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Side佐久間
店の照明は、わざとらしいくらいに暗い。
でもそのくらいがちょうどいい。顔の表情も、声の揺れも、なにかと隠せるから。
俺が働くこのラウンジバーは、駅から少し外れた路地にある。客層は静かめで、常連が多い。
「サクくん、今日も元気だね」なんて言われるたび、営業スマイルで返す。ほんとは、疲れてる日だってあるけど、笑っとけばなんとかなる。
店の中では“サク”って呼ばれてる。名札にもそう書いてある。
ここの店の全員の名札にあだ名が入ってる。
カクテルグラスを下げながら、ふとカウンター越しに客の笑い声が聞こえてくる。
俺は、誰とでも気さくに喋れるし、接客も嫌いじゃない。
むしろ、好きだ。誰かの心を
ちょっとでも軽くできるなら、それでいい。
だからラウンジで働きはじめた。
目立ちすぎず、それでも人と関われるこの場所が、俺にはちょうどよかった。
意外と合ってたみたいで、もう何年もここで楽しく働かせてもらってる。
最初はホールだけだったけど、いまじゃカクテルも普通に作る。
あの細かいレシピとか、色のバランスとか、俺、わりと得意なんだよね。
シェイカーを振るリズムとか、注ぐときの手の角度とか、一度ハマるとずっと練習しちゃうタイプでさ。
お客さんが「美味しい」って笑ってくれると、やっぱり嬉しい。
甘めが好きな人にはベリー系のカクテルを。
仕事帰りっぽいスーツ姿には、ドライに仕上げたジントニック。
そうやって、言葉じゃない“気分”を見て作るのが、俺なりのやり方。
「今日もありがとう、また来るね」って言葉が、何よりの報酬だ。
―――――――ドアが開いた音に、自然と身体が反応する。
顔を上げると、スーツ姿の男たちが4人。ちょっと堅めの雰囲気。
──ラウンジに“飲み”って感じじゃないな。どっちかっていうと、打ち合わせの流れで軽く1杯ってとこか。
「いらっしゃいませ」
俺はいつものように軽く笑って、すっと会釈する。
客の空気をざっくりと見極めて、奥の静かなボックス席に案内することにした。
(この空気……会議終わりかな。だったら、こっちの席のほうが落ち着けるよね)
歩きながら人数と雰囲気を確認しつつ、自然に足を止める。
「よろしければ、こちらへどうぞ。少し静かめの席になりますが、お話しやすいかと思います」
先頭の男が「助かるよ」と小さくうなずく。その隣の男がふっと笑って目を細めたけど、俺は気にせずメニューを手渡す。
全員が席についたのを見計らって、俺はにこやかに言葉を添える。
「本日のおすすめは、フレッシュのキウイを使ったモヒートと、自家製のジンジャーシロップを使ったハイボールです。ノンアルコールもご用意できますので、お気軽にお申しつけください」
いつものように、滑らかに。明るく。
けど──視線を流した先に、ふと、見慣れた輪郭が映った。
……あ。
目が合いそうになって、慌てて視線を外す。
けれど、見間違えるはずがない。
(阿部……ちゃん?)
──なんで、ここに。
思考が一瞬、止まった。
でも、顔には出さない。声も変えない。
ただの店員として、この場をこなす。それが今の俺の役目だから。
「ご注文の際にお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
ほんのわずかに頭を下げて、背筋を伸ばしたまま、その場を離れた。
いつも通りの足取り。けれど、心臓の音だけが妙にうるさかった。
―――――――――――
カウンターに戻ると、自然といつもの作業に手を伸ばしていた。
グラスを拭いて、ボトルの位置を整えて、次のオーダーに備える──それだけのはずなのに、思考はもう遠く、あの頃へと引き戻されていた。
学生時代。
普段の俺は、今と変わらず明るくて、にぎやかで、みんなを笑わせてばっかりだった。
でも、あの日は違った。なんだか妙に疲れてて、笑うのも少し面倒で。
(あれ、もしかして俺……無理してたのかな)
誰にも見せない“素の自分”が、うっすらと自覚できてしまった日だった。
うまく話せない自分、ひとりでいると落ち着くこと、周りに合わせすぎて少しずつ磨り減ってること。
いつも通りの笑顔が、あの日はちょっとだけ重たかった。
そんな時、なんとなく立ち寄ったのが──図書館だった。
教室とは違う静けさ。
誰にも話しかけられない安心感。
その空間に、ただ“いるだけ”で呼吸が楽になる気がして、俺は無意識に足を運んだんだと思う。
冷たいけど落ち着く空気。背表紙がずらりと並ぶ棚の間を、なんとなく歩いていた。
