬ深淵の光。
唇の端が、ゆっくりと冷笑を描く。
「おや⋯⋯
おはようございます、アラインさん」
時也は変化をすぐに見抜いていた。
しかし、動揺は見せず
むしろどこか慣れたように
穏やかな声で挨拶を返す。
アリアは相変わらず沈黙のままだったが
その深紅の瞳だけが
静かにアラインを見つめていた。
「喫茶桜に
そんな財力があったとは驚きだよ。
さすがは、アリアの〝涙の宝石〟か。
ハンターに血と共に狙われるのが
良くわかったよ」
アラインは寛いだ仕草で椅子に凭れ
足を組んだ。
その口調は軽やかだったが
その奥に潜む〝計算〟は
決して隠れていなかった。
時也は軽く微笑みながらも
視線をまっすぐに返す。
「くれぐれも、この事は
ご内密にお願いいたしますね?」
「もちろん。
ボクは口の堅い情報屋だからね?
⋯⋯喫茶桜の守りの強さは
よく知っているつもりさ」
アラインは
指先でコーヒーカップの縁をなぞると
ふっと鼻で笑った。
「キミがそこまで本気を出したなら⋯⋯
ボクも、がんばろうかと出てきただけさ。
孤児院の設立は、ボクに任せて?
BAR Schwarzの情報屋として
ツテはあるからねぇ」
時也はその言葉に、少しだけ眉を上げた。
「具体的には⋯⋯?」
「そうだね──
まず〝物件〟これは目星がある。
古い教会施設で、立地も悪くない。
ただ、改装費がかかるけど、そこは⋯⋯
スポンサーさんにお願いしようかな?」
「⋯⋯⋯⋯」
時也が苦笑するのを見て
アラインは口元だけでにんまりと笑った。
「次に〝設立許可〟だね。
これは市と行政に申請を出す必要があるけど
表向きの代表が〝誠実で清廉〟なら
そう時間はかからない。
お役所ってのはね
〝疑われにくい顔〟に弱いんだ。
ライエルは、その点で完璧だよ」
「確かに、彼の誠実さは⋯⋯
誰の心も揺らすでしょうね」
「でしょ?
次に必要なのは〝人員〟と〝物資〟。
教育・福祉関係者、医師、調理師
介護士、保育士──
これらの職種の登録が必要。
登録制の国だから、無資格者は使えない。
だからそこは、BAR Schwarzの情報網を
フルに使って、スカウトする」
「⋯⋯信用できる人材ですか?」
「〝動かしやすい人材〟って言い方の方が
ボクにはしっくりくるかな」
そう言って、アラインは肩を竦める。
「もちろん
彼らには〝目的〟と〝報酬〟を提示する。
理想だけじゃ、腹は膨れないからね」
「現実的ですね」
「理想だけで突っ走ったら
どこかの誰かみたいに燃え尽きるだけだよ?
──ま、それでも、神父様が前に立つだけで
施設の空気は変わるさ。
ライエルの〝顔〟と、ボクの〝足回り〟。
悪くないコンビでしょ?」
時也は少し考えるように目を伏せ
やがて静かに微笑んだ。
「⋯⋯ええ、期待しています。
アリアさんも
きっと同じお気持ちでしょう」
沈黙を守っていたアリアは
そっとカップを持ち上げ、微かに頷く。
その仕草に
アラインの目が僅かに細められた。
(⋯⋯なるほどね)
心の中で独り言ちた。
(キミたちの〝信頼〟は、本物って訳か⋯⋯
さて、〝信じる〟という力が
どこまで通用するか)
「──ま、こっちの下準備は始めておくよ。
設立日や予算の細かい擦り合わせは
後日改めて。
⋯⋯スポンサー様の
お時間が空いてる時にね?」
そう言って
アラインは優雅に立ち上がると
ジャケットの裾を整えた。
「⋯⋯失礼するよ。
今日は情報屋として
ちょっと〝買い出し〟があるんでね」
そう残して、アラインは部屋を出ていった。
残された空間に漂うのは
どこか気怠い香りと、静かな決意。
──そして
その裏には
誰にも知られぬ水面下の駆け引きが
すでに始まっていた。
⸻
黄昏の街に、冷たい風が吹き抜けていた。
アラインは、漆黒のコートを靡かせたまま
夜の役所の前に立っていた。
時也の小切手を
懐にしまい込んでからというもの──
彼は息をつく間もなく、動き出していた。
孤児院付き教会の設立。
そのために必要なものは、金ではなく
〝認可〟と〝信用〟だった。
まず向かったのは、市の福祉課。
閉庁ギリギリの時間
カウンターの奥で
