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第八話 終わりなき宴
冬木港湾区の夜は、海の匂いがした。
潮風。
鉄錆。
積み上げられたコンテナ。
誰もいない倉庫街。
遠くで揺れるクレーンの赤い警告灯。
この場所は、昼間なら人と機械の音で満ちている。
だが夜になると、街から切り離された別世界のように静まり返る。
その静けさを、車輪の轟きが破った。
雷鳴のような音。
馬の嘶き。
空気を裂く神威。
港の舗装路を、巨大な戦車が駆け抜けていた。
牽くのは二頭の神牛。
車輪は火花を散らし、走るたびに地面へ神代の轍を刻む。
その上に立つ大男は、夜の港を見渡して豪快に笑っていた。
「はっはっは! よい夜だ! 潮の匂い、鉄の匂い、そして戦の匂い! 港とは実に征服欲をくすぐる場所よ!」
イスカンダル。
征服王。
かつて世界の果てを目指し、遥かな東へと軍を進めた大英雄。
その巨躯は夜の闇にも埋もれず、存在そのものが戦場の中心だった。
彼の足元、戦車の端にしがみつくようにして、一人の男が顔をしかめている。
ロード・エルメロイⅡ世。
かつてはウェイバー・ベルベットという名だった少年。
今は魔術協会でも名の通る講師であり、魔術師としても指導者としても、かつての未熟さを越えた男。
だが、隣にいる征服王にかかれば、彼は今でも昔のままだった。
「ライダー、速度を落とせ! ここは戦場かもしれないが市街地でもある! 港湾施設を壊せば隠蔽工作がどれだけ面倒になると思っている!」
「細かいことを言うな、坊主!」
「坊主ではない! 何度言わせる!」
「では、ロードよ!」
「その呼び方も妙に腹が立つ!」
イスカンダルはさらに笑った。
再召喚。
五年前、十年前、あるいはもっと複雑に絡み合った時間の果て。
神杯戦争は、終わったはずの縁すら再び戦場へ引きずり出す。
だがこの二人に限って言えば、再会は涙より先に怒鳴り声だった。
それが、彼ららしかった。
「まったく……!」
エルメロイⅡ世は戦車の上から港の霊脈を見下ろす。
港湾区の地面には、淡く紫がかった魔力の霧が広がっていた。
酒の匂いがする。
ただの酒ではない。
葡萄、蜂蜜、発酵、酩酊、祝祭、熱狂。
人間が理性を緩め、歌い、踊り、明日を忘れるための香り。
「酒神クラス……」
エルメロイⅡ世は眉を寄せた。
「気をつけろ、ライダー。これは単なる毒や幻覚ではない。精神干渉に近いが、もっと古い。人間が酒と祭りに神を見ていた時代の信仰だ」
「宴の神か!」
イスカンダルは目を輝かせる。
「それはよい! 余とは気が合いそうではないか!」
「敵かもしれないと言っている!」
「敵ならば戦い、味方ならば飲む。単純でよかろう!」
「単純すぎる!」
その時。
コンテナの上で、鈴のような笑い声が響いた。
イスカンダルが戦車を止める。
エルメロイⅡ世が即座に魔術礼装を構えた。
コンテナの上に、人影が立っていた。
少年のようにも、青年のようにも見える。
長い葡萄色の髪。
琥珀色の瞳。
白い衣に、蔦の冠。
手には金の杯。
その周囲を、赤紫の魔力がゆっくりと舞っている。
サーヴァリアント。
クラス、酒神。
彼、あるいは彼女は、金の杯を掲げて微笑んだ。
「いい夜だね、征服王」
声は甘い。
だが甘さの奥に、酔い潰れた人間の笑いと、祭りの終わりに残る寂しさが混じっていた。
イスカンダルは豪快に笑う。
「ほう! 余の名を知るか!」
「もちろん。王と酒は相性がいい。勝利の宴、凱旋の杯、死者への献酒。君の人生にも酒はよく似合う」
「はっはっは! 分かっておるではないか!」
エルメロイⅡ世は低く呟く。
「乗せられるな、ライダー」
「乗るのではない。乗りこなすのだ」
「それを乗せられていると言うんだ」
酒神は楽しげに笑った。
その背後には、一人のマスターがいた。
黒い和装に近い礼装をまとった青年。
名は、鳴神紫苑。
