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第九話 祈りと裁きの境界
冬木教会の鐘が鳴っていた。
一度。
二度。
三度。
夜の街に響くその音は、本来ならば祈りのためのものだった。
迷える者を導き、疲れた者に静寂を与え、罪を抱えた者に赦しの可能性を示すための音。
だが今夜の鐘は違う。
それは人を救うためではなく、人を裁くために鳴っていた。
冬木教会へ向かう坂道を、衛宮士郎たちは駆け上がっていた。
空は重い。
黒い神杯は、以前よりも低く見える。
まるで街全体を覗き込むように、巨大な杯の影が冬木を覆っている。
イリヤを神杯から切り離した。
終末神の命令線を断った。
港湾区では、征服王と酒神の力を借りて、終わりの暴走を押し返した。
人間側は、確かに神杯戦争の盤面に傷をつけ始めている。
だからこそ、神杯は次の願いを引きずり上げた。
裁き。
誰が正しいのか。
誰が罪を負うのか。
誰が救われるべきで、誰が罰されるべきなのか。
その問いは、士郎にとってあまりにも重いものだった。
彼は誰かを救いたいと願った。
だが、救えなかった者たちがいる。
見捨てたつもりはなくても、手が届かなかった命がある。
選ばなかったものがある。
選べなかったものがある。
それは罪なのか。
もし罪だというのなら、誰が裁くのか。
神か。
聖女か。
神杯か。
それとも、自分自身か。
坂道の途中で、遠坂凛が宝石板を見ながら足を止めた。
「……結界が張られてる」
士郎は前方を見る。
教会は坂の上に見えている。
だが、近いはずなのに遠い。
石畳の道が、どこまでも続いているように見えた。
セイバーが剣に手を添える。
「空間が歪められている?」
「違うわ」
凛は険しい顔で言う。
「距離じゃなくて、意味が変えられてる。教会へ向かう道が、“裁きの場へ向かう道”に置き換えられてる」
アーチャーが低く呟く。
「境界神か」
エルキドゥは静かに頷いた。
「うん。ここから先は、ただの坂道じゃない。日常と神域、救済と裁き、内側と外側。その境界が重なっている」
リチャード一世は剣を肩に担ぎ、珍しく笑みを薄めていた。
「教会を戦場にするとは、神杯もなかなか悪趣味だな」
メディアは冷たく言った。
「教会は元々、救いと裁きが隣り合う場所よ。だから利用しやすいのでしょう」
ギルガメッシュは坂の上を見上げ、鼻を鳴らした。
「裁きなど、王の仕事だ。神でも杯でも聖女でもない」
凛がため息をつく。
「あんたの場合、裁きっていうより気分で処刑じゃない」
「雑種の基準で王を測るな」
「今は喧嘩してる場合じゃないでしょ」
士郎は教会を見つめていた。
鐘が鳴るたび、胸の奥が重くなる。
イリヤは衛宮邸で眠っている。
凛とメディアの結界に守られ、かろうじて存在を維持している。
だから今、士郎はここにいる。
神杯が次の願いを燃料にする前に止めるために。
「行こう」
士郎は言った。
凛が頷く。
「全員、気をつけて。境界神の神域に入った瞬間、こっちの立場や役割が勝手に定義される可能性がある」
「役割?」
リチャードが問う。
「罪人、証人、裁定者、被告、傍聴人。そういう枠に入れられるってことよ」
アーチャーが目を細める。
「つまり、戦場ではなく法廷か」
「法廷の形をした神域ね」
凛は宝石を握る。
「しかも相手はルーラー。ジャンヌ・ダルクがいる」
士郎は息を吸った。
聖女ジャンヌ・ダルク。
かつて神の声を聞き、戦場に立ち、国を導き、最後には火刑台で命を終えた少女。
救済と殉教。
信仰と戦争。
神の名と人の罪。
そのすべてを背負う英霊が、神杯の裁きの層にいる。
◆
教会の扉は開いていた。
中から、白い光が漏れている。
士郎たちが足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
教会の内部は、見覚えのある礼拝堂ではなかった。
