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眠狂四郎
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上野文
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こはる
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第十九章 それぞれの帰る場所編
第273話 深灰の森の少年
【異世界・深灰の森/東側区域・午後】
泥の上に残った足跡は、森の奥へ続いていた。
ヴェルニはしゃがみ込み、靴底の跡を指先でなぞる。
細かい溝が規則的に並び、中央には見慣れない図形が残っている。
王都で使われている革靴や軍靴とは明らかに違った。
「やっぱり、こっちの靴じゃないな」
後ろにいた王都軍の兵士が尋ねる。
「現実世界のものですか?」
「俺に聞くな。向こうの靴なんて知らねえ」
ヴェルニは立ち上がり、通信具へ手を添えた。
「ノノ。ハレルたちには送ったか?」
『うん。足跡の形も記録したよ。ハレルが“運動靴に近い”って』
「運動靴?」
『現実世界でよく使う靴だって』
ヴェルニはもう一度足跡を見る。
「なら候補Bで当たりかもしれないな」
『まだ決めないで』
「分かってる」
ノノの注意に答えながら、ヴェルニは周囲を見回した。
深灰の森。
高い木々が空を覆い、昼間でも薄暗い。
湿った土と獣の匂いが風に混じり、森の奥からは時折、名も分からない獣の鳴き声が聞こえてくる。
ヴェルニはアデルからこの森で起きたことを聞いている。
カシウスと黒い影に襲われ、カイトが命を落としたこと。
その遺体がカシウス側に奪われ、やがて別のものとして戦場へ戻されたことも。
そして、その姿と最後に戦った者の一人がヴェルニだった。
あの時、自分たちが倒したものを、カイト本人と呼んでいいのかは今でも分からない。
ただ、奪われた身体が敵の道具にされたという事実だけは残っている。
ヴェルニは森の奥へ視線を向けた。
今ここで探しているのは、過去に失われた者ではない。
まだ生きているかもしれない一人の少年だ。
「二列で進む。足跡を踏むな」
兵士たちが散開する。
「見つけても囲むな。武器も向けるな」
「了解」
「逃げた場合は?」
「追う。ただし距離を詰めるな」
「敵対した場合は?」
ヴェルニは少し考えた。
「まず避けろ」
兵士が意外そうな顔をする。
「隊長がそう言うんですか?」
「俺を何だと思ってる」
誰も答えなかった。
ヴェルニが振り返る。
「何で黙るんだ」
兵士たちは視線を逸らした。
◆ ◆ ◆
足跡は途中で一度消えた。
地面が硬い岩場へ変わったためだ。
だが数十メートル先で、今度は別の痕跡が見つかる。
細い枝。
折られた跡。
木の幹。
刃物で削ったような傷。
兵士の一人が触れる。
「獣ではありませんね」
「人だろうな」
少し先には、小さな窪地があった。
木の根元に枝を組み、上へ大きな葉を重ねただけの簡素な屋根が作られている。
中には誰もいない。
だが生活の跡がある。
乾いた木の実。
石で囲った小さな焚き火。
獣の骨。
そして。
空になった透明な容器。
ヴェルニが拾う。
薄い。
軽い。
王都では見たことのない素材だった。
『見せて』
ノノに言われ、ヴェルニが通信具の記録面へ容器を近づける。
『たぶん、ペットボトル』
「何だそれ」
『現実世界で飲み物を入れる容器。かなり普通のもの』
「じゃあ、ほぼ決まりか」
『候補としてはかなり強い。でも本人を確認するまでは確定しない』
「はいはい」
ヴェルニは容器を兵士へ渡した。
「記録袋へ」
その時、
背後の茂みが揺れた。
全員が振り向く。
ヴェルニが右手を上げた。
「武器を抜くな」
兵士たちが止まる。
木々の間、何かが走った。
人影。
小さい。
ヴェルニが目を細める。
「いた」
