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眠狂四郎
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上野文
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こはる
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第十九章 それぞれの帰る場所編
第272話 王都地下の女
【異世界・王都イルダ/地下水路・昼】
王国警備局の地下から続く古い階段を下りると、空気が一気に冷たくなった。
石壁には水滴が浮かび、足元では細い水路が暗い奥へ続いている。
王都の地下水路は今も一部が使われているが、ハレルたちが向かっているのはさらに古い区域だった。
先頭を歩くダミエが、小さな灯りを掲げる。
「ここから、古い」
アデルが周囲を見る。
「今の地図には?」
「載ってない」
ダミエは壁に触れ、指先から細い光を流した。
現れた線はすぐ正面へ進まず、石壁の中へ潜り込むように消える。
ノノの声がイヤーカフから届いた。
『こっちでも確認した。
今いる場所から候補Aまで、直線なら百二十メートルくらい』
リオが暗い通路の先を見る。
「直線で行ける場所には見えないな」
『うん。間に古い壁が何枚もある。それに、高さも違う』
ハレルが尋ねる。
「もっと下なのか?」
『たぶん。今の地下水路より十五メートル前後』
サキがスマートフォンを確認する。
画面ではreの白い線が何度も折れ曲がりながら、地下のさらに奥へ伸びていた。
「こっち」
サキが右側の細い通路を指す。
ダミエも同じ方向を見る。
「合ってる」
一行は水路を離れ、人一人がようやく通れるほどの狭い通路へ入った。
後方には四人の警備局員が続く。
アデルは何度も立ち止まり、壁や天井を確認していた。
「古いというだけで、ここまで放置されるものなのか」
ダミエが答える。
「使わなくなった場所は多い」
「それでも王都の真下だぞ」
「王都は、上へ増えた」
ダミエは壁を指した。
「下は残る」
何百年もの間に建物が建て替えられ、道が変わり、新しい水路や地下室が作られていった。
そのたびに使われなくなった空間が埋められ、あるいは忘れられていく。
ハレルは現実世界の地下街を思い浮かべた。
新しい駅の下に古い線路が残っている話を聞いたことがある。
世界が違っても、人が作った街は似たところがあるらしい。
その時、サキが足を止めた。
「reが止まった」
白い線が、目の前の壁で途切れている。
石を積み上げただけの壁。
扉らしいものはない。
リオが近づこうとすると、ダミエが腕を出した。
「待って」
「何かあるのか」
ダミエはフードの奥から壁を見つめる。
「結界」
アデルの表情が変わった。
「敵のものか?」
「分からない。かなり古い」
ダミエはしゃがみ込み、壁際の石へ指を置いた。
淡い光が床を走る。
「閉じ込める結界じゃない」
「では?」
「隠してる」
ノノの声が入る。
『反応もそこで一度途切れてる。でも候補Aは、その向こうにいる』
ハレルはサキのスマートフォンを見る。
reは動かない。
ただ、壁の前で弱く光っている。
「危険ってことかな」
サキが言った。
アデルが壁を見たまま答える。
「決めつけない方がいい。止まっている理由を先に調べる」
ダミエが結界へさらに細い線を重ねた。
しばらくして、一か所だけ光が弱くなる。
「入口、あった」
リオが目を細める。
「見えないけど」
「今は壁」
ダミエが立ち上がる。
「昔は扉」
アデルがハレルを見る。
「前と似ているな」
高瀬を連れて逃げた時も、壁になった古い避難通路をreが見つけた。
ハレルは頷く。
「記録だけ残ってる入口ですか」
「たぶん」
ノノが答える。
『でも今回は、勝手に開かないで。中に人がいるなら、急に壁を消すのも危険だから』
「どうする?」
リオが聞く。
ダミエが答えた。
「知らせる」
◆ ◆ ◆
ダミエは壁に手のひらを当て、弱い魔力を流した。
攻撃でも解除でもない。
ただ、外に誰かがいることを伝える程度の小さな振動。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
全員が黙って待つ。
返事はなかった。
警備局員の一人が尋ねる。
「無人では?」
「反応はある」
アデルが言う。
「待て」
さらに数秒。
その時だった。
壁の向こうから。
コツ。
小さな音がした。
全員の視線が集まる。
もう一度。
コツ。
サキが息を呑む。
「誰かいる」
ハレルが壁へ向かって声をかけた。
「聞こえますか?」
返事はない。