そこは巨大な法廷だった。
天井は見えず、ステンドグラスの代わりに無数の記憶が嵌め込まれている。
長椅子は傍聴席となり、祭壇は裁判官の席へ変わり、床には白と黒の線が境界のように引かれていた。
中央には、一人の少女が立っていた。
白銀の鎧。
青と白の旗。
穏やかで、悲しげで、それでも折れない瞳。
ジャンヌ・ダルク。
ルーラーのサーヴァント。
彼女は士郎たちを見ると、静かに頭を下げた。
「来ましたか」
声は澄んでいた。
だが、その奥に疲労がある。
凛が警戒を強める。
「あなたが、この神域を作ったの?」
「いいえ」
ジャンヌは首を振る。
「これは神杯が作った裁きの場です。私は呼ばれ、ここに立たされているに過ぎません」
「立たされている?」
士郎が問う。
ジャンヌは祭壇の奥を見た。
そこに、もう一人の存在がいた。
黒と白の境界線の上に立つ神。
性別も年齢も曖昧な姿。
片側は黒い衣、片側は白い衣。
右目は昼、左目は夜。
手には一本の鍵。
その鍵の片端は扉を開く形をしており、もう片端は刃になっている。
サーヴァリアント。
クラス、境界神。
その神は、静かに笑った。
「境界へようこそ、人間たち」
声は近くも遠くもあった。
「ここは救済と裁きの境界。祈りと罪の境界。生者と死者の境界。正義と独善の境界」
境界神は鍵を掲げる。
「そして、衛宮士郎。ここは君の理想と罪が向かい合う場所だ」
士郎の背筋が冷えた。
セイバーが一歩前へ出る。
「彼を裁くつもりですか」
境界神は微笑む。
「私が裁くのではない。裁きは既に彼の中にある。神杯はそれを形にしただけだ」
アーチャーが低く言う。
「趣味の悪い言い方だな」
「否定はしない。神も杯も、人の痛みを扱う時は大抵悪趣味になる」
境界神の視線がアーチャーへ移る。
「君も知っているだろう、錬鉄の英霊」
アーチャーの表情がわずかに変わった。
凛が鋭く言う。
「目的は何?」
境界神は答えた。
「神杯は裁定を求めている」
「裁定?」
「イリヤスフィールは生を選んだ。終末神は終わりを退けた。酒神と征服王は終わりを宴として受け入れた。ならば次に必要なのは、問うことだ」
ジャンヌは目を伏せる。
境界神は続ける。
「救われた者の裏に、救われなかった者がいる。選んだ者の裏に、選ばれなかった者がいる。では、救おうとする者は無罪なのか」
士郎は拳を握った。
その問いは、彼の胸に直接突き刺さる。
ジャンヌが静かに言う。
「士郎さん。ここは危険です。神杯はあなたの後悔を使おうとしている」
「俺の?」
「はい」
彼女の旗が淡く光る。
「あなたは救う人です。けれど、救えなかった人の記憶も背負っている。神杯はそれを裁きの核にしようとしている」
凛が顔を強張らせる。
「神杯の核に絡む願いって、士郎の後悔も含まれてるの?」
メディアが周囲の術式を読み取り、険しい顔をする。
「含まれているというより、今まさに引き出されているわ。この法廷そのものが、衛宮士郎の内側を材料にして広がっている」
士郎は黙った。
救えなかった者。
そこに浮かぶ顔はいくつもあった。
大火災で救えなかった人々。
聖杯戦争で失ったもの。
間に合わなかった命。
選べなかった選択。
そして、イリヤ。
助けた今でさえ、完全に救えたとは言えない。
彼女はまだ不安定で、明日どうなるか分からない。
それでも自分は、救ったと思いたかった。
その傲慢を、神杯は見逃さない。
礼拝堂の床に黒い水が滲んだ。
そこから、人影が立ち上がる。
顔はない。
だが、声があった。
『助けて』
士郎の呼吸が止まった。
次の影が立つ。
『なんで俺じゃなかった』
また次。
『正義の味方なんだろ』
影が増えていく。
教会の法廷は、救えなかった者たちの声で満たされていく。
凛が叫ぶ。
「士郎、聞いちゃ駄目!」
「無理だ」
士郎は呟いた。
「聞こえる」
セイバーが士郎の前に立つ。