一瞬だけ見えた。
少年だった。
細身。
髪は伸びている。
服は汚れているが、上着もズボンも王都のものではない。
そして足元。
同じ靴。
少年は振り返らず、そのまま森の奥へ走る。
兵士の一人が追おうとする。
「待て」
ヴェルニが止めた。
「でも!」
「囲むなって言っただろ」
「逃げられます」
「足跡は残る」
ヴェルニは少年が消えた方向を見る。
「それに、あいつは俺たちを見て逃げた」
敵なら攻撃する。
森に慣れた盗賊なら、人数を数える。
だが少年の顔にあったのは。
恐怖だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王国警備局/臨時分析室】
ノノはヴェルニから送られた映像を止めた。
少年が木の間を横切った瞬間。
わずかに見えた横顔。
服。
靴。
背負っている小さな布袋。
ハレルたちは候補Aの女性を帰還保護区画まで送り届けたあと、分析室へ戻ってきていた。
ハレルが画面へ近づく。
「学生服じゃないけど、服は完全に現実側だと思う」
リオも映像を見る。
「年齢は?」
ノノが答える。
「十五、六歳くらいかな。正確には分からない」
サキが心配そうに言う。
「ずっと一人で森にいたの?」
「生活跡を見る限り、短くはないと思う」
ノノは発見された容器や焚き火跡を表示した。
「少なくとも、自分で水と食べ物を確保してた」
ハレルが尋ねる。
「保護できそう?」
イヤーカフからヴェルニの声が入る。
『簡単じゃなさそうだな』
「見つけた?」
『姿は見えてる』
◆ ◆ ◆
【深灰の森/東側区域】
ヴェルニたちは距離を空けたまま、少年を追っていた。
正確には追跡というより、足跡と物音を頼りに同じ方向へ進んでいる。
少年も完全には離れなかった。
時折、木の陰からこちらを確認している。
「警戒してるな」
兵士が言う。
ヴェルニが返す。
「当たり前だろ」
「話しかけますか」
「俺がやる」
少し開けた場所に出たところで、ヴェルニは足を止めた。
武器を腰から外し、地面へ置く。
兵士たちにも合図する。
「ここから動くな」
一人で前へ出た。
「聞こえるか!」
森の中へ声が響く。
返事はない。
「追いかける気はない!」
少し間を置く。
「飯もある。水もある」
茂みの向こう。
わずかに影が動く。
ヴェルニはさらに続けた。
「王都へ来いとも言わない。俺たちは、お前が誰なのか確かめに来ただけだ」
沈黙。
ノノが通信越しに小さく言う。
『ヴェルニ、“帰す”って言わないでね』
「言わない」
少年の声がした。
「……帰る?」
ヴェルニが目を細める。
声は近い。
「帰るって言った?」
「言ってない」
少し間。
少年が木の陰から顔を出した。
痩せている。
頬には細い傷。
年齢はやはり十代半ばほど。
ヴェルニは動かなかった。
「俺はヴェルニ。王都軍の人間だ」
少年は返事をしない。
「お前の名前は?」
少年の表情が強張る。
一歩下がった。
ヴェルニはすぐ話を変えた。
「今は言わなくていい」
少年が警戒したまま尋ねる。
「……日本?」
ヴェルニには意味が分からなかった。
だが通信の向こうでハレルが息を呑む。
『ヴェルニ』
「ああ。聞こえた」
ヴェルニは少年を見る。
「俺は日本って場所を知らない」
少年の顔から期待が消える。
「じゃあ、やっぱり……」
『代わって』
ハレルの声。
ヴェルニはイヤーカフを外し、手のひらへ置いた。
「向こうに、お前の言葉が分かる奴がいる」
少年が一瞬だけこちらを見る。
ヴェルニは通信具を地面へ置き、その場から数歩下がった。
ハレルの声が小さく流れる。
『聞こえますか』
少年の身体が止まった。
『俺は雲賀ハレル。日本から来ました』
少年が木の陰から完全に姿を出す。
「……本当に?」
『はい』
「東京、分かる?」
『分かります』
「新宿は?」
『知ってます』
少年の目が大きく開いた。
「山手線」
『あります』
「コンビニ」
『あります』
少年はしばらく何も言わなかった。