「俺たちは王国警備局から来ました。危害を加えるつもりはありません」
沈黙。
ハレルは続ける。
「そこから出たいなら、手伝います」
壁の向こうで何かが擦れる。
今度は先ほどより近い。
そして、ごく小さな声がした。
「……だれ……」
女性の声だった。
ハレルがアデルを見る。
アデルが頷く。
「私は王国警備局のアデルだ」
壁越しに、ゆっくり話す。
「あなたを探してここまで来た。今から入口を開けたい。ただし、あなたが望まないなら開けない」
しばらく返事はない。
やがて。
「……開ける……?」
「できる」
「外に……出られる?」
アデルは即答しなかった。
「この場所からは出せる」
そして続ける。
「その後どこへ行くかは、あなたと話してから決める」
また沈黙。
今度は長かった。
やがて、声が返る。
「……ここから」
少し息を吸う音。
「出たい」
アデルがダミエを見る。
「開ける」
ダミエが頷いた。
◆ ◆ ◆
結界を壊すのではなく、古い入口の形だけを現在の壁へ重ねる。
ダミエの光が四角い輪郭を作り、そこへreの白い線がゆっくり重なった。
ノノが分析室から状態を確認する。
『壁の向こうの反応、変化なし。急激な魔力上昇もないよ』
「続ける」
アデルが言う。
石壁の中央に細い線が現れる。
次第にそれが扉の継ぎ目へ変わり、何十年、あるいは何百年も存在しなかった入口が形を取り戻した。
湿った空気が隙間から流れてくる。
ダミエが手を離した。
「開いた」
アデルは警備局員を振り返る。
「武器を下げろ」
全員が剣先を床へ向ける。
「私とハレルだけ先に入る。残りはここで待て」
リオが言う。
「俺も行く」
「待機だ」
「何かあったら二人だけになる」
「だからお前が外にいる」
アデルはリオの右手首へ一瞬だけ視線を落とした。
「副鍵を使えない状態で狭い場所へ人数を詰め込む方が危険だ」
リオは少し不満そうだったが、今回は反論しなかった。
「分かった」
ハレルとアデルが入口をくぐる。
サキも行こうとしたが、アデルが止めた。
「サキもここで待ってくれ。reは入口の確認だけ頼む」
「うん」
サキはスマートフォンを胸元に持った。
reの白い線は、扉の向こうへ細く伸びている。
◆ ◆ ◆
壁の先には、小さな地下空間があった。
元は倉庫か避難室だったのだろう。
壁際には壊れた木箱が積まれ、古い布や空の水瓶が散らばっている。
思っていたより生活の跡があった。
誰かが最近ここにいたことは間違いない。
奥。
石柱の陰で何かが動いた。
ハレルは立ち止まる。
「大丈夫です」
アデルも剣には触れない。
「入口は開いた。出たければ出られる」
ゆっくり。
人影が姿を現した。
女性。
年齢は三十歳前後に見える。
髪は肩より少し長いが、かなり乱れている。顔は痩せ、頬に汚れがついていた。
それでも自分で立っている。
大きな外傷も見えない。
特徴的だったのは服だった。
上から古い異世界の外套を羽織っている。
しかし、その下。
胸元から見える灰色の服は、王都の布とは明らかに違った。
薄く。
均一で。
縫い目も細かい。
ハレルには見覚えがある。
現実世界の衣服。
女性は二人を見て、警戒するように壁へ背中をつけた。
アデルは距離を詰めなかった。
「怪我は?」
女性は答えない。
「痛む場所はあるか」
少しして。
「……足」
「どちらだ」
「左」
アデルは女性の左足を見る。
足首が腫れている。
「歩けるか」
女性が頷く。
だが一歩動いた瞬間、顔が歪んだ。
アデルはすぐ止める。
「無理をするな」
外へ向かって声を出す。
「担架を用意しろ。治療班にも連絡」
『聞こえてる』
ノノの声が入った。
『イデールにも連絡する』
女性が突然、アデルの耳元を見た。
「……誰と……話してるの」
「仲間だ」
アデルは答える。
「別の場所から、こちらの状態を確認している」
女性はイヤーカフを見つめる。
その目に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
ハレルはその反応を見た。
通信機器そのものを知らない反応なのか。
それとも。
何か別のものを思い出しかけたのか。
今は分からない。
だから聞かない。
◆ ◆ ◆
外へ出る前に、アデルは一つだけ確認した。
「名前を聞いてもいいか」
女性の身体がわずかに硬くなる。
「無理なら今は答えなくていい」
女性はしばらく床を見ていた。
唇が動く。
「……名前……」
自分に問いかけるように呟く。
「私の……」
その先が出ない。
ハレルは待った。
女性は額を押さえた。
「分からない」
「思い出せない?」
「呼ばれてた……気がする」
「誰に?」
「……分からない」
呼吸が速くなり始める。
アデルがすぐに止めた。
「もういい」
女性が顔を上げる。
「でも……」