「シロウ。これは神杯が作った幻です」
「でも、元になってるのは俺の記憶だ」
セイバーは言葉を詰まらせる。
境界神は鍵を鳴らした。
「裁判を始めよう」
白黒の線が床に広がる。
士郎の足元だけが、黒い円で囲まれた。
被告席。
凛が前に出ようとする。
だが見えない壁に阻まれた。
「っ、結界!」
境界神は言う。
「この裁きに直接介入できるのは、被告と裁定者のみ」
ジャンヌが旗を握りしめる。
「私を裁定者として使うつもりですか」
「ルーラーとはそのための器だろう?」
境界神の声は静かだった。
「正しさを量り、戦争の規律を守り、逸脱を裁く。神杯は君の霊基に、その役目を求めている」
ジャンヌの表情に、痛みが走る。
「私は、人を裁くために祈ったのではありません」
「だが君は裁かれた。火刑台で。人の正しさによって」
空気が凍った。
ジャンヌの過去。
信仰によって戦場に立ち、政治と恐怖と裁判によって命を奪われた少女。
裁かれた聖女。
だからこそ、神杯は彼女を選んだ。
救済と裁きの境界に立つ者として。
士郎はジャンヌを見る。
「ジャンヌ」
彼女は士郎を見た。
苦しそうに。
「士郎さん。私は……」
境界神が鍵を振る。
ジャンヌの足元に白い円が浮かぶ。
裁定者の席。
「問いを提示する」
境界神の声が法廷に響く。
「衛宮士郎。君は多くを救おうとした。その行為は善か」
士郎は答えない。
「君は救えなかった者たちを背負うと言った。その背負うという言葉は、死者への慰めか。それとも自分を許すための言い訳か」
影たちがざわめく。
『助けて』
『俺は?』
『私たちは?』
『正義の味方なら、どうして』
士郎の膝が揺れた。
アーチャーが壁の向こうで叫ぶ。
「衛宮士郎!」
士郎は顔を上げる。
アーチャーの声は厳しかった。
「下を向くな。そこにあるのはお前の罪ではない。神杯が都合よく切り取った残骸だ」
境界神は微笑む。
「残骸であっても、彼の中にあるものだ」
アーチャーは睨む。
「だから何だ。後悔を持つ者は全員裁かれるべきか」
「それを今問うている」
ジャンヌは旗を握る手を震わせていた。
神杯が彼女の霊基へ干渉している。
彼女を裁定者として機能させようとしている。
凛がメディアへ叫ぶ。
「キャスター、ジャンヌへの干渉を切れる?」
「やっているわ!」
メディアは紫の術式を展開する。
だが、境界神の鍵が鳴ると、その術式は白と黒の境界で分断された。
「遠い……! 術式の意味が切られる。接続する前に、内側と外側へ分けられてしまう!」
エルキドゥが鎖を伸ばす。
しかし、鎖もまた境界線の前で止まる。
「縛れない。神域が“ここから先は裁きの内側”と定義している」
ギルガメッシュの王の財宝が開く。
「くだらん。ならば法廷ごと砕く」
宝具が放たれる。
だが、白黒の境界線に触れた瞬間、宝具は“証拠品”として法廷の壁に整列した。
ギルガメッシュの眉が跳ねる。
「ほう。我の宝を勝手に分類したか」
その声は、明確に怒っていた。
リチャードが剣を抜く。
「裁きの場へ剣を持ち込めぬとは、堅苦しい!」
彼が斬り込もうとするが、足元に“傍聴人”の円が浮かび、身体が一瞬だけ固定される。
リチャードは笑みを歪めた。
「なるほど、役割で縛るか。厄介だな」
士郎は被告席の中で立っていた。
周囲の声が増える。
助けて。
どうして。
選ばれなかった。
お前だけが生き残った。
お前だけが正義を語るのか。
その声は幻だ。
分かっている。
だが、胸の奥にある本物の痛みを叩く。
ジャンヌが苦しそうに口を開いた。
「衛宮士郎」
その声は、彼女自身のものと、神杯に操られた裁定者の声が重なっていた。
「あなたは、自らの救済行為を正義と認めますか」
士郎は顔を上げる。
答えなければならない。
逃げれば、神杯はその沈黙を罪として扱う。
「分からない」
士郎は言った。
境界神が目を細める。
「分からない?」