勉強なんて得意じゃないし、活字もそんなに好きじゃない。
でも──たくさんの本に囲まれて、一つだけ、なんとなく目につくタイトルがあった。
難しそうでもない、でもちょっと意味深で。
意味もわからず、表紙だけで選んだそれを、俺はふと手に取った。
そのときだった。
「──その本、面白いよ」
やさしい声が、すぐ隣から聞こえた。
驚いて顔を向けると、そこには眼鏡をかけた同級生──阿部くんがいた。
同じクラスだけど、あまり話したことのなかった、落ち着いた雰囲気の、賢そうな男の子。
「あ……そうなんだ?」
間の抜けた返事しかできなかった俺に、阿部くんはにこっと笑って言った。
「言葉の選び方がきれいでさ。たぶん佐久間くん、好きだと思う」
なんで名前を知ってたのかもわからなかったし、
なんでそんなふうに言われたのかも、よくわからなかった。
でも──その一言が、俺の胸にやたらと残った。
それから、気がつけば図書館で会うたびに、俺たちはよく本の話をするようになっていた。
活字が苦手な俺は、途中で読むのをやめちゃったり、内容がよく分からなくて投げ出したくなることもあったけど──
そんなときは、阿部くんが隣で丁寧に教えてくれた。
「この章はね、こういう比喩が使われてて、作者の意図はたぶん……」
「つまりこれは、こういうこと?」
「そう、それ!」
俺は要約だけ聞いて分かった気になって、阿部くんはそれを笑いながら許してくれて。
そうして少しずつ、他愛ない話も増えていった。
好きな食べ物、最近の授業、放課後どこで時間を潰してるか──
話すことはほんとに他愛ないのに、なんであんなに楽しかったんだろう。
いつからか、呼び方も自然と変わっていた。
「なあ阿部ちゃん、こっちのも読んだ?」
「うん、読んだ。──佐久間も読む?」
まるで、前からそう呼び合っていたかのように。
俺たちは、気づかないうちに距離を縮めていた。
ある日、並んで本を読んでいたとき、ふと手が触れた。
何でもない偶然。でも、その瞬間だった。
俺は、自覚してしまったんだ。
ずっと曖昧にしてたものが、はっきりと、輪郭を持って胸の奥に浮かび上がった。
(……俺、この人のこと──)
心臓が跳ねた。
手を引っ込めるのが一瞬遅れて、変に意識してしまったのが自分でも分かって、焦った。
阿部ちゃんはいつも通りの表情で、「あ、ごめん」と笑ってたけど──
それが逆に、苦しくて仕方なかった。
現実は、そんな気持ちを受け入れてくれるほど、やさしくない。
教室には日常があって、クラスメイトの目があって、「男同士」という壁があって。
どんなに自然に過ごせていても、その気持ちだけは、間違いのような気がしてならなかった。
怖かった。
これ以上この距離を縮めたら、なにかが壊れてしまう気がした。
だから、卒業と同時に、俺は逃げた。
理由も言わずに、連絡も絶って。
──あの図書館で交わした、たくさんの言葉と時間を、なかったことにした。
阿部ちゃんは、きっと訳が分からなかったと思う。
でも、俺は、あのとき──それ以外の選択が、できなかった。
―――――――――
グラスを拭きながら、ふと目線を上げると──阿部ちゃんがいた。
静かに、けれど真剣に、メニューの文字を追っている。指先でグラスの縁をなぞりながら、時折、眉間に皺を寄せる仕草は昔と変わっていない。
けど、あの頃よりずっと──
(……かっこよく、なったなぁ)
スーツの似合う落ち着いた大人になっていて、どこか距離があるようにも見える。
あの図書館で肩を並べていた頃とは違う時間を、ちゃんと生きてきたんだな、って思う。
目が合いそうで、合わない。
なのに、不思議と目を逸らせなかった。
──そのときだった。
「すみませーん、注文いいですかー?」
声がして、はっと現実に引き戻される。
「あ、はい。すぐ伺います」
プロの顔を貼りつけて、オーダーを取りに向かう。
背筋を伸ばし、呼吸を整えて。
──ほんの少しだけ、心臓の鼓動が速くなっているのを、誤魔化しながら。
「阿部くん。好きな物を飲みたまえ」
どこか重々しく、それでいて柔らかい口調の年配の男性の声が響く。
カウンター越しに目を向けると、あの集団の一人が、軽く笑いながら阿部ちゃんにメニューを手渡していた。
「じゃあ……このノンアルコールカクテルを」
静かにそう答える阿部ちゃんの声は、変わらず落ち着いていて、穏やかだった。
「おや、飲まないのかい?」
「はい。ぜひ今回の研究の成果を、しっかりとお伝えしたい為、素面で対応したいのです」
「ほう。そうかそうか……それは素晴らしい。君の研究成果、どれほど楽しみにしていたか」