書類を仕分ける若い職員に声をかける。
「こんばんは。
ちょっとだけ、時間いいかな?」
笑みを浮かべたアラインの声は
極めて穏やかで
どこか安心を与える響きを持っていた。
彼の第一印象は
人の記憶に〝入り込む〟ための最初の接点。
数分の会話だけで
人は彼に親しみを覚え
〝話してもいい〟と判断する。
「孤児の保護と教育を目的とした施設を⋯⋯
それも宗教的支援と併せてね。
──そういう場を作ろうとしてる。
協力してもらえるかな?」
その瞳に揺れるアースブルーの光に
職員は不意に呼吸を止める。
直視していると
自分の中の何かが
そっと撫でられているような錯覚に陥る。
「⋯⋯はい。詳細を、お伺いします」
その一言を引き出すまでに
彼はわずか五分も要さなかった。
だが、アラインにとって──
〝能力〟はすぐには使えない。
記憶を改竄するには
相手とある程度の関係を築く必要がある。
信頼か、愛着か、尊敬か──
いずれかの感情が、自分に〝触れる〟まで。
だから彼は、まず話す。
冗談を混ぜながら
相手の家庭事情、職歴、趣味にまで触れ
共通点を探し出し
必要とあらば、一杯のコーヒーを振る舞い
数日後には菓子折を持参して再訪する。
時間がかかる?
構わない。
〝使える駒〟に変えるためなら
どれだけでも。
やがて、市の担当者たちはアラインを
〝信頼できる代表者〟
として受け入れ始めた。
〝孤児院兼教会〟という構想は
〝彼ならばできるかもしれない〟と
現実味を帯びていく。
ただ──問題は〝人材〟だった。
医師、保育士、調理師
介護士、カウンセラー⋯⋯
国家資格が必要な職種ばかり。
だが、今のノーブル・ウィルに
それらを本当に持っている者は
誰一人いない。
けれど、彼らは優秀だった。
元・フリューゲル・スナイダーの精鋭。
もし彼らが
自分達は〝資格を持っている〟と
思い込んでいたなら──それでいい。
「キミは、大学時代
児童心理学を専攻していたよね?
卒業後、保育士資格を取得した」
「⋯⋯あれ、そうでしたっけ⋯?」
「そうだよ。大変だったじゃないか?
ほら、徹夜でレポート仕上げてさ⋯⋯」
「⋯⋯ああ⋯⋯思い出してきました」
それは、記憶の〝塗り替え〟
優しさに満ちた言葉と
手触りのような記憶が伴えば──
人は〝それが本当だった〟と信じてしまう。
アラインは
それを一人ひとりに対して繰り返した。
時間をかけて、丁寧に、穏やかに
記憶の奥に〝偽の経歴〟を埋め込んでいく。
「安心して、キミはちゃんと持ってるよ。
資格も、誇りもね──⋯」
そして、次は書類。
行政へ提出する職員名簿には
すでに〝資格あり〟の印が並んでいた。
アラインが手を加えたそれらは
公式記録を一つずつ〝合致〟させるため
役所側の人間にも適度な改竄が施される。
──資格証が確かに届いていた、という記憶。
──大学で確かに彼の名を見た、という記憶。
──同僚から聞いた
〝あの人、前は保育園で働いてたらしい〟
という噂。
一人では出来ない。
けれど、人と人を繋げば
世界は勝手に〝真実〟を造り出してくれる。
数週間後。
仮設の施設──
古びた石造りの教会が
改装の足場に囲まれる。
アラインの目は
それを見上げながら静かに細められた。
(⋯⋯まったく。
面倒な手段を取るはめになったよ)
BAR Schwarzの片隅に設けた
仮の事務室では
スタッフ達が新しい肩書きに戸惑いながらも
書類の整備や現場の打ち合わせを進める。
──誰一人
己の過去が〝書き換えられた〟
などと思いもせず。
──誰一人
アラインの冷たい瞳が
どこまで見抜いているかにも気付かずに。
彼の指先が一つ音を鳴らすだけで
善あるスタッフ達は
ハンターの精鋭部隊へ立ち戻る事ができる。
「⋯⋯さあ。
舞台は整ってきたよ、ライエル」
闇に揺れる精神世界の奥
鏡面の向こうで静かに眠る人格に
アラインは微笑んだ。
「キミの〝理想〟が
この現実の中で、どこまで通じるのか──
実に⋯⋯興味が尽きないよ」
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