確かめている。
自分の記憶が偽物ではないか。
目の前の相手が嘘をついていないか。
「今……何年?」
ハレルが答えようとして止まる。
『その前に、一つ聞いてもいいですか』
「何」
『どれくらいここにいますか』
少年は視線を落とした。
「分からない」
『何日くらい?』
「数えてた」
少年は袖をめくった。
腕に、細い傷のような線が並んでいる。
一日ごとに刻んでいたのだろう。
途中から数が増えすぎている。
「途中で、やめた」
声が少し震えた。
「帰れないと思ったから」
ハレルはすぐに「帰れる」と言わなかった。
まだ何も確認できていない。
だから。
『まず、安全な場所へ行きませんか』
少年はヴェルニを見る。
『そこにいるヴェルニたちは味方です』
少年が警戒する。
「軍だろ」
『はい』
「前に、軍みたいな奴らに追われた」
ヴェルニの表情が変わった。
「どこの軍だ」
少年は首を振る。
「知らない。黒い服」
黒。
ヴェルニとハレルたちの間に、同じ嫌な予感が走った。
『何をされたんですか』
「捕まえようとされた」
少年は自分の胸元を押さえる。
「ここ、触られて」
「そのあと、頭の中で声がした」
ノノがすぐ記録を始める。
『何て?』
少年は顔をしかめた。
「名前を言えって」
◆ ◆ ◆
その瞬間。
森の奥で、低い唸り声が響いた。
少年が反射的に振り向く。
ヴェルニも同時に気づいた。
木々の間。
灰色の影が三つ。
グレイウルフ。
腹を空かせた獣たちが、ゆっくり距離を詰めてくる。
少年の顔色が変わる。
「下がれ」
ヴェルニが言った。
少年は逆方向へ走ろうとする。
だがその先にも一頭。
四頭目。
囲まれている。
王都軍の兵士たちが武器を取る。
ヴェルニが叫ぶ。
「少年の側へ撃つな!」
一頭が飛びかかった。
少年が身を伏せる。
ヴェルニの手から風が走る。
〈風刃・第三級〉
刃のような風がグレイウルフの横腹を打ち、少年から離れた方向へ吹き飛ばした。
別の二頭が左右から迫る。
兵士たちが前へ出る。
剣と結界。
一頭を止める。
もう一頭がヴェルニの死角へ回る。
「後ろ!」
少年が叫んだ。
ヴェルニは振り返らず、掌を後方へ向ける。
風圧が弾けた。
獣が地面へ転がる。
「見えてる」
ヴェルニが短く返す。
最後の一頭が少年へ向かった。
少年は足元の枝を掴み、構える。
長く森で生きてきた。
逃げるだけではなかった。
それでも相手は大きすぎる。
牙が迫る。
その前へヴェルニが入った。
炎が一瞬だけ走る。
獣が止まり、横へ跳ぶ。
ヴェルニは追撃しなかった。
「森へ帰れ」
低く言う。
残ったグレイウルフたちは仲間を引きずるように退き、木々の奥へ消えていった。
静かになる。
少年は枝を握ったまま、ヴェルニを見ていた。
「……何で」
「何が」
「何で助けた」
ヴェルニが眉を寄せる。
「助けに来たからだろ」
少年は答えなかった。
それだけのことが、信じられないようだった。
◆ ◆ ◆
ヴェルニは地面へ置いていた通信具を拾った。
「怪我は?」
少年は首を振る。
「さっきの奴らには?」
少年の胸元を見る。
「黒い服の連中」
少し沈黙してから。
「逃げた」
「いつだ」
「分からない。かなり前」
「そいつら、今も探してると思うか」
少年の顔が強張った。
「たぶん」
ノノが通信から入る。
『ヴェルニ、長居しない方がいい』
「ああ」
ヴェルニは少年を見る。
「安全な場所へ行く」
「王都?」
「王国警備局だ」
少年が後ずさる。
「嫌なら無理には連れていかない」
ヴェルニはそう言ってから、少し考える。
「ただ、この森に残れば、さっきみたいな獣も来る。黒い連中がまた来る可能性もある」
「……帰してくれるの」
「それは俺が決めることじゃない」
少年が顔を上げる。
ヴェルニは通信具を指した。
「向こうの連中と、お前自身で決めろ」
イヤーカフからハレルの声が入る。
『帰りたいなら、その方法を探します』
少年は黙っている。