鋭い目つきだが、表情には余裕がある。
右手には、葡萄の蔦に似た神紋が刻まれていた。
「征服王イスカンダル」
紫苑は静かに言う。
「こちらに戦意はない。少なくとも今はな」
エルメロイⅡ世は冷ややかに返す。
「神杯戦争中に港湾区で神域を展開しておいて、戦意がないとは随分な挨拶だ」
「展開しているのは神域ではない。宴の準備だ」
「もっと悪い」
酒神は金の杯を揺らす。
杯の中には赤い液体が揺れている。
その一滴が港の地面へ落ちた。
瞬間、アスファルトの隙間から葡萄の蔦が伸びた。
蔦はコンテナに絡み、鉄骨を伝い、港の無機質な景色を一瞬だけ祝祭の舞台へ変える。
「僕は戦争が嫌いじゃない」
酒神は言った。
「でも、戦争しか知らない者は退屈だ。勝って、負けて、奪って、殺して、それで終わり。人間はもっと面白い。歌う。泣く。飲む。笑う。明日死ぬと知っていても、今夜の杯を空にする」
イスカンダルは腕を組み、満足げに頷く。
「よい。実によい。生きるとは進むことだ。そして進むためには、腹を満たし、友と笑い、杯を掲げる必要がある」
酒神の瞳が細くなる。
「なら、征服王。君は“終わり”をどう見る?」
「終わり?」
「旅の終わり。宴の終わり。命の終わり。征服の果て。君は、終わりを嫌う?」
イスカンダルは少しだけ黙った。
そして、笑った。
「嫌いではない」
エルメロイⅡ世が驚いたように彼を見る。
イスカンダルは夜空を見上げる。
「終わりがあるから旅は急ぐ。終わりがあるから勝利の杯は旨い。終わりがあるから人は名を残そうとする。だがな」
彼の目が、港の奥を向いた。
「誰かに勝手に終わらされるのは、好かん」
その瞬間。
海が黒く染まった。
潮の匂いが消える。
酒の香りも、祝祭の魔力も、すべてが冷たい静寂に塗り替えられていく。
港湾区の外れから、黒い波が押し寄せていた。
水ではない。
終わりだ。
触れた街灯の光が消える。
コンテナの塗装が剥がれる。
蔦が枯れる。
鉄骨が役目を終えたように軋む。
黒い波の中心に、影が立っていた。
終末神。
イリヤスフィールとの契約を断たれ、今は神杯に直接接続された防衛機構。
その姿は以前よりも濃く、以前よりも冷たかった。
黒い外套の奥で、赤く染まった輪が回転している。
酒神は杯を下ろした。
「これはまた、無粋な客だね」
イスカンダルは戦車の手綱を握る。
「終末神か」
エルメロイⅡ世の顔が強張る。
「まずい。あれはもう契約者を持つサーヴァリアントじゃない。神杯の命令で動く自律防衛だ」
「つまり、話は通じんか」
「通じると思うか?」
「思わん!」
イスカンダルは豪快に笑った。
「ならば簡単だ。叩き返す!」
◆
衛宮士郎たちが港湾区へ到着した時、すでに戦場は始まっていた。
夜の港を、戦車が駆ける。
イスカンダルの神牛が黒い波を踏み砕き、車輪が終末の海へ火花を散らしている。
酒神はコンテナの上で杯を掲げ、赤紫の魔力を港全体へ広げていた。
枯れようとする蔦が再び芽吹き、消えかけた灯りが微かに戻る。
祝祭の神気が、終末の黒を押し返している。
だが、押し返しきれてはいない。
終末神の波は、感情すら終わらせる。
歓喜も、怒りも、酔いも、熱狂も、すべて“終わったもの”として沈めようとする。
凛が宝石板を見て叫ぶ。
「終末神、出力が前より上がってる! イリヤとの契約時より制御は荒いけど、神杯から直接魔力供給を受けてる!」
士郎は黒い影を見た。
あれは、イリヤを守っていた神ではない。
イリヤを終わらせようとした神でもない。
今はただ、神杯の命令で動く終わりの刃。
だが士郎は、どうしても思ってしまう。
終末神もまた、神杯に利用されているのではないか、と。
「士郎」
セイバーが声をかける。
「迷っていますか」
「少しな」
「倒すことに?」
「倒すだけでいいのかって」
アーチャーが冷静に言う。
「今考えるべきは、あれを止める方法だ。救済はその後で考えろ」
「分かってる」
