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西からの柔らかな風が、灰色の髪を撫でるように揺らす。その結果、前髪が汗を吸って額に張り付くも、今の少年に気に掛ける余裕はない。
少しだけ傾いた若葉色の大草原。
ところどころに見られる小さな丘。
ここまでは普段通りの風景だ。
マリアーヌ段丘。この地にも魔物は生息しているが、それらは非常に弱く、傭兵や軍人なら容易く討伐可能だ。
もちろん、戦闘経験のない人間には難しい。武器と才能と運の三つが揃っていれば、もしかしたら勝てるかもしれない。一つでも欠ければ、死という絶望が訪れる。
「おー待ーたーせー!」
(ひえぇ……)
一対一であっても魔物とはそれほどに脅威だ。では、この光景はどういうことなのか?
血と土で汚れた衣服に袖を通し、右手にブロンズダガーを握る少年。元貴族だが今は傭兵を目指し奮闘中だ。
ウイル・ヴィエン。発汗と足の震えは共通の理由に起因する。
「さぁ、始めよー。圧縮錬磨!」
遠方から少年に向かって、長身の女性が駆け寄って来る。ロングスタートをたなびかせ、背負っている大剣は重たいはずだが足取りは軽快だ。
彼女は一人ではない。後方には、客人のように五体の草原ウサギ達がピョンピョンとついてきている。
追いかけっこではない。その人間を殺すつもりで追跡中だ。
エルディア・リンゼー。胸部を守るスチールアーマーと肉厚なスチールクレイモアを所持していることからも傭兵だと一目でわかる。
右手を振りながら、その表情はどこまでも楽しそうだ。茶色のボブカットをゆさゆさと踊らせながら、決して全力ではない速さで駆けている。
(いっきに五体って……、なんてスパルタ……!)
ウイルは恐れおののきながらも、なんとかその場に踏ん張る。エルディアと草原ウサギ達は自分を目指して進軍中だ。ゆえに、今はまだ待機でよい。
大空の下、二人は何をしようとしているのか? それには、時計の針を一時間巻き戻す必要がある。
夜通しの素振りにより意識を失ってしまったウイルだが、太陽が頂点に差し掛かる頃、深い眠りから覚醒する。
腕や腰を筆頭にあちこちが痛くて仕方ない。普段使わない筋肉を使ったのだから、当然のように筋肉痛だ。
その上、ベッドではなく大地の上で眠ったことが負担に繋がった。
それでも、パッと起き上がれた理由はエルディアのおかげだろう。目覚めると同時に、彼女の顔が目の前にあったのだから跳ね起きるに決まっている。
おはよー。干し肉食べる?
あ……、はい……。おはようございます……。
彼女から差し出されたベーコンのような干し肉は、ウイルを心底驚かせた。羊の魔物の肉を乾燥させただけの食品だが、傭兵のような長期間、旅をする人種には重宝される。その理由は保存性の良さとリーズナブルな価格、なにより肉ということが挙げられる。
ウイルは十二年間、豪勢な料理だけを口にしてきた。貴族なのだから当然だが、生まれて初めて、庶民の食べ物を口にした。
硬い。
だが、美味しい。
わずかなしょっぱさと肉のうま味が口の中で溶け合い、少年の脳と体がいっきに喜ぶ。
差し出されたお茶で喉を潤しながら、朝昼兼用の食事を済ませると、エルディアはこれからについて提案する。
圧縮錬磨。
ウイルは初めて聞く単語に首を傾げる。イダンリネア王国唯一の教育機関に通っていたが、授業では習わなかった用語だ。
エルディアは簡単に説明する。
魔物を倒すと強くなれる。いっぱい倒せばどんどん強くなれる、と。
彼女の言う通り、この論法は正しい。体を強くする方法はいくつかあるが、魔物討伐が実は効率面では最高だ。実際のところは危険が伴うため、先ずは腹筋背筋といったトレーニングからスタートし、並行して武器の扱い方を会得する。
そもそも、なぜ人間は魔物を倒すと強くなれてしまうのか? 実は未だにこの仕組みが解明されておらず、研究者達も頭を抱えている。
だが、傭兵はそんなことを気にしない。自分達の体で実感出来ているのだから、強くなるためにも、なにより金を稼ぐためにも、彼らは獲物を討伐し続ける。