言葉を交わすたびに、阿部ちゃんの丁寧な人柄がにじみ出ていた。
昔と同じ、真面目で誠実で、誰に対しても誠意をもって接するその姿勢。
(……阿部ちゃんの、そういうとこ──変わってないな)
言葉にはしないけれど、胸の奥にじんわりと温かさと切なさが混ざる。
思わず視線を逸らしそうになるけど、逸らせなくて。
それでも、こちらから名を呼ぶことなんて、できるはずもなく。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
静かにそう声をかけると、メニューから顔を上げた阿部ちゃんと、ふと目が合った。
一瞬、時が止まったような気がした。
でも──阿部ちゃんは、何も変わらない表情で、ただいつものように、礼儀正しくこう言った。
「ノンアルコールの……柚子ジンジャー、お願いします」
まっすぐな声。
迷いも、動揺も、なかった。
「かしこまりました」
いつも通りの接客スマイルでうなずき、すぐにその場を離れる。
カウンター席に戻りながら、胸の中に小さな空洞ができるのを感じた。
(……そう、だよな。覚えてないよな)
今の俺は、当時の“佐久間”とはまるで違う。
髪型も、雰囲気も。
たった一時図書館で話していた程度の関係。ただそれだけ。
(それに……この想いは、もう俺の中で終わったものだ)
自分に言い聞かせるように、氷をすくい、グラスに注ぐ。
柚子のシロップを量って、ジンジャーエールを静かに注ぐ。
シュワッという炭酸の音に、ほんの少し、気持ちを重ねる。
──揺れては、消えていく泡のように。
俺の気持ちも、とうに消えてしまったはずだったのに。
何事もなかったように、会話は進み、笑い声が響き、グラスが傾けられ、時間は流れていった。
阿部ちゃんは、ただの“客”としてそこにいた。
俺も、ただの店員として、それ以上でもそれ以下でもなく、いつも通りの接客をこなした。
──そして、ラストオーダーの時間が来る頃、スーツ姿の4人はゆっくりと席を立った。
「ごちそうさまでした」
「落ち着いた良い店ですね、また来ますよ」
リーダー格らしい男性がそう言ってくれたのを、俺は営業スマイルで受け止めた。
「ありがとうございます。またのご来店、お待ちしております」
いつも通りの、きれいな挨拶。
でもその一言に込めた感情は、たぶん、誰にも気づかれなかった。
阿部ちゃんは、最後までこちらを振り返ることもなく、仲間たちと談笑しながら、ゆっくりと店を後にした。
ドアが閉まる音がした瞬間──
何かが、胸の奥で静かに終わった気がした。
(……きっと、もう来ないだろう)
阿部ちゃんはもう、俺の知らない未来を歩いてる。
俺が知っていたあの頃の阿部ちゃんじゃないし、俺ももう、あの頃の佐久間じゃない。
だからこれは、ただのすれ違いだったんだ。
偶然、同じ空間にいた、だけの話。
(さようなら……阿部ちゃん)
口には出せないその言葉を、心の中でそっとつぶやいた。
やけに静かになったラウンジの空気の中、グラスを拭く手だけが、やけに丁寧だった。
――――――――――
──その夜、ドアのベルが鳴った瞬間、息が止まりそうになった。
スーツ姿。柔らかい物腰。どこか変わらぬ静けさをまとった横顔。
見間違えるはずがない。
数日前、「もう来ない」と心の中で別れを告げたはずの、その人が──また、ここにいた。
(……なんで。どうして)
気づかれていないはずの関係に、もう一度触れられる恐怖と、同時に押し寄せるわずかな期待。
感情がぐしゃぐしゃに混ざって、でも表に出すことは許されなくて。
プロの顔を貼りつけたまま、俺は淡々とカウンター席へと彼を案内した。
「こちらへどうぞ。お一人ですか?」
「はい。大丈夫です、一人です」
変わらない声。変わらない微笑み。
でも俺だけが、違う時間の中に取り残されたみたいだった。
阿部ちゃんが椅子に腰を下ろすのを見届けて、俺はいつものように手を前に揃えて微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
言えた。声は震えてない。目も逸らさなかった。
けど、鼓動だけはごまかせない。胸の奥で、痛いくらい跳ねていた。
「この間来た時は飲まなかったから──」
ふと阿部ちゃんがメニューから顔を上げて、目を細めて笑った。
「美味しいおすすめのカクテル、ありますか?」
「えっと……今の季節でしたら、柚子とローズマリーを使ったジントニックがおすすめです。さっぱりしていて、食後にも飲みやすいですよ」
努めて平静に。いつも通りに。
手慣れた口調でそう伝えると、阿部ちゃんは少し驚いたように眉を上げた。
「じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」
ひと呼吸置いて、席を離れようとしたそのとき、阿部ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「……いい雰囲気のお店ですね」
その言葉は、ただの社交辞令にも聞こえたし、何かを探るようにも聞こえた。
目を合わせるのが、怖かった。
「ありがとうございます。また、ゆっくりしていってください」
深くは聞かず、深くは踏み込まず。
グラスを手にした指先が、ほんのわずかに震えていることに、俺自身だけが気づいていた。
氷の音が、静かな夜に優しく響く。
シェイカーを振る手に集中しながらも、意識の半分はカウンターに座る“その人”の存在に引っ張られていた。
ローズマリーの香りを立たせるように一瞬だけ手首を返し、そっとグラスに注ぐ。
きれいな気泡が音もなく上がっていくのを見届けてから、トレイにのせてカウンターへ向かった。
「お待たせしました。柚子とローズマリーのジントニックになります」
「ありがとうございます」
グラスを受け取った彼が、ひと口飲む。
「……おいしいですね。香りがいい」
「ありがとうございます。ローズマリー、強すぎないようにバランス見てるんです」
「なるほど、たしかに。強すぎるとクセになりすぎちゃいますもんね」
「はい。香りで飲んでもらうような感覚で、ちょっとだけ印象に残るようにしてます」
言葉を交わすたびに、胸の奥に懐かしい感覚がよみがえる。
図書館で、並んで読んだ本の話。
活字が苦手な自分に、丁寧に説明してくれたあの時間。
「……なんだか、不思議ですね」
「え?」
「こうして、たまたま入ったお店で、落ち着いて話せる人に出会えるなんて」
「……そう、ですね。自分も……そんなふうに言ってもらえると、嬉しいです」
たわいのない会話。名前も、過去も、交わさない。
でも、そのどれもが、どこか懐かしくて、くすぐったかった。
何気ない会話がひと段落して、ふとした沈黙が落ちた。
その静けさの中、彼はグラスの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、失礼かもしれませんが」
「はい?」
「お名前、うかがってもいいですか?」
その一言に、喉がきゅっと詰まる感覚がした。
こんなにも優しく、自然に聞かれたのに、答えがすぐには出せなかった。
──名前。
ほんの一瞬で、いろんな記憶が駆け巡る。
図書館で笑い合った日々、ふと手が触れたあの瞬間、伝えられなかった気持ち、そして──逃げた自分。
今さら、本当の名前を口にするなんて、おこがましい。
あの頃の気持ちは、とっくに置いてきたはずだった。
「……“サク”です」
そう言って、胸元の名札を、少しだけ指で示した。
「そうですか。……“阿部”です。よろしくお願いいたします」
彼は驚く様子も見せず、穏やかに笑って名乗った。
まるで、何も知らないふりをしてくれているような、そんな優しさだった。
「こちらこそ。ごゆっくり、お過ごしください」
言葉を交わす声は平静でも、胸の奥では、またさざ波のような想いが揺れていた。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
そう言って、扉が閉まるのを見届けた瞬間。
張りつめていた糸が、ぷつんと切れた。
カウンターに立ち尽くしたまま、何もできずに、しばらくその場にいた。
そして、ふらつく足をひきずるようにして、バックヤードの壁際に身を預ける。
へなへなと、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
──なんで、名前を偽ったんだろう。
──どうして、他人のふりなんかしてしまったんだろう。
顔を手で覆って、うつむく。
(……昔のことなのに)
もう終わったはずの想いだった。
何年も前に、自分で終わらせたはずだった。
なのに、たった数分話しただけで、こんなにも胸が苦しくなる。
「サクです」なんて、何食わぬ顔で言いながら、
本当は、心の中で叫んでた。
──“俺だよ、佐久間だよ”って。
でも言えなかった。怖かった。
再会してもなお、俺はずっと逃げてる。
胸の奥にずっとしまっていた、あの頃の気持ち。
時間が経てば消えると思ってたのに──
名前を呼ばれなかっただけで、涙が出そうになるなんて。
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