凛が割り込む。
「終末神の背後に黒い命令線がある。見える?」
士郎は魔術回路を開く。
終末神の背中から、空へ向かって伸びる黒い線が見えた。
それは地上の神杯ではなく、地下の根へ繋がっている。
「見える」
「イリヤの時と違って、今回は契約線じゃない。神杯からの強制命令線。あれを切れば、少なくとも神杯の直接制御は弱まるはず」
「切れるのか」
「普通には無理。終末神の周囲に近づく必要があるし、線そのものも終末の権能で守られてる」
メディアが紫の転移陣から現れ、面倒そうに続けた。
「けれど、終末神の権能が別の“終わり”を処理している瞬間なら隙ができる」
士郎が振り返る。
「キャスター」
「何よ。来たら悪い?」
「助かる」
「素直に言われると調子が狂うわね」
メディアは終末神と酒神を見た。
「酒神の権能を使うわ」
酒神が遠くから声を上げる。
「聞こえているよ、魔女。僕を術式の部品にする相談かな?」
「ええ」
「正直でいいね」
「嫌なら断ってもいいわよ。その場合、港ごと終わるけれど」
酒神は笑った。
「いいよ。終わりに抗う宴なら、僕の杯は惜しまない」
イスカンダルが戦車を旋回させ、士郎たちの前に一瞬だけ停まった。
「おお、衛宮士郎! そして騎士王、弓兵、遠坂の小娘! よく来た!」
凛が眉を吊り上げる。
「小娘じゃありません!」
エルメロイⅡ世が戦車の上から疲れた顔で言う。
「すまない。今は訂正している余裕がない」
「ロード・エルメロイⅡ世……!」
凛が目を見開く。
エルメロイⅡ世は短く頷く。
「説明は後だ。終末神の制御線を切るのだろう? こちらでも解析する」
士郎は頷く。
「お願いします」
イスカンダルは笑った。
「よし! 余が道を開く。酒の神よ、宴の支度はできておるか!」
酒神は金の杯を掲げる。
「いつでも。けれど忘れないで、征服王」
「何をだ!」
「宴には、必ず終わりがある」
イスカンダルは歯を見せて笑う。
「だからこそ、終わるまで全力で騒ぐのだ!」
◆
終末神が杖を掲げる。
黒い輪が回転し、港湾区に終わりの雨が降り始めた。
雨粒に触れたものは破壊されるのではない。
役目を終える。
街灯は光る意味を失い、鉄骨は支える意味を失い、蔦は伸びる意味を失う。
祝祭の魔力すら、歌い終わった曲のように静かになっていく。
酒神は杯を傾けた。
赤い酒が空へ流れる。
液体は重力に従わず、夜空に輪を描いた。
その輪が広がり、港全体を淡い紫の神域で包み込む。
「神域展開」
酒神の声は、歌うようだった。
「終わりなき宴席――ネクタル・コロナ」
港が変わった。
コンテナの間に、無数の灯りが灯る。
壊れた地面に、長い食卓が幻のように現れる。
空には葡萄の蔦が星座のように伸び、海面には杯の月が映る。
どこかで誰かが笑っている。
どこかで誰かが歌っている。
どこかで誰かが、もういない友のために杯を掲げている。
それは、死を否定する神域ではなかった。
終わりを知ってなお、今を祝うための神域。
終末神の雨が、その宴席へ降る。
灯りが消える。
歌が止まる。
杯が空になる。
だが、そのたびに別の灯りが灯る。
別の歌が始まる。
別の誰かが杯を満たす。
終わりを無かったことにはしない。
終わったなら、次を始める。
酒神の神域は、終末神の権能を正面から受け止めていた。
凛が叫ぶ。
「今! 終末神の処理が神域に割かれてる!」
メディアが杖を振る。
「命令線を可視化するわ!」
紫の魔術陣が港の空へ広がる。
黒い命令線が、はっきりと浮かび上がった。
終末神の背から、地下の神杯の根へ伸びる太い黒線。
それを見たエルキドゥが鎖を伸ばす。
「縛る!」
天の鎖が黒い命令線へ絡みつく。
だが、触れた瞬間、鎖の先端が灰色に変わり始めた。
終末の権能が、鎖の役目を終わらせようとしている。
エルキドゥは表情を歪める。
「強い……!」
ギルガメッシュの王の財宝が開く。
「ならば支えるまでだ」
宝具が黒い波へ降り注ぐ。