『でも、まず名前も身体も、今どういう状態なのかも確認しないと危険です』
「……また実験するの?」
『しません』
ハレルの声が少し強くなった。
『確認できないまま帰す方が危ないからです』
少年は長い間考えていた。
やがて。
握っていた枝を地面へ落とした。
「……行く」
ヴェルニが頷く。
「分かった」
「でも」
「何だ」
少年はヴェルニを見る。
「武器、近くに置かないで」
ヴェルニは腰の剣を外した。
近くの兵士へ投げる。
「これでいいか」
少年が少し驚く。
そして、小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・警察関連施設/臨時合同分析室・同時刻】
日下部が一件の記録を開いた。
「城ヶ峰さん」
城ヶ峰が振り向く。
「見つかったか」
「可能性が高いものが一件あります」
画面に古い病院記録が表示される。
約七年前。
地方都市の救急病院。
身元不明男性。
推定年齢四十代。
交通事故ではない。
事件でもない。
夜間、病院近くの公園で倒れているところを発見された。
所持金なし。
身分証なし。
そして、保護時の服装。
「何だこれは」
木崎が画面を見る。
「衣装か?」
「当時の病院職員も、最初はそう考えたようです」
日下部が記録を読む。
厚手の長衣。
革製の腰帯。
金属を使わない留め具。
手縫いの靴。
そしてポケットから見つかった小さな硬貨。
日本のものではない。
表面には。
王都イルダで使われている紋章に似た刻印。
城ヶ峰の目が細くなる。
「現在は?」
「生存しています」
木崎が振り向く。
「今どこだ」
日下部が次の記録を開いた。
「保護された後、身元不明のまま支援施設へ移され、その後――」
画面を見直す。
「現在は、関東圏の福祉施設で生活しています」
城ヶ峰がすぐに立ち上がる。
「所在を確認しろ」
「はい」
「ただし」
日下部が顔を上げる。
城ヶ峰は続けた。
「いきなり異世界の話をするな」
「今の生活を先に調べる」
木崎が頷く。
「七年もこっちにいるなら、もう生活ができてる可能性もあるからな」
「ああ」
本人がどこから来たのか。
そして、今。
どこへ行きたいのか。
現実側でも、最初の候補者が見つかろうとしていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・深灰の森】
王都軍の一行が帰路につく。
少年はヴェルニたちから数歩離れた場所を歩いていた。
まだ完全には信用していない。
だが逃げもしない。
ノノが通信越しに尋ねる。
『名前は、まだ聞かなくていいよ』
ヴェルニが答える。
「分かってる」
少年がその会話を聞き、少しだけ顔を上げた。
そして自分から言った。
「……悠真」
ヴェルニが振り向く。
少年は目を合わせないまま続ける。
「俺の名前」
「悠真?」
「佐野悠真」
通信の向こうで、ノノが記録する。
『佐野悠真』
『本人申告として記録するね』
少年――佐野悠真が、小さく尋ねた。
「日本に……まだ俺の家、あるかな」
ヴェルニは答えなかった。
代わりに。
ハレルの声が通信から届いた。
『調べます』
悠真がイヤーカフを見る。
『家族も、住所も、あなたがいなくなってから何があったのかも』
少し間を置く。
『全部確認します』
悠真はしばらく黙ったあと。
「……うん」
とだけ答えた。
森の出口はまだ遠い。
それでも。
一人で歩いていた時とは違っていた。
コメント
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もう、このエピソードめっちゃ良かった…!悠真くん、どんだけ一人で頑張ってきたんだよ。傷跡まで刻んでたのか…って思ったら胸が痛くなった。でもヴェルニの「助けに来たからだろ」が刺さる。パーフェクトにヒーローしててかっこよすぎる。ノノやハレルも含めて、チーム全体で悠真を包み込もうとしてる感じが伝わってきた。この子、絶対無事に帰してやってほしい。続きが待ちきれん!