魔物を倒して強くなる。この方法は近道だが、実はさらに上の手段が存在する。
それが圧縮錬磨だ。
方法は単純明快なのだが、非常に危ういため、軍人達の間では軍規により禁止されている。傭兵もこの手法を嫌う者が多く、しかし、エルディアは全く気にしていない少数派だ。
圧縮錬磨は一人では出来ない。強くなりたい者と、手伝う者の最低二人が必要だ。
今回なら、ウイルとエルディアがそれぞれを担う。
手順は手伝う者の実力や戦闘系統、人数によって変わってくるが、彼女のやり方はオーソドックスだ。
手ごろな魔物を何体かかき集め、親鳥のようにウイルの元へ届ける。
そして、それらを死なない程度に弱らせ、ウイルにとどめを刺させる。
一見するとずるいやり方だが、何の問題もない。世界の理には一切反しておらず、リスクさえ飲めるのなら時間効率は優秀だ。
そう。圧縮錬磨は安全とは言えない。魔物は一体だけでも脅威だが、それを複数同時に処理する必要がある。
ゆえに、集める側もおこぼれに預かる方も、事故死と隣り合わせだ。
今日の戦場はマリアーヌ高原ゆえ、対戦相手には草原ウサギが選ばれる。
エルディアが獲物にちょっかいを出して、自身を追いかけさせる。それを何度か繰り返した後、ウイルとの合流場所へ向かえば準備の半分は完了だ。
その後は、魔物が彼を襲わないよう気を付けつつ、それらを瀕死に追いやり、そこから先は見守る。
「とりゃ! ほい! どんどんやってってー」
(簡単に言うなぁ、この人……)
そして今に至る。
怒り狂ったうさぎ達がエルディアを囲んで飛び蹴りを浴びせている。その構図だけでも地獄絵図だが、真に恐怖すべきは彼女の頑丈さだ。
草原ウサギの脚力は、ウイルの腕を一蹴りでへし折る。それを五体が休みなく繰り出しているのだから、普通なら即死だ。
もしない。それどこから、武器すら使わずに己の拳で二体の雑魚をあっという間に黙らせた。
「早くしないと死んじゃうよー」
エルディアは急かしながら、その場から少しだけ移動する。死にかけのうさぎを孤立させ、ウイルに提供するためだ。
「わ、わかりました……!」
生き物を殺すことにためらいはない。即座に動けなかった理由は、ただただ怖かったからだ。
そうであろうと、食材の用意から下ごしらえまでを代行してもらえたのだから、後は最後の仕上げに短剣を突き刺す。
眼下には二体の草原ウサギ。どちらにも外傷は見受けられないが、倒れたまま苦しそうに痙攣している。
ウイルはブロンズダガーを逆手に持ち直し、うさぎの肩口から心臓めがけてズズズっと刃を突き入れる。
先ずは一体。短剣を引き抜く前に命は途絶え、昨日ぶりの感触に少年は再認識させられる。
今までとは全く違う世界に足を踏み入れてしまった、と。
(だから……、進むしかないんだ!)
赤く染まった刃を、次の獲物へ躊躇なく押し込む。その瞬間、キュウと小さな鳴き声が聞こえたが、ウイルはもはや何も感じない。
殺すか、殺されるか。十二歳の若さで、世界のルールを身をもって理解させられたのだから、外見がうさぎのようにかわいかろうと胸は痛まない。
「そうそう、その調子。はい、次行ってみよー」
魔物はまだ三体残っている。無邪気にからんでくるそれらを軽くあしらいながら、エルディアはその内の一体へげんこつをおみまいする。
その時だった。残った二体の片割れが、突然少年の方へ向かいだす。仲間が殺された復讐なのか、その形相は殺意の塊だ。
「な⁉」
ウイルは仰け反るだけで動けない。この状況は想定外だったため、逃げ出すという選択肢を思い描けなかった。
それでもエルディアは慌てない。まとわりつく魔物を無視しつつ、離れていくそれへチラッと視線を動かす。
その瞬間だ。突風のような重圧感がこの場を支配する。
ウイルはこれを知っている。昨日、草原ウサギに殺されかけた際も同様の変化を感じとれた。その時は言葉を発する余裕もなかったため、助けてくれたエルディアに確認出来なかったが、今ならわかる。発信源は彼女ということを。