終末神の足元を押し返し、鎖への干渉を一瞬だけ薄める。
セイバーが走る。
「シロウ、道を!」
「ああ!」
士郎は投影する。
剣ではない。
足場。
港の黒い波の上に、剣を突き立てる。
一本、二本、三本。
終末の波に触れた剣はすぐに朽ちる。
だが、完全に消えるまで一瞬だけ残る。
その一瞬を足場にする。
セイバーは剣の足場を踏み、終末神へ向かって駆けた。
アーチャーの矢が彼女の前方の黒い波を払う。
リチャードが横から突撃し、降り注ぐ終末の雨を剣で弾く。
イスカンダルの戦車が中央を突破する。
神牛の蹄が黒い波を踏み砕き、征服王は高らかに叫ぶ。
「道を開けよ、終末の神! 余の行軍は、果てを目指すものなれば!」
終末神は杖をイスカンダルへ向ける。
黒い輪が回り、戦車の車輪が軋んだ。
車輪としての役目が終わらされる。
戦車が傾く。
エルメロイⅡ世が叫ぶ。
「ライダー!」
イスカンダルは笑った。
「案ずるな、坊主!」
「坊主ではない!」
「まだ怒鳴れるなら大丈夫だ!」
イスカンダルは戦車から飛び降りた。
巨体が黒い波の上へ着地する。
終末の波が彼の脚を飲み込もうとする。
だが征服王は退かない。
剣を抜き、真正面から終末神へ歩く。
「終わりを司る神よ!」
その声は港全体に響いた。
「貴様は終わりを知っているか!」
終末神は答えない。
イスカンダルは続ける。
「終わりとは、すべてを無にするものではない! 宴の終わりは、次の旅の始まり! 旅の終わりは、次の夢の始まり! 命の終わりでさえ、誰かの胸に轍を残す!」
黒い波がイスカンダルの周囲で渦巻く。
それでも彼は剣を掲げた。
「余の道は終わった! だが余の轍は、まだここにある!」
その瞬間、港の空気が変わった。
砂漠の風。
遠い地平線。
無数の兵の足音。
現実が塗り替えられる。
イスカンダルの固有結界。
王の軍勢。
荒野が港の神域と重なった。
酒神の宴席と、征服王の軍勢。
二つの世界が重なり合う。
宴の席に、兵たちの影が現れる。
杯を掲げる者。
槍を持つ者。
王を見て笑う者。
死してなお、王の背中を追う者たち。
終末神の黒い雨が、彼らへ降り注ぐ。
兵たちの影が消えていく。
だが、消える直前、彼らは笑った。
杯を掲げ、王の名を呼び、前へ進む。
終わることを恐れない。
終わりを知った上で、なお行軍する。
終末神の黒い輪が乱れた。
凛が叫ぶ。
「終末神の権能処理がさらに乱れた! 今なら命令線に隙ができる!」
メディアが士郎を見る。
「衛宮士郎! 切るのはあなたよ!」
「俺が?」
「あなたの投影は不完全だからこそ、神杯の命令線に一瞬だけ混ざれる。完全な神代魔術や宝具では、終末神に弾かれる」
アーチャーが険しい顔で言う。
「危険だ。命令線に触れれば、神杯に魂を逆探知される」
メディアは冷たく返す。
「危険でない方法があるなら、今すぐ出しなさい」
士郎は黒い命令線を見る。
恐怖はある。
だが迷いは短かった。
「やる」
凛が士郎の腕を掴む。
「士郎。触れるのは一瞬だけ。命令線そのものを投影しようとしないで。構造を読むだけで持っていかれる」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「たぶんで行くな!」
士郎は少し笑った。
「でも、行く」
凛は悔しそうに歯を食いしばり、それから宝石を一つ士郎の手に握らせた。
「帰還用の目印。危なくなったら私が引っ張る」
「ああ」
セイバーが隣に立つ。
「私が守ります」
アーチャーが弓を構える。
「行け。失敗すれば、こちらで撃ち抜く」
「俺を?」
「命令線をだ。半分くらいは」
「半分って何だよ」
「冗談だ」
「絶対冗談じゃなかっただろ」
リチャードが笑う。
「良い。死地へ向かう前の軽口は、勇気を整える」
ギルガメッシュは鼻を鳴らす。
「雑種。無様に呑まれるな。我の視界に入っている以上、勝手な敗北は許さん」
エルキドゥは静かに鎖を強める。