「俺がやってきたことが正義だったのか、今でも分からない。誰かを救いたいと思った。でも、救えなかった人もいる。誰かを助けるために、別の誰かの手を離したこともある」
影たちが揺れる。
士郎は続ける。
「それを正しかったなんて、簡単には言えない」
ジャンヌの瞳が揺れた。
士郎は拳を握る。
「でも、だからって、助けたいと思ったことまで間違いにしたくない」
境界神は鍵を傾ける。
「ならば、君は罪を背負いながら救済を続けると?」
「たぶん、そうだ」
「傲慢だ」
「そうかもしれない」
「救えなかった者たちは?」
「忘れない」
「忘れないことが償いになると?」
「ならない」
士郎の声は震えていた。
「ならないって、分かってる」
法廷が静かになる。
彼は叫ばなかった。
ただ、絞り出すように言う。
「忘れないことは償いじゃない。背負うって言葉も、きっと俺が勝手に言ってるだけだ。救えなかった人にとっては、何の意味もないかもしれない」
凛が唇を噛んだ。
セイバーはじっと士郎を見ている。
アーチャーは、何も言わない。
士郎は続けた。
「でも、それでも俺は、次に手が届くなら伸ばす。罪が消えなくても、正しいって証明できなくても、誰かが助けてって言うなら、俺は手を伸ばす」
境界神は静かに問い返す。
「それは君の救いか」
士郎は答える。
「そうかもしれない」
影たちがざわめく。
「でも、それだけじゃない。イリヤは生きたいって言った。俺が救いたいからじゃなくて、イリヤが選んだ。だから俺は手を伸ばした」
彼はジャンヌを見る。
「救いは、助ける側が決めるものじゃない。助けられる側が、それでも生きたいって選ぶものなんだと思う」
ジャンヌの瞳に光が戻る。
神杯による干渉が揺らいだ。
境界神の表情が変わる。
「裁定者。判決を」
ジャンヌの手が震える。
旗が白く輝く。
神杯が彼女に判決を強制しようとしている。
有罪か。
無罪か。
救済者か。
罪人か。
そのどちらかに分類しようとしている。
だが、ジャンヌは顔を上げた。
「私は」
声が震えていた。
けれど、折れていなかった。
「私は、衛宮士郎を裁きません」
境界神の鍵が止まる。
「職務放棄か、ルーラー」
「いいえ」
ジャンヌは旗を掲げる。
「これは私の裁定です」
白い光が法廷を満たす。
「人の痛みは、白と黒だけで分けられるものではありません。救えなかった罪は消えない。救おうとした願いも消えない。その両方を抱えたまま、人は次の選択へ進む」
彼女の声は強くなっていく。
「私は、彼を無罪とも有罪とも断じません。彼の歩みを、神杯の燃料にすることを拒みます」
法廷が揺れた。
白黒の境界線に亀裂が入る。
境界神は、初めて笑みを消した。
「曖昧な裁定だ」
「人間とは、曖昧なものです」
ジャンヌは静かに言う。
「神のように完全ではない。機械のように分類できない。だから祈るのです。だから迷うのです。だから、赦しを求める」
境界神は鍵を握り直す。
「ならば、その曖昧さごと境界に沈める」
神域が変化する。
法廷の床が割れ、黒と白の裂け目が開いた。
救済と裁き。
有罪と無罪。
生者と死者。
内側と外側。
すべての境界が刃となって立ち上がる。
凛が叫ぶ。
「来る! 神域が戦闘形態に切り替わった!」
境界神は鍵を掲げる。
「神器開帳」
鍵の刃が白黒に輝く。
「双界鍵剣――リミナ・クラヴィス」
鍵が剣へ変わった。
片刃は白。
片刃は黒。
触れたものを二つの意味に分断する神器。
生と死。
内と外。
味方と敵。
善と悪。
曖昧さを許さない刃。
ジャンヌが旗を構える。
「来ます!」
境界神が一歩で距離を詰める。
速い、というより、間の境界を切った。
そこにいたはずの神が、次の瞬間にはジャンヌの前にいる。
白黒の刃が振るわれる。
ジャンヌは旗で受ける。
衝突した瞬間、旗の布が白と黒に分かれかけた。
救済の旗を、裁きの刃が二分しようとしている。
セイバーが飛び込む。
不可視の剣が境界神の横腹を狙う。
