テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
──ある日。
午後の陽射しが傾きかけた頃
喫茶桜の扉が静かに開いた。
カラン──
と、鈴の音が店内に響く。
レイチェルが軽やかに振り返ると
そこに立っていたのは
見るからに疲れ切った様子のアラインだった。
艶やかな黒髪はやや乱れ
アースブルーの瞳はほんの僅かに翳っている。
黒のロングコートの裾を引き摺るようにして
カウンター席に腰を下ろすと
重く息を吐いた。
「⋯⋯はぁ。
ようやく、ひと段落、ってところかな」
カウンターの奥では
時也がドリッパーに湯を注いでいた。
彼はその手を止めず
穏やかな笑みのまま声をかける。
「アラインさん。お疲れのようですね」
「あぁ、ほんとに⋯⋯まったく。
行政の認可、教会跡地の改装
スタッフの身分整備、契約書類の準備⋯⋯
ようやく全部、揃ったよ」
静かに置かれたカップに注がれるのは
今日のブレンド。
その香りが
アラインの張り詰めた空気を
少しだけ解いた。
「今日、全部通ったよ。
市の福祉課、建築管理課
それに宗教法人としての申請も。
役所側の窓口職員とも
それなりに顔見知りになれたし⋯⋯
もう〝仕込み〟は済んだ」
アラインは
ふぅと短く息を吐くように呟く。
その言葉の裏にある努力と手間を
時也は知っていた。
だからこそ
その報告には、静かに頷きを返す。
「それは⋯⋯本当に、お疲れ様でした」
アリアは特設席で
黙ってその様子を見守っていた。
「〝ノーブル・ウィル〟の表看板としては
これでようやく〝顔〟が立つ。
ハンターではなく
慈善活動団体らしく、ね。
あとはもう──彼にバトンを渡せばいい」
アラインは
カップを指先で転がすように撫でた。
ほんのわずかに口角を上げるその表情には
疲労の色と共に
どこか達成感が滲んでいた。
「ねぇ、時也。
キミの〝信頼〟って、ほんとに厄介だよ?
⋯⋯でも、少しだけ気持ちが解る気がする」
そう言いながら
彼は眼差しだけでアリアを見やる。
そこに敵意は無かった。
ただ、静かな観察の色が揺れていた。
「⋯⋯じゃ、これでボクの仕事は一段落。
あとは⋯⋯〝彼〟の出番ってわけだ」
アラインはそう言って
背凭れに深くもたれかかった。
店内には
やがてコーヒーの香りと
桜の木の優しい気配が満ちていく。
──そして
〝ノーブル・ウィル〟という名の幕が
正式に上がろうとしていた。
⸻
「⋯⋯おや。眠ってしまわれましたか」
低く、柔らかい声が静寂に溶けた。
カウンターに突っ伏したまま
アラインは穏やかな寝息を立てていた。
濃い黒髪が頬にかかり
その睫毛は翳りを纏って
どこか幼さすら滲ませている。
時也は隣で
片付けを続けていたソーレンを一瞥した。
だが、彼は両手にパフェの器とグラスを抱え
冷蔵庫に向かっていた。
(⋯⋯僕が、運ぶしか無さそうですね)
静かにカウンターを回り込み
そっとアラインの背に手を添える。
もう一方の腕で膝裏をすくい
丁寧に身体を抱き上げた。
「⋯⋯失礼いたします」
軽い。
だが、その奥に確かな〝重さ〟がある。
それは身体の質量ではない。
幾重にも折り重なった疲労と、意地と
──誰にも渡せない矜持の重さだった。
(何日、眠らずに動いていたのでしょう)
時也はその思いに眉を寄せると
足音を忍ばせて階段を上がっていく。
二階。ゲスト用の居室のひとつ。
扉を静かに開け
昼光を遮る薄手のカーテンが揺れる部屋に
足を踏み入れる。
ベッドの端に膝をつき
ゆっくりとアラインの身体を降ろす。
その瞬間、アラインの睫毛が微かに震え
うっすらとアースブルーの瞳が開いた。
「⋯⋯アラインさん?」
時也がそっと声をかけた時だった。
突然──
アラインの手が動いた。
着物の襟元を、ぐっと引き寄せる。
時也の顔がアラインのすぐ間近に迫り
鼻先が触れるかどうかという距離まで
引き寄せられた。
──そして
「⋯⋯あは⋯⋯ボクの⋯天使⋯⋯」
囁きのような言葉が
かすかに唇から零れ落ちた。
その吐息に
仄かに甘い珈琲の香りが混じる。
驚きよりも
呆れにも似た困惑が先に立った。
時也は一瞬だけ動きを止めたが、やがて──
「⋯⋯夢でも、見ているのでしょうか」
苦笑を浮かべながら
襟を掴む手をそっと外す。
それと同時に、アラインの指先が力を失い
手がパタリとシーツに落ちた。
再び眠りに沈むその表情は
少年のように無防備で、安らかだった。
(⋯⋯ボクの、天使?)
時也は胸中でそっと呟き
もう一度、彼の顔を見つめた。
その呼び名に
何の意味が込められていたのか。
それを問う相手は
今は静かに、深く眠っている。
時也はそっと毛布を引き上げると
アラインの肩に掛け
起こさぬように立ち上がった。
閉じかけた扉の向こうから
レイチェルの呼ぶ声が聞こえる。
──喫茶桜はまた
いつもの日常に戻っていた。
その中で
静かに眠るアラインだけが
別の夢を見続けていた。