テラーノベル
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石膏でかたどられた「耳」は、ルネの枕元にずっと置かれていた。 白く、脆く、静かに――まるで自分の“代わり”のように。(セルジュ様は、あの石膏の耳を愛してくださってる……)
ルネは何度もそう思った。 夜ごと、セルジュは石膏耳に指を這わせ、時に接吻し、そっと囁く。 まるで、本物以上に慈しんでいるようにさえ見えた。
ルネの中に、ひとつの考えが芽を出した。
(なら、いっそ――本物を、捧げてしまえばいい)
「彼のために、この耳をあげればいい」 「そうすれば、永遠に愛してもらえる」 「作品ではなく、崇拝の対象になれる」
そんな囁きが、頭の奥にしみ込んでいく。
*
それは、ある雨の夜だった。
セルジュは珍しく不在だった。 助手の見張りも薄く、静寂が支配していた。
ルネは、小さな手術ナイフを隠し持ち、石膏耳の横に静かに座っていた。 瞳は潤み、呼吸は震えていた。 けれど、その手は驚くほど静かだった。
「セルジュ様……あなたが愛してくださったものを、僕は本当に差し出します。 あなたが“創った”僕の、この耳――捧げさせてください」
震える手で、刃が耳の下に当てられた。
刃が皮膚を裂く――
「――ッ……!」
その瞬間、激しい痛みとともに、視界が霞む。 だが、叫ばなかった。 血が頬を伝い、襟を赤く染める。 けれど、ルネは微笑んでいた。
(これで……愛してもらえる)
だが――
その瞬間、扉が激しく開いた。
「ルネッ!」
セルジュの声が、冷たい空気を切り裂いた。
駆け寄った彼は、ルネの手からナイフを奪い取り、腕を掴む。 傷口を見て、瞳を見開く。 その視線に、かすかな恐怖と――強烈な怒りがあった。
「……なぜ、こんなことをした」
「……だって……あなたが、あの耳を……あれを愛していたから。 だったら、本物を、あなたに差し出したくて……」
「違う」
セルジュの声が、鋭くなる。 まるで、自分の美しい絵を汚された画家のような激情が、そこにあった。
「……僕は君の形が欲しいんじゃない。 君が、君であり続けるということ――**“壊さずにいられた可能性”**が……、 たったひとつの希望だった」
「……でも僕は……“壊れている”から、ここにいられるんでしょう?」
「それでも……!」
セルジュは顔を歪めた。 その頬に、ひと筋の涙が流れた。
ルネは、その涙を初めて見た。 痛みよりも、その涙の方が胸を突いた。
(ああ……僕は、やっぱり……セルジュ様を泣かせたかったんだ)
静かに気づいて、ルネは自分を抱きしめる腕の中で、そっと目を閉じた。
*
傷は浅かった。耳は“完全には”失われていなかった。 セルジュはそれを丁寧に、まるで壊れた陶器を修復するように手当てした。
その夜。 二人は初めて、抱きしめ合ったまま眠った。
痛みと、涙と、血と、 そして赦しにも似た熱が、静かに降り積もっていた。
ルネが育ったのは、北の修道施設だった。春の訪れが遅い町。雪が溶ける頃、ようやく花が咲
く。
けれどルネは、花を自由に見ることを許されなかった。
「お前の声は綺麗すぎる。
他の子たちを惑わせてしまう」
そう言って、シスターたちは彼に”沈黙の紐”を与えた。
喉に巻かれる白布。
それは清らかな飾りではなく、口を閉じるための道具だった。
手足も細く、声も高かった彼は、よく”女の子と間違われる”と笑われた。
「そのくせ、男の子ぶるから気味が悪い」
「愛されたいの?それなら身体で証明してみれ
ば?」
年上の者たちは、そんな言葉と共に汚れた触れ方をしてきた。
ルネは笑わなかった。泣きもしなかった。
ただ、自分の身体が愛を得るための通貨のようだと、
少しずつ知っていった。
ある春の日。
まだ寒さの残る屋根裏の部屋で、ルネは一人、包帯を巻いていた。
膝の下には赤い跡。
自分でナイフで切ったものだった。
痛みは、怖くなかった。
むしろ、その痛みによってーー
「やっと、自分が”ここにいる”って感じがする」
声に出すことはできなかったが、心の奥で何度も繰り返した言葉だった。
ある時、ひとりの若い医師が施設に来た。
善意でやってきたその青年は、ルネの傷を見て、静かに言った。
「…..君は、自分を壊すことでしか、愛された記憶がないんだね」
ルネは、目を伏せた。
青年はそのまま、
白い包帯をほどきながら、そっと耳元で囁いた。
「だったら、壊れたまま愛してくれる人を探して。 壊れたことを”罪”だなんて言わない人を」
その青年は、数日で去った。
もう名前も思い出せない。
けれどその言葉だけが、ルネの胸の奥で”種”のように残った。
やがて春が来て、花が咲きーーそして、ルネは施設を”売られ”、セルジュの元へやってきた。
彼がセルジュに出会ったとき、どこか懐かしい匂いを感じたのは、たぶんーーその青年と、同じ瞳をしていたから。
だが違ったのは、セルジュはーー「壊れたままの僕を美しいと言った」ことだった。
それがルネにとって、
初めての”救い”と”呪い”の重なった出会いだった。
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