だが、境界神は鍵剣をわずかに傾ける。
セイバーと自分の間に“内側と外側”の境界を作った。
剣が届かない。
そこにあるのに、別の側にいる。
「厄介です……!」
アーチャーが矢を放つ。
矢は境界線を越えようとした瞬間、攻撃と証拠に分けられた。
攻撃性だけが消え、ただの鉄片として床に落ちる。
アーチャーは眉をひそめる。
「概念の分離か」
リチャードが斬り込む。
「ならば王の剣で、境界ごと越えてみせる!」
境界神の刃がリチャードの剣とぶつかる。
火花が白黒に散る。
リチャードの剣は、勇気と蛮勇に分けられかけた。
彼は笑う。
「ははっ、面白い! 王の無謀と勇気を分けるとは、難題だ!」
「分ければ残るのは愚行だ」
境界神が言う。
「それはどうかな!」
リチャードは踏み込む。
「王の愚行が、時に歴史を動かす!」
ギルガメッシュの宝具が降り注ぐ。
だが、境界神は鍵剣で空間を切り、宝具の軌道を内側と外側に分ける。
半数は届かない。
半数は届くが威力が落ちる。
ギルガメッシュの苛立ちが増す。
「我の宝を仕分けるな、雑神」
エルキドゥの鎖が伸びる。
境界神の足元を縛ろうとする。
だが、境界神は鎖を“神を縛るもの”と“ただの鎖”に分離した。
神性拘束の意味だけが剥がれ、鎖は力を失って落ちる。
エルキドゥは静かに息を吐く。
「本当に相性が悪い」
凛とメディアが同時に術式を展開する。
だが、術式は起動前に“詠唱”と“効果”へ分けられ、成立しない。
メディアが舌打ちした。
「分類する神なんて、魔術師にとって最低の相手ね」
凛も悔しげに言う。
「式を分けられたら魔術にならない……!」
士郎は戦場を見る。
境界神は強い。
単純な破壊力では天王や戦神ほどではない。
終末神のような圧倒的な侵食でもない。
だが、こちらの攻撃の意味を分ける。
剣を、刃と柄に。
魔術を、構成と効果に。
勇気を、希望と無謀に。
救いを、自己満足と善意に。
分けられたものは力を失う。
なら、分けられないものは何だ。
士郎は自分の両手を見る。
投影。
自分の剣は贋作だ。
本物と偽物に分けられたら終わる。
善意と独善に分けられても終わる。
救いと罪に分けられても終わる。
だからこそ、迷う。
でも。
ジャンヌは言った。
人間とは曖昧なものだ、と。
なら、分けられたら終わるのではない。
分けられても、また混ざり直せばいい。
士郎は息を吸った。
「凛!」
「何!」
「境界神の刃は、意味を二つに分けるんだよな!」
「そうよ!」
「じゃあ、二つに分けられた後で、もう一回繋げられるか?」
凛の目が見開かれる。
「……理論上はできる。でも、分けられた瞬間に効果が消えるから、再接続する前に崩れる」
メディアが続ける。
「普通の術式ならね。けれど、もともと不完全なものなら話は別よ」
士郎を見る。
「あなたの贋作は、本物と偽物の境界が曖昧。だから分離されても、完全には壊れない可能性がある」
アーチャーが苦々しく笑う。
「贋作であることが利点になるか」
「皮肉だな」
士郎は呟いた。
彼は両手を開く。
「投影、開始」
干将・莫耶を作る。
だが、いつものように完成させない。
本物に近づけすぎない。
偽物として安定させすぎない。
本物と偽物の間。
剣と投影の間。
救済と自己満足の間。
曖昧なまま、形にする。
両手に現れた双剣は、輪郭が少し揺らいでいた。
凛が叫ぶ。
「士郎、長く持たないわよ!」
「一瞬でいい!」
士郎は走る。
境界神が彼を見た。
「衛宮士郎。まだ裁きを拒むか」
「拒む」
「罪も、救いも、分けずに抱えると?」
「ああ」
士郎は双剣を構える。
「分けたら楽になるかもしれない。これは善、これは悪。これは救い、これは罪。そうやって決められたら、きっと楽だ」
境界神の鍵剣が振るわれる。
士郎は双剣で受ける。
瞬間、双剣が分かたれる。
本物と偽物。
刃と影。
意味と形。
普通なら崩れる。