「今は名前より、ここから出る方が先だ」
女性はアデルを見つめた。
「名前、分からないのに?」
「関係ない」
アデルの返事は短かった。
「名前が分からなくても、怪我人は怪我人だ」
女性の目が揺れる。
その表情を見て、ハレルは思った。
名前がない。
それだけでこの女性は長い間、自分が何者なのか分からないままここにいたのかもしれない。
「外に安全な場所があります」
ハレルが言う。
「そこで休んでから、一緒に確認しましょう」
女性がハレルを見る。
「……あなたたち」
「はい」
「私を……どこかに戻すの?」
ハレルはすぐには答えなかった。
昨日までなら。
現実世界の服を見た時点で、現実へ戻すことを考えたかもしれない。
でも今は違う。
「それは、まだ決めません」
女性が驚いたように見る。
ハレルは続ける。
「あなたがどこから来たのかも調べます。でも、それと、あなたがどこへ行きたいかは別です」
女性は何も言わなかった。
「帰りたい場所があるなら、そこを探します」
「帰りたくないなら?」
「無理には帰しません」
女性の視線が揺れる。
長い沈黙のあと。
「……分からない」
「はい」
「どこに帰りたいか……分からない」
ハレルは頷いた。
「それでも大丈夫です」
今すぐ答えを出してもらう必要はない。
それこそ。
今まで何度も学んだことだった。
◆ ◆ ◆
入口の外へ出る。
警備局員が担架を用意していた。
サキは女性の姿を見ると、一瞬だけ目を見開いた。
灰色の服。
外套の下から見えるファスナー。
胸元には小さな布製の札が残っている。
文字は汚れていて読みにくい。
だが、サキが近づこうとした時、reが強く光った。
「re?」
白い線が女性へ伸びる。
しかし身体へ直接触れるような線ではない。
足元。
入口。
その先。
安全な道だけをなぞる。
画面に表示。
《安全》
続いて。
《休む》
サキが少し驚く。
「休む……?」
ノノも分析室から見ていた。
『エリウスの案内層にも同じ反応が出てる』
アデルが尋ねる。
「帰還は?」
『出てない』
「名前は?」
『それも出てない』
ノノは少し間を置く。
『今は移動して休ませる。それだけみたい』
アデルが頷いた。
「十分だ」
女性は担架へ座るのを一度ためらった。
サキが少し離れたところから声をかける。
「痛かったら言ってください」
女性がサキを見る。
その視線が、スマートフォンで止まった。
「それ……」
サキも画面を見る。
「これ?」
reが静かに光っている。
女性の顔から血の気が引いた。
ハレルが気づく。
「知ってるんですか?」
女性は答えない。
ただ。
スマートフォンの白い光を見つめている。
唇がかすかに震えた。
「……白い……」
サキが一歩近づく。
「何か思い出した?」
女性は首を振った。
「違う……」
「じゃあ?」
「分からない」
それ以上は何も出なかった。
だが、reは女性を指さない。
強く迫りもしない。
ただ、帰還保護区画へ続く安全な道だけを示していた。
◆ ◆ ◆
【王国警備局・臨時分析室】
女性の移送開始が報告される。
ノノは新しい記録を作った。
《候補A》
《成人女性》
《生存確認》
《左足首負傷》
《名前・未確認》
《出身世界・未確認》
《帰還意思・未確認》
最後。
《現在の本人選択》
ノノの指が止まる。
少し考えたあと。
《地下区画から出たい》
とだけ入力した。
それ以上は書かない。
現実世界へ帰りたい。
異世界に残りたい。
そんな答えは、まだ本人が出していない。
セラが画面を見る。
「それでいいと思います」
ノノが頷く。
「うん」
その時、別の水晶板が光った。
深灰の森へ向かったヴェルニの部隊。
『ノノ、聞こえるか』
「聞こえるよ」
『足跡見つけた』
ノノの表情が変わる。
「人の?」
『たぶんな』
通信の向こうで、ヴェルニが何かを確認している。
『靴だ』
「王都の靴?」
少し間。
『いや』
ヴェルニの声が低くなる。
『こんなの、こっちじゃ見たことない』
水晶板へ映像が送られる。
泥の中に残った足跡。
靴底には細かく規則的な模様が刻まれている。
王都の革靴ではない。
ノノはすぐに記録した。
《候補B》
《痕跡確認》
《捜索継続》
一人目は見つかった。
だが。
捜索は始まったばかりだった。
コメント
1件
うわあ……272話、一気に読んじゃった。 地下の冷たい空気と、結界の向こうから聞こえたノックがすごく印象的で、その瞬間ゾクッとしたよ。 名前も帰る場所も思い出せないまま、あそこにいた女性。 「それでも大丈夫です」ってハレルが言った言葉、すごく沁みた。 reが「安全」と「休む」だけを案内したのも、何か優しくて。 まだ帰る場所が見つからない人たちの物語、これからも追いかけたいです。 お疲れさま、橘靖竜さん。