「僕が線を固定する。急いで」
士郎は走った。
黒い波の上に、投影した剣を突き立てる。
朽ちる前に踏む。
次を作る。
また踏む。
終末の雨が肩を掠める。
服の一部が役目を終えたように崩れる。
皮膚が冷たくなる。
魔術回路が震える。
それでも走る。
目の前で、イスカンダルが終末神と斬り結んでいる。
征服王の剣が黒い杖を打つ。
終末神の輪が王の軍勢を消していく。
だが軍勢は消えながらも、王の背を押している。
酒神の杯が輝く。
消えた兵たちのために、幻の杯が並ぶ。
終わった者たちへ捧げる宴。
その光景に、終末神の動きがわずかに鈍る。
終わりを否定しない者たち。
終わりを飲み干し、それでも笑う者たち。
終末神の権能は、そこに矛盾を見た。
士郎は命令線へ手を伸ばす。
「投影、開始」
剣ではない。
線でもない。
ただ、命令を切るための“刃の形をした空白”。
完成品である必要はない。
一瞬だけ、黒い線に入り込めればいい。
士郎の手に、半透明の短剣が生まれた。
刃は揺らぎ、柄は不安定。
武器としては欠陥品。
だが、その不完全さが終末の権能をすり抜ける。
士郎は命令線へ短剣を突き立てた。
瞬間。
頭の中に、神杯の声が流れ込んだ。
終われ。
戻れ。
器を奪え。
願いを燃やせ。
終末を撒け。
生を諦めさせろ。
未練を核へ戻せ。
膨大な命令が、士郎の意識を塗り潰そうとする。
「っ……!」
膝が崩れそうになる。
その時、手の中の宝石が熱を持った。
凛の魔力。
「士郎!」
遠くで凛の声が聞こえる。
セイバーの声も。
「シロウ!」
アーチャーの声。
「戻れ、衛宮士郎!」
イリヤの声が、脳裏に蘇る。
おはよう、お兄ちゃん。
士郎は歯を食いしばった。
「うるさい……!」
神杯の命令へ向かって叫ぶ。
「終わらせるかどうかは、お前が決めることじゃない!」
短剣を振り抜く。
黒い命令線に亀裂が入った。
エルキドゥの鎖がその亀裂を広げる。
メディアの術式が切断面を固定する。
凛の宝石魔術が命令線の再接続を阻む。
そしてセイバーの剣が、亀裂へ光を叩き込んだ。
「はああああああっ!」
黒い命令線が、音を立てて断ち切られた。
終末神が大きく揺らぐ。
赤く染まっていた輪が黒へ戻る。
神杯からの直接制御が弱まった。
だが同時に、終末神は暴走を始める。
命令を失った終わりの権能が、周囲へ無差別に広がろうとする。
凛が叫ぶ。
「まずい! 制御が切れたけど、出力が漏れてる!」
終末神の黒い波が港全体へ膨れ上がる。
このままでは、港湾区すべてが終わりに沈む。
イスカンダルが笑った。
「ならば、余が受けよう!」
エルメロイⅡ世が叫ぶ。
「何を言っている、ライダー!」
「終わりには器が必要なのだろう?」
酒神が目を細める。
「征服王、まさか」
「宴の終わりをくれてやる」
イスカンダルは剣を掲げた。
王の軍勢が、彼の背後に集う。
酒神は一瞬だけ目を伏せ、それから金の杯を掲げた。
「いいだろう。なら、僕が酌をしよう」
酒神の杯から、赤い酒が溢れる。
それは王の軍勢の宴席へ注がれた。
幻の兵たちが杯を掲げる。
征服王もまた、見えない杯を掲げる。
終末神の黒い波が、その宴席へ流れ込む。
宴が終わっていく。
歌が終わる。
杯が空になる。
兵たちの影が消えていく。
だが、それは絶望ではなかった。
満ち足りた終わり。
笑いながら席を立つような終わり。
明日へ向かうために、今夜を閉じる終わり。
終末神の権能は、その終わりを処理した。
無差別に広がっていた黒い波が、王の軍勢と酒神の宴へ吸い込まれていく。
イスカンダルの固有結界が揺らぐ。
酒神の神域もまた、灯りを失っていく。
エルメロイⅡ世が歯を食いしばる。
「馬鹿者が……!」
イスカンダルは振り返った。
その顔は、いつも通り豪快だった。
「泣くな、坊主!」
「泣いていない!」
「なら怒れ! その方がお前らしい!」
エルメロイⅡ世の拳が震える。
イスカンダルは笑う。
「宴は終わる。だが、余の轍は消えん。お前が覚えておる限りな」
エルメロイⅡ世は何も言えなかった。
終末の波が、王の軍勢を飲み込む。
だが完全に消える直前、兵たちは一斉に剣を掲げた。
王へ。
友へ。
旅へ。
終わりへ。
そして次の始まりへ。
黒い波が収束した。
終末神の暴走は止まった。
港に、静寂が戻る。
◆
終末神は、黒い波の中心で膝をついていた。
赤い輪は消え、杖の黒い光も弱まっている。
神杯からの命令線は断たれた。
だが終末神そのものは消えていない。
士郎は警戒しながら近づく。
セイバーが隣に立つ。
終末神は顔を上げた。
「契約者は、生を選んだ」
士郎は答える。
「ああ」
「終末は、救済ではなかったか」
その声には、わずかな揺れがあった。
神が迷っている。
少なくとも、士郎にはそう聞こえた。
「終わりが救いになることもあるのかもしれない」
士郎は言った。
「でも、それを勝手に決められたら救いじゃない」
終末神は沈黙する。
酒神が近づき、空になった杯を見せた。
「終わりは悪いものじゃないよ。でも、無理やり注がれる終わりは不味い」
イスカンダルは戦車の残骸に腰を下ろし、豪快に笑った。
「終わりとは、己で飲み干すものだ。他人に口へ流し込まれるものではない!」
終末神はゆっくりと立ち上がる。
黒い外套の影が薄れていく。
「神杯は、終末を器としようとした」
メディアが杖を構える。
「また接続される可能性は?」
凛が宝石板を確認する。
「命令線は切った。でも完全に自由になったわけじゃない。神杯の根からの引力は残ってる」
終末神は士郎を見た。
「衛宮士郎」
「何だ」
「契約者に伝えよ」
士郎は息を呑む。
イリヤのことだ。
「何を」
「終末は、彼女の選択を記録した」
終末神の輪が静かに回る。
「彼女が再び終わりを望まぬ限り、私は彼女を迎えに行かない」
士郎は拳を握る。
「約束か」
「契約ではない」
終末神は答える。
「記録だ」
それだけ言うと、終末神の影は黒い霧となって薄れていった。
消えたわけではない。
どこかへ退いたのだ。
神杯からも、イリヤからも、少しだけ離れた場所へ。
凛が深く息を吐いた。
「……終わった?」
アーチャーが言う。
「この場はな」
ギルガメッシュが不快そうに空を見る。
「神杯の根はまだ生きている。むしろ、今のでさらに怒っただろう」
エルキドゥは黒い神杯を見つめる。
「でも、防衛機構の一つを切り離した。これは大きい」
メディアが頷く。
「神杯の命令線の構造も取れたわ。次に核へ攻める手が増えた」
士郎は港を見渡した。
戦場はひどく荒れている。
だが、完全には終わっていない。
灯りが一つ、また一つと戻り始めている。
酒神の蔦も、細い芽を残していた。
終わりを受け止めても、次が始まる。
そのことを、この港が証明しているようだった。
◆
戦いの後。
港の倉庫の屋根に、イスカンダルとエルメロイⅡ世は並んで座っていた。
戦車は半壊している。
神牛たちは霊体化し、修復を待っている。
エルメロイⅡ世は深くため息をついた。
「まったく……毎度毎度、心臓に悪い」
イスカンダルは笑う。
「だが生きておる」
「そういう問題ではない」
「ではどういう問題だ?」
「お前はいつも、勝手に大きなものを背負いすぎる」
イスカンダルは少し黙った。
それから、夜の海を見た。
「そうか?」
「そうだ」
エルメロイⅡ世の声は静かだった。
「僕はもう、かつての少年ではない。お前の背中を見ているだけの未熟者でもない。だから、次に何か背負う時は、少しくらいこちらにも寄越せ」
イスカンダルは目を丸くした。
そして、破顔した。
「はっはっは! 言うようになったではないか、坊主!」
「だから坊主ではない!」
「よかろう、ロード・エルメロイⅡ世。次は背負わせてやる」
「上から言うな」
「余は王だからな!」
「本当に腹が立つな、お前は」
そう言いながら、エルメロイⅡ世の表情はどこか穏やかだった。