だが、士郎はそのまま踏み込んだ。
分かたれた双剣を、魔力で強引に繋ぎ直す。
砕けながら、また剣になる。
壊れながら、また形を取る。
「でも、人間はそんなに綺麗に分けられない!」
士郎の剣が境界神の刃を弾いた。
境界神がわずかに後退する。
ジャンヌがその隙に旗を掲げる。
「今です!」
彼女の旗から白い光が広がる。
裁きではない。
守護の光。
凛とメディアが同時に術式を重ねる。
白黒に分断されていた法廷の境界線を、宝石魔術と神代魔術が繋ぎ直す。
エルキドゥの鎖が再び伸びる。
今度は境界神を縛るのではない。
分けられた空間同士を縫い合わせる。
ギルガメッシュが宝具を放つ。
それは攻撃ではなく、法廷の壁に刺さった“証拠品”となっていた宝具群を強引に回収するための一撃。
「我の物を、我以外の分類に置くな」
黄金の光が法廷の分類を破る。
リチャードが大きく踏み込む。
「道が繋がった!」
セイバーが剣を構える。
「シロウ!」
「ああ!」
士郎は境界神へ向かう。
境界神は鍵剣を構え直す。
「ならば問おう。救いと独善の境界はどこにある?」
士郎は答える。
「相手の声を聞くところだ」
「罪と責任の境界は?」
「逃げずに次を選ぶところだ」
「正義と呪いの境界は?」
士郎は一瞬だけ黙った。
そして言う。
「一人で決めたら呪いになる。誰かと進めたら、たぶんまだ正義でいられる」
アーチャーの表情が揺れた。
それは、かつて一人で進み続けた英霊にとって、あまりにも痛い答えだった。
境界神は静かに目を細める。
「曖昧だ」
「ああ」
士郎は剣を振るう。
「それでもいい!」
双剣と鍵剣が衝突する。
境界が裂ける。
士郎の剣は砕ける。
だが砕けた破片が、凛の術式によって繋がる。
エルキドゥの鎖が空間を縫い、ジャンヌの旗が分断を抑える。
セイバーが横から踏み込む。
不可視の剣が境界神の鍵剣を打つ。
リチャードが反対側から斬り込む。
王の剣が白黒の刃を押さえる。
アーチャーの矢が、境界神の足元の法廷線を撃ち抜く。
メディアが術式の核を暴く。
「見えたわ! 神域の支点は祭壇奥の扉!」
祭壇の奥に、白黒の扉が現れた。
片側は開き、片側は閉じている。
救済と裁きの境界。
あれが境界神の神域の核。
ギルガメッシュが王の財宝を開く。
「ならば扉ごと消せ」
しかしジャンヌが叫ぶ。
「壊してはいけません! あれは神杯の核へ繋がる境界でもあります!」
凛が即座に理解する。
「壊すんじゃなくて、開ける必要があるのね!」
境界神が鍵剣を振るう。
「開ければ、神杯の裁きの層へ至る。そこへ踏み込む覚悟があるか」
士郎は答える。
「ある」
境界神は笑った。
「ならば、鍵を奪え」
その瞬間、境界神の攻撃が変わった。
防御を捨て、士郎へ向かってくる。
鍵剣が振るわれる。
士郎の足元が生者と死者に分けられかける。
視界が歪む。
生き残った自分。
死んだかもしれない自分。
救った自分。
救えなかった自分。
無数の境界が彼を裂こうとする。
セイバーが前に入る。
「シロウ!」
だが士郎は叫んだ。
「セイバー、俺が行く!」
セイバーは一瞬迷い、すぐに頷いた。
「はい!」
彼女は境界神の刃を受け止める。
その隙に士郎は低く潜り込む。
双剣はもう砕けかけている。
だが十分だ。
狙うのは境界神そのものではない。
鍵剣の根元。
神器と神域を繋ぐ境界。
「投影、開始!」
士郎はもう一本、短い剣を作る。
不完全な贋作。
意味の曖昧な剣。
それを鍵剣の根元へ叩き込む。
境界神の目が見開かれる。
「そこを斬るか」
「斬るんじゃない」
士郎は歯を食いしばる。
「こじ開ける!」
凛が宝石を砕く。
メディアの術式が重なる。
エルキドゥの鎖が鍵剣の刃を縛る。
ジャンヌの旗が白い光を注ぐ。
ギルガメッシュの宝具が法廷の分類を破壊する。
リチャードとセイバーが境界神の両側から押さえる。
アーチャーの矢が鍵剣の接続点を撃つ。
