テラーノベル
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蝋燭の炎が、赤くゆれていた。解剖台ではなく、柔らかな寝台。
ルネは、白いシャツー枚だけを身につけ、横たえられていた。
その首元には、昨夜つけられたばかりの赤い痕がいくつも残っている。
セルジュはその痕を、指でなぞっていた。
けれどその動きは、どこかぎこちなかった。
「…..続けますか?」
ルネが、そっと聞く。
その声音には、わずかな不安と期待が混じっていた。
だがーー
セルジュはその手を止めたまま、しばらく黙り込んだ。
そして、低く呟いた。
「…..今日は、やめておこう」
「え?」
「もう…..続けられない」そう言って、セルジュは立ち上がった。
白衣の裾が揺れ、扉へ向かって歩き出す。
「…..どうして……?」
ルネの声が震える。
彼の中で、何かが崩れた音がした。
「セルジュ様……?…..ぼく、何か……いけないことをしましたか……?」返事はなかった。
扉が静かに閉まる。
その音は、処刑の鐘のようだった。
部屋に残されたルネは、しばらく動けなかった。
静寂。
肌には、まだセルジュの触れた熱が残っていた。
けれど、もう二度とあの手は戻らないような気がしてーー
(もう……いらなくなったのだ)
その考えが心に差し込んだ瞬間、涙が頬を伝った。
「…..どうして……どうして…..ツ」
誰にも聞かれない声で、ルネは何度も名前を呼ん だ。
「セルジュ様、セルジュ様、セルジュ様………….」
翌朝。
助手が寝室の扉を開けたとき、ルネは鏡の前に座っていた。
床には、赤い斑点が点々と落ちている。
手にしていたのは、小さな彫刻用の刃。
そしてーー
彼の太ももには、いくつもの浅く横に走る傷があった。
「君…..何を……」
助手が慌てて駆け寄ろうとしたそのとき、ルネはふっと笑った。
「大丈夫……すぐに止まります。これくらい、全然痛くありません」
「なぜ、こんな…….!」
「…..愛されるために、必要なんです」
血で汚れた布を見つめながら、ルネは静かに呟いた。
「だって、セルジュ様は…..痛みに美を見てくださるでしょう?
昨日のぼくには、それが足りなかったのだと思って……。
だったら、今日のぼくはーーもっと、愛されるようにしないと」
その言葉は、助手の口を凍りつかせた。
そしてーーその後ろに、いつの間にか立っていたセルジュにも。
セルジュは無言のまま、傷を見下ろす。
ルネはようやく彼の存在に気づき、笑みを浮かべた。
「見てください…..セルジュ様。
こんなに、あなたのために、綺麗にしたんです」
震える声。
なのに、瞳は光を求めていた。
「もう、ぼくはいらないんですか……?」その一言が、セルジュの中で何かを切った。
彼は膝をつき、ルネの血の滲む太ももに口づけた。
「違う……いらないなんて、一度も思ったことはない。 壊さずに、愛そうとした。でも……やっぱり、無理だった」
その声は、涙で滲んでいた。
「君を、美しいと思えば思うほど、壊したくなる。 それでも…..君に泣いてほしくないんだ。
僕の手で、君に絶望を与えるなんて…..」
けれどルネは、静かに首を振った。
「なら……どうか、壊してください。 あなたの手でないなら、こんな傷、意味がないんです」
セルジュはその顔を見つめーーゆっくりと、抱きしめた。
その夜、ふたりはもう一度、痛みの上で愛を交わす。
血と涙と接吻と、赦しと懺悔。
それらが混じり合いながらーー美しく、壊れていった。
雨が降っていた。
アトリエの窓を叩く雨音が、耳の奥で鼓動のように響く。
ルネは椅子に座っていた。
手には、包帯を巻いたままの指。
その先端から、わずかに赤い血が滲んでいる。
「先生……絵の具が、混ざってしまって…… でも、色としては、綺麗でしょう?」
そう言って、ルネは微笑んだ。
右手の指先で、血の混じった赤をパレットナイフで混ぜながら、
まるでそれが“普通の行為”であるかのように、静かに――嬉しそうに話す。
セルジュはその姿を、無言で見つめていた。
目の前にいるのは、
「愛されたい」と願う獣ではない。
「許して」とすがる子供でもない。
そこにあるのはただ、
**“この血はあなたのため”**という、真っすぐすぎる感情。
「……なぜ、そんなことをする」
セルジュは、問いというより呟きのように言った。
だが、ルネは迷いなく答える。
「だって、先生は、
僕の“痛いところ”が、一番綺麗だって……言ってくれたから」
その瞬間。
セルジュの内側で、何かが軋んだ。
いつもなら――
ルネが痛みを差し出せば、それを観察し、記録し、保存する。
愛ではない。美として、価値として、それを**“受け取る”だけ**だった。
だが今。
ルネの瞳が、確かに問うていた。
**「それでも、僕を“人”として、見てくれますか」**と。
セルジュは、黙って近づいた。
手袋を外す。
素手の指が、血の滲むルネの手を包む。
「……熱い」
「……君は、まだ“生きている”んだな」
ルネの血が、彼の手に沁みる。
それは絵の具ではなかった。
愛された証としての“生”だった。
セルジュは、唇をわずかに動かす。
「君の痛みが、
君の意思で生まれるなら――
……それを、美しいと呼んでも、いいのかもしれない」
ルネは笑った。
少し泣きそうに、でも嬉しそうに。
そしてその手は、はじめて**“愛する者の手”として**、セルジュの手を包んだ。
その夜、セルジュは久しぶりに眠れなかった。
自分の指先に残った血の色を、
冷たい水で洗っても、消えなかった気がした。
それはただの染みではない。
ルネという存在が、彼の中に**“残ってしまった証”**だった。
そして彼は、それを拭い去ろうとは思わなかった。
初めて――
“愛されること”が、醜くないと、思えたのだから。
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