酒神は少し離れた場所で、鳴神紫苑と共に海を眺めていた。
紫苑が問う。
「協力するのか」
酒神は空の杯を見つめる。
「神杯は宴を知らない」
「どういう意味だ」
「願いを集めて燃やすだけ。誰が何を望み、何を失い、何を飲み干したのかを見ていない。そんな杯は、酒神として許しがたい」
紫苑は小さく笑う。
「つまり、気に入らないと」
「うん」
酒神は微笑んだ。
「あの黒い杯には、味がない」
◆
衛宮邸へ戻った時、夜はかなり深くなっていた。
イリヤはまだ眠っていた。
士郎はそっと部屋に入り、彼女の様子を確認する。
呼吸は安定している。
凛とメディアの結界も保っている。
イリヤの手は、以前より少しだけ温かかった。
士郎は小さく息を吐く。
「ただいま」
眠っているイリヤは返事をしない。
けれど、指が微かに動いた気がした。
士郎は静かに続ける。
「終末神に会った。お前を迎えには来ないって言ってた」
イリヤは眠ったまま。
士郎は苦笑する。
「おやすみ、イリヤ」
その言葉を言えたことに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
約束を一つ、果たせた。
部屋を出ると、凛が廊下に立っていた。
「終末神の命令線、解析できそうよ」
「本当か」
「ええ。港で切った線の残滓を回収できた。これで神杯の核へ繋がる防衛構造がかなり見える」
「じゃあ次は」
「神杯の核に近づく方法を探す」
凛の表情は険しい。
「でも、嫌なことも分かった」
「何だ」
「神杯の核に絡んでる願いのうち、かなり強い反応が一つ浮上してきた」
士郎は眉をひそめる。
「誰の願いだ」
凛は宝石板を見せた。
そこには、教会方面の反応が映っている。
サーヴァント反応。
ルーラー。
さらに、神格反応。
境界神。
そして、その近くにもう一つ。
黒く濁った人間の魔力反応。
凛は低く言った。
「次に神杯が引きずり上げようとしてるのは、裁定の願いよ」
「裁定?」
「誰が正しいのか。誰が罪を背負うのか。誰が救われ、誰が罰されるべきなのか」
士郎の背筋に冷たいものが走った。
セイバーが静かに言う。
「ジャンヌ・ダルク」
凛は頷く。
「おそらく、次の戦場は教会。ルーラーと境界神。それに、神杯の核へ繋がる“裁き”の層」
アーチャーが壁にもたれながら呟く。
「救いの次は裁きか。実に悪趣味だ」
ギルガメッシュは不愉快そうに笑う。
「神杯め。次は聖女を秤にかけるつもりか」
士郎は拳を握った。
イリヤを救った。
終末神を切り離した。
港を守った。
だが神杯は止まらない。
人の願いを、次々に戦場へ変えていく。
ならば、次も止める。
願いを燃料にされる前に。
誰かの祈りが、誰かを傷つける裁きへ変えられる前に。
夜の底で、教会の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
それは祈りの鐘ではない。
裁きの始まりを告げる音だった。
神杯戦争、第八夜。
征服王と酒神は、終末を宴で受け止めた。
だが黒い杯は、次なる願いを引きずり上げる。
聖女の祈り。
境界の神。
そして、誰かが望んだ正しさの刃。
第九話へ続く。
コメント
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ああっ、第8話読み終わったよ〜!!😭💕 まずイスカンダルとウェイバーの再会シーン、めっちゃ熱かった!!「坊主じゃない!」って怒鳴り合いながらも、戦車で一緒に駆ける二人の絆がにじみ出てて泣ける…酒神との絡みも最高だったし、「終わりを知ってなお今を祝う神域」って概念がもうエモすぎてやばいよ!! 士郎が命令線を切る場面も手に汗握ったし、最後のイスカンダルの「轍は消えん」にはマジで胸が熱くなった🔥 次は聖女と裁きかあ…また心臓バクバクさせられる予感しかしないけど、楽しみにしてるよ!!⋆♡