全員の力が、一点に重なった。
鍵剣が、音を立てて割れた。
完全に砕けたわけではない。
神器としての形は残っている。
だが、鍵の部分が外れた。
白黒の鍵が宙へ舞う。
士郎はそれを掴んだ。
瞬間、祭壇奥の扉が開いた。
法廷が崩れ始める。
境界神は膝をついた。
だが、その表情は敗北のものではなかった。
むしろ、どこか満足げだった。
「境界は開かれた」
ジャンヌが近づく。
「あなたは、最初からこの扉を開かせるつもりだったのですか」
境界神は微笑む。
「私は境界を守る神だ。だが境界とは、閉ざすためだけにあるのではない」
士郎は息を整えながら問う。
「神杯の味方じゃなかったのか」
「神杯は私を使おうとした。裁きの層を閉じ、君たちを罪の内側へ閉じ込めようとした」
境界神は士郎を見る。
「だが、境界は選ぶ者のためにある。閉じるか、越えるか。それを決めるのは、神杯ではない」
ジャンヌは静かに目を伏せた。
「だから、試したのですね」
「そうだ」
境界神は鍵剣の残骸を見た。
「衛宮士郎。君は自らの罪を否定しなかった。救いを正義と断じなかった。曖昧なまま、進むことを選んだ」
士郎は答えない。
境界神は続ける。
「ならば扉は開く。裁きの層の奥へ行け。そこに、神杯の核へ至る二つ目の道がある」
凛が息を呑む。
「二つ目?」
「一つ目は願いの底。イリヤスフィールの生への願いによって開かれた。二つ目は裁きの境界。君たちが今開いた」
メディアが目を細める。
「神杯の核へ行くには、複数の層を開く必要があるのね」
「そうだ」
境界神は頷く。
「終末。祝祭。裁き。さらに深くには、愛、憎悪、王権、創造、死、そして始まりの層がある」
凛が顔をしかめる。
「まだそんなに……」
ギルガメッシュが不愉快そうに笑う。
「面倒な杯だ。だが層があるなら剥がせばよい」
ジャンヌは士郎を見る。
「私は協力します」
士郎は驚いた。
「いいのか」
「はい」
ジャンヌは旗を胸に抱く。
「神杯は祈りを裁きに変えようとした。私は、それを許せません」
リチャードが笑う。
「聖女殿が加わるとは心強い」
アーチャーが呟く。
「また大所帯になったな」
凛が疲れたように言う。
「もう衛宮邸、完全に作戦本部じゃない……」
メディアがさらっと言う。
「結界を増やしておきなさい。今のままでは狭いわ」
「あなたが言う?」
士郎は手の中の白黒の鍵を見る。
小さな鍵。
だが、重い。
罪と救いの境界を越えた証。
自分は無罪ではない。
正義とも言い切れない。
それでも進む。
誰かの声を聞きながら。
一人で決めつけずに。
救いを押しつけないように。
それでも、手を伸ばす。
◆
教会の神域が崩れると、礼拝堂は元の姿へ戻っていた。
長椅子。
祭壇。
十字架。
薄暗い照明。
だが祭壇の奥には、白黒の小さな扉が残っている。
神杯の核へ通じる層の一つ。
すぐに入るべきではない、と凛は判断した。
「今は撤退。士郎の精神負荷が大きいし、ジャンヌの霊基も神杯干渉を受けたばかり。ここで無理に奥へ進むのは危険」
士郎は反論しなかった。
自分でも分かっていた。
足が重い。
声がまだ耳に残っている。
助けて。
どうして。
正義の味方なんだろ。
それらは神杯の幻だ。
けれど、消えることはない。
消えてはいけないのだと思った。
ジャンヌが隣に立つ。
「士郎さん」
「何だ」
「あなたは、苦しい道を選んでいます」
「ああ」
「ですが、その苦しさを理由に、すべてを一人で背負おうとしないでください」
士郎はジャンヌを見る。
彼女は穏やかに微笑んだ。
「祈りは、一人で抱えるものではありません。誰かに届くためにあるのです」
士郎は少しだけ笑った。
「覚えておく」
アーチャーが壁際で言う。
「本当に覚えておけ」
「分かってる」
「お前の分かっているは信用できない」
凛が頷く。
「それは同意」
「二人してひどくないか」
セイバーが少しだけ微笑む。