ウイルに向かい始めた個体が、途端に立ち止まる。小さな人間を狙った矢先にも関わらず、悔しそうに振り返る。
「とぉ。そっちのも、ほい! うん、もう大丈夫ー」
エルディアは眼下の魔物をガンと殴り、自分から離れた最後の一体も、あっという間に黙らせる。
「今のは……?」
「ん、ウォーボイスのこと? 戦技だよ戦技ー。ささっ、残りもやっちゃってー」
驚く少年をよそに、この傭兵はケロリとしている。危機的状況が訪れたはずだが、一切の動揺が見られない。それどころか、冷静に作業の継続を促すほどだ。
(今のがウォーボイス……。学校で習った通り、すごい利便性)
ウイルは最も近い個体へ刃を突き刺す。その一方で、体験した戦技に驚愕せざるをえない。
ウォーボイス。エルディアのような戦闘系統が魔防系の人間が習得する戦技だ。相手に浴びせることで、行動を制限させることが可能となる。具体的には、これを受けた者は発動者への攻撃を強制させられる。
今回の場合、ウイルを狙った草原ウサギは、ひ弱な人間を目前にしながらも、背後のエルディアへ方向転換せざるをえなくなった。
ウォーボイスと似た戦技は他にもあり、ウォーシャウトが該当する。こちらは対象が周囲全域と広く、一体だけを縛れるウォーボイスよりも使い勝手は上だ。
どちらも再使用までの待ち時間は三十秒に対し、効果時間はたったの十秒。使うタイミングが重要と言えよう。
(試験はもう終了だけど、強くなれるチャンス。だから……)
先ほどの草原ウサギをもって、ノルマだった三体は無事討伐済みだ。それどころか既に四体目すら殺せている。
このままギルド会館へ向かえば、この少年も晴れて傭兵の仲間入りだ。
しかし、目の前には親鳥が用意してくれた餌が転がっている。それも殺せば、さらに強くなれるはずだ。
エルディアへ近づき、残りの二体にもとどめを刺す。残酷な行為かもしれないが、この世界で生き抜くためには必要な儀式だ。
「ふぅ……。ありがとうございました。おかげで傭兵試験も突破出来ました。本当に助かりました」
ウイルはペコリと頭を下げ、素直な気持ちを伝える。
手続きは完了していないが、合格は確実ゆえ、少年としてもホッとする。
貴族ではなくなったことで、今は完全に根無し草だ。帰る家も、頼れる者も失った今、傭兵という職業がある意味で彼のアイデンティティーを支えてくれる。
「おめでとー。よかったね」
エルディアは笑顔で拍手を送る。少年の礼儀正しさに感心させられつつ、新たな傭兵の誕生を大いに祝う。
(あ~、もうヘトヘトだぁ。ギルド会館で手続き済ませたら、宿で寝ちゃおうかな)
試験と圧縮錬磨を終えた今、次にすべきことは試験突破の報告だ。そこからが旅のスタートゆえ、考えることは山積みなのだが、今はなによりも体力の回復に努めたい。
この二日間はそれほどまでに刺激的かつ大変だった。心身ともに限界を迎えており、宿屋の利用は初めてだが、期待せずにはいられない。
「それじゃ、続きしよっか」
「……え?」
エルディアはニッコリと笑う。
対照的に、ウイルの顔面は真っ青だ。
圧縮錬磨はまだ終わらない。つまりはそういうことだ。
この状況は少年にとって非常にありがたい。目的地は遠く、今後は一人で目指さなければならないのだが、道中、魔物との遭遇は避けられず、ゆえに今は少しでも強くならなければならない。
だからこそ、この申し出は僥倖だ。
しかし、今のウイルは限界寸前でもある。一刻も早く帰還したいのだが、彼女の笑顔がそれを許さない。
「あっちの方行ってみよー」
「お、おぉー……」
周囲の草原ウサギは狩り尽くしてしまった。ならば戦場を変えるしかない。
エルディアは南の方角を指さし、元気よく歩き始める。
その後ろを、ウイルは力なく歩く。
今日はまだ終わらない。その証拠に、丸い太陽は頭上でさんさんと輝いている。
マリアーヌ段丘に風が吹く。東から西へ。二人から見ると左から右へ、穏やかなそよ風が大草原を撫でていく。
今の時刻は午後一時過ぎ。
怒涛の一日は、まだまだ終わらない。