宇迦から流れ出した血液が、湖面を赤く染めていく。
夕日を浴びて怪しく輝く細剣は、ピタリとイナリに添えられていた。
「那由多さん……止めて下さい。早く、宇迦さんの手当てをしないと……」
典晶は何とか那由多を懐柔しようとするが、那由多は眉一つ動かさず、イナリを睨み付けている。
那由多から放たれる殺気は相当の物なのなのだろう。典晶の後ろに隠れたイナリは小さく震え、蛇に睨まれたカエルのように身動き一つできないようだ。
「典晶君、そこを退いてくれ」
那由多が歩を進める。
典晶は動けない。大量の汗が全身から吹き出すが、体は凍ったように硬く、冷たくなっていた。
「君だっておかしいと感じているだろう? 何故、自分だけがこんな目に遭うのだと。どうして、モノノケの嫁を貰わなければいけないのか、と……」
那由多の言葉が心に突き刺さる。否定はできない。だけど、こんな結末は認められない。自身が不幸になろうが幸せになろうが、どっちになっても構わない。ただ、こんな結末は容認できない。
「思います。おかしいって思います、だけど、こんな事をしちゃダメだ! これは間違っています! 那由多さん!」
「神々はね、典晶君、君が思っているような存在じゃない。人という種をゴミのように思っている。自分の都合通りに行かなければ、なんの躊躇いもなく切り捨てる存在だ。典晶君、君は、君たち土御門家は彼らの玩具になっているだけだ!」
湖面に小さな波紋を生じさせ、那由多が動いた。
典晶は咄嗟に後ろを振り返ると、イナリをきつく抱きしめた。
「退け!」
那由多の気が背後から迫る。夕日が那由多に遮られ、視界が薄暗くなった。
ガッッッッ!
激しい衝撃が側頭部を襲った。
一瞬だけ、視界の隅に那由多の靴が映った。蹴られたのだ。強烈な痛みと共に、口の中に広がる血の臭い。典晶の体は抱きしめるイナリと共に吹き飛ばされた。
「君のためだ、悪く思わないでくれ」
再び襲い来る殺気。典晶が見上げると、那由多が宙を舞っていた。風によってはためく水干。那由多の殺意を表現したかのように、力強く輝く逆手に握られた細剣。それがイナリの胸に突き立てれようとしていた。
イナリは身動き一つ取れない。ただ、愕然と那由多を見ているだけだった。
「止めてくれ!」
典晶はイナリに覆い被さった。
焼けた鉄を押し当てられたように、右肩が熱くなった。直後、典晶の全身を激痛が走り抜けた。見ると、細剣が肩口を貫通し、イナリの喉元スレスレで止まっていた。
「典晶君! 退いてくれ! 君は憑かれているんだ! こいつらに関わると、皆不幸になる! 俺みたいに、不幸になってしまうんだ!」
強引に細剣を那由多は引き抜いた。
右肩から発せられる痛み。痛みの余りに涙が噴き出してくる。だが、典晶は歯を食いしばって悲鳴を飲み込んだ。
「イナリ、逃げろ! 逃げろ!」
立ち上がった典晶は、那由多を突き飛ばした。だが、那由多はフワッと浮くと、バランスを崩すことなく着地した。
「逃げろ! 早く!」
典晶は叫ぶが、イナリはまともに動く事すらできない。
「典晶……典晶……母様が……!」
イナリは混乱しているようだった、だが、そんな事を気にしている余裕は典晶になかった。
「宇迦さんなら大丈夫だ! だから、速く逃げろ!」
「でも……」
「逃げろ!」
力の限り叫んだとき、イナリがようやく行動を起こした。那由多がすぐに反応をするが、典晶は両手を広げて立ち塞がった。
「邪魔だよ! そいつがいなくなれば、君は元の生活に戻れるんだ!」
那由多は言いながら、地面を蹴った。三角蹴りの容量で、那由多は横にある木を蹴り、典晶の横をすり抜けていく。
「那由多さん! イナリ!」
典晶は駆け出していた。だが、転神した那由多のスピードは、人のそれを遙かに上回っている。人並み外れた身体能力を持つイナリでさえ、一瞬にして那由多に追いつかれてしまった。
「死ね!」
那由多が細剣を振り下ろす。
「あぁぁぁ!」
イナリが叫び声を上げて崩れ落ちる。純白の白衣が、見る間に赤く染まっていく。
「那由多ァ!」
典晶は拳を固めて那由多を殴り付けた。力の限り握り締めた拳に感じる確かな手応え。だが、那由多は僅かに上体がそれただけで、平静な顔をしている。
「俺は、君に頼まれて救いに来たんだ。こいつらがいなくなれば、君は元の生活に戻れるんだ。目を覚ませ!」
那由多の握り締めた拳が左頬に炸裂した。典晶は吹き飛ばされ、イナリに重なるように倒れた。目の奥で花火が散ったように、星が目の前を飛び回る。
「典晶……」
顔面蒼白のイナリが典晶に呼びかけた。
「大事ないか? すまない、私のために……。典晶……すまない……」
イナリは涙を流していた。こんな時になっても、イナリは典晶の心配をしてくれていた。典晶は歯を食いしばると、もう一度那由多の前に立ち塞がった。
典晶は両手を広げる。細剣で貫かれた右肩が激しい痛みを発するが、典晶は歯を食いしばって那由多を睨み付けた。
那由多の言うことも一理ある。確かに、狐の嫁入りは非常識極まりないし、一方的すぎる。昔から続く仕来り。土御門家に掛けられた、先祖からの呪いと言っても良いだろう。だけど、典晶はそれら全てを否定できない。
「俺を止めることはできないよ、典晶君」
「だけど……、止めてください、那由多さん……」
典晶は、幸せそうな両親を見てきた、祖父母を見てきた。例え、最初は仕来りでいやいや結婚をしたのだとしても、彼らの生活は幸せで溢れていた。普通の人間の家族とは違うかも知れないが、それが悪いものだとは思わなかった。
「それでも、イナリは俺が守る! 何があっても、俺が守る! そう、約束したんだ!」
典晶の中で何かが弾けた。
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