「ですが、私も同意します」
「セイバーまで?」
リチャードが豪快に笑った。
「愛されているな、衛宮士郎!」
士郎は困ったように眉を下げた。
ギルガメッシュはその様子を見て、呆れたように鼻を鳴らす。
「騒がしい雑種どもだ」
エルキドゥは静かに笑っていた。
◆
衛宮邸へ戻ると、イリヤは目を覚ましていた。
布団の上で上体を起こし、ぼんやりと窓の外を見ている。
士郎が部屋に入ると、彼女は振り返った。
「おかえり、お兄ちゃん」
その一言だけで、胸の奥がほどけた。
士郎は静かに答える。
「ただいま、イリヤ」
イリヤは士郎の顔をじっと見る。
「なんか、疲れてる」
「ちょっとな」
「無茶した?」
「少し」
廊下から凛の声が飛んでくる。
「かなり!」
イリヤはくすっと笑った。
その笑顔はまだ弱々しい。
でも、確かに生きている人の笑顔だった。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「手、握って」
士郎は隣に座り、イリヤの手を握った。
今夜は、昨日より温かい。
イリヤは目を閉じる。
「変なの。死んだ後なのに、まだ怖いこといっぱいあるんだね」
「そうだな」
「でも、朝が来るのも、ちょっと楽しみ」
士郎は言葉に詰まった。
イリヤは目を開け、少し照れたように笑う。
「明日の朝も、おはようって言っていい?」
「ああ」
士郎は頷く。
「毎朝言え」
イリヤは小さく笑った。
「欲張りだなぁ、お兄ちゃん」
「欲張りでいい」
「うん」
彼女は安心したように目を閉じる。
士郎はその手を握ったまま、しばらく動かなかった。
◆
その頃。
冬木の別区域。
古い洋館の地下で、一人の男が目を開けた。
薄暗い部屋。
壁一面に魔術陣。
床には赤黒い光が走っている。
彼の前には、巨大な鏡があった。
鏡の中に映っているのは、冬木教会の白黒の扉。
そして衛宮士郎が手に入れた境界の鍵。
男は微笑む。
細い指。
青白い肌。
貴族めいた礼装。
名は、ヴァレリウス・アシュボーン。
サーヴァント側マスターの一人。
彼の背後に、黒い鎧をまとった騎士が立っている。
狂気と哀しみを纏う英霊。
ランスロット。
バーサーカーではない。
この神杯戦争において、彼は別の器で召喚されていた。
クラス、アヴェンジャー。
愛と罪と王への後悔を抱えた復讐者。
ヴァレリウスは鏡を撫でる。
「救済、終末、祝祭、裁き。なるほど。衛宮士郎は実によく扉を開けてくれる」
ランスロットは沈黙している。
ヴァレリウスは笑う。
「次の層は、愛と憎悪の境界だ。君には相応しいだろう、湖の騎士」
ランスロットの鎧が軋む。
その奥から、低い声が響いた。
「王……」
ヴァレリウスは満足そうに頷く。
「そうだ。君の王もいる。アルトリア・ペンドラゴン。再び彼女の前に立つ時、君は何を選ぶのかな」
鏡の中で、黒い神杯が脈動する。
愛。
裏切り。
後悔。
罪。
神杯は次なる層を開こうとしていた。
裁きの次は、愛憎。
そしてその中心に立つのは、騎士王と湖の騎士。
衛宮邸の夜は、まだ静かだった。
だが遠くで、黒い鎧の騎士が剣を抜く音がした。
神杯戦争、第九夜。
士郎は裁きの境界を越えた。
ジャンヌ・ダルクは祈りを裁きに変えることを拒んだ。
そして次の扉の向こうで、愛と罪を抱えた騎士が待っている。
第十話へ続く。
コメント
1件
第9話、読み終えました。境界神の「概念を二つに分ける」能力、本当に巧妙で気持ち良い設計ですね。鍵剣の根元をこじ開ける士郎の選択も、贋作の曖昧さを逆手に取った解決も、設定の一貫性を感じられて好みでした。そして何より、ジャンヌが「裁かない」と宣言する場面。彼女自身も裁かれた聖女だからこそ、人を白黒で断じることを拒んだのが深く響きました。イリヤの「おはよう」シーンでほっとしたのも束の間、ラストのランスロット登場で次の層への期待が一気に高まりました。続きが待